宗教には強制があってはならない。
投稿者: ecebuta 投稿日時: 2006/02/14 03:43 投稿番号: [2798 / 4578]
ナイフを首元に突きつけて「宗教には強制があってはならない。」って言うのがムハンマドのやり方でした。
<イスラム教の神話>
けれども、なぜ、イスラム教の影響下に入ると、そこまで戦闘的になるのでしょうか?一般のマスリムの人々に接したことがある人は、「彼らは攻撃的どころか、とても友好的で、愛情豊かである。」と答えます。そしてイスラム教を紹介するホームページを一瞥しても、そのような印象でした。そして、イスラム教は、弁証として次の五つのことを挙げます。
1.イスラム教は、愛の宗教である。
2.イスラム教は、平和の宗教である。
3.私たちは唯一神アラーを信じており、これは聖書の神である。
4.イエスは、モハメッドと並んで偉大な預言者である。
5.コーランは聖なる書物である。
1つ目の「愛の宗教」ですが、ムスリムが愛情豊かというのは、人間の「肉」から来ているもので、それはヒンズー教徒、仏教徒、その他の宗教を信じている人たちも持っているものです。けれども、イスラム教の信仰の中では、「愛」という概念はありません。
聖書では、主イエスさまが、もっとも大事な戒めとして、「神を愛し、そして自分自身のように隣人を愛する。」と言われました。けれども、コーランの中には、「アラーを愛する」という言葉はいくつかありますが、愛することについては何ら書かれていません。したがって、ここで問題視されなければいけないのは、やはり「霊」であります。
彼らがアメリカやイスラエルに対する憎悪を見ると、尋常ではありません。イスラエル・パレスチナ問題においては、パレスチナ人によるリンチの仕方の野蛮さ、世界貿易センターが崩れ落ちたのを喜び叫ぶ彼らの姿など、悪魔的でさえあります。
2つ目の「平和の宗教」ですが、彼らが基調としているのは、「平和の家」と「戦争の家」の二つであります。「平和の家」は、ムスリム教徒で構成されているものであり、それに戦いを挑む「戦争の家」には、ユダヤ人、クリスチャンなど、非イスラム教徒によって構成されています。したがって、彼らは、非イスラム教徒を平和の家を脅かす集団と位置付けているわけで、「戦争の家」に自分たちが戦いを挑んでも、それは平和のためである、ということになります。
3つ目の「アラーが聖書の神である」というのは、神話です。これはイスラム教徒だけでなく、一般にも信じられていることですが、まったく異質のものです。
モハメッドが生きていた、7世紀のアラビア地方では、アニミズムが非常に盛んでした。実に360の神がいました。メッカでは、黒い隕石がカーバの中に安置され、これが「アラー」でした。これは月の神として拝まれ、祈られていました。モハメッドは、ユダヤ教やキリスト教(と言っても異端のグノーシス主義)にも触れて、359の神々を排除して、この一つの神「アラー」のみを神としました。
したがって、彼らが信じているアラーは、聖書の神ではありません(※1)。これは、ギリシヤ神話に出てくるたくさんの神々から、ゼウス神だけを拝んでいるのと同じです。あるいは、私たち日本人ならば、神道の中にある数々のカミから、天皇を祭り上げて、天皇に対して絶対忠誠を強いさせた国家神道にきわめて似ています。
モスクの中で聞こえることばで、「アラーは、さらに偉大なり」というものがあるそうです。もっとも偉大なのではなく、より偉大(greater)と言っているそうです。これは、ユダヤ人やクリスチャンのカミよりも偉大である、ということが暗示されているそうで、そうすると、イザヤ書14:13−14にある、ルシファーの言葉と同じになっています
<イスラム教の神話>
けれども、なぜ、イスラム教の影響下に入ると、そこまで戦闘的になるのでしょうか?一般のマスリムの人々に接したことがある人は、「彼らは攻撃的どころか、とても友好的で、愛情豊かである。」と答えます。そしてイスラム教を紹介するホームページを一瞥しても、そのような印象でした。そして、イスラム教は、弁証として次の五つのことを挙げます。
1.イスラム教は、愛の宗教である。
2.イスラム教は、平和の宗教である。
3.私たちは唯一神アラーを信じており、これは聖書の神である。
4.イエスは、モハメッドと並んで偉大な預言者である。
5.コーランは聖なる書物である。
1つ目の「愛の宗教」ですが、ムスリムが愛情豊かというのは、人間の「肉」から来ているもので、それはヒンズー教徒、仏教徒、その他の宗教を信じている人たちも持っているものです。けれども、イスラム教の信仰の中では、「愛」という概念はありません。
聖書では、主イエスさまが、もっとも大事な戒めとして、「神を愛し、そして自分自身のように隣人を愛する。」と言われました。けれども、コーランの中には、「アラーを愛する」という言葉はいくつかありますが、愛することについては何ら書かれていません。したがって、ここで問題視されなければいけないのは、やはり「霊」であります。
彼らがアメリカやイスラエルに対する憎悪を見ると、尋常ではありません。イスラエル・パレスチナ問題においては、パレスチナ人によるリンチの仕方の野蛮さ、世界貿易センターが崩れ落ちたのを喜び叫ぶ彼らの姿など、悪魔的でさえあります。
2つ目の「平和の宗教」ですが、彼らが基調としているのは、「平和の家」と「戦争の家」の二つであります。「平和の家」は、ムスリム教徒で構成されているものであり、それに戦いを挑む「戦争の家」には、ユダヤ人、クリスチャンなど、非イスラム教徒によって構成されています。したがって、彼らは、非イスラム教徒を平和の家を脅かす集団と位置付けているわけで、「戦争の家」に自分たちが戦いを挑んでも、それは平和のためである、ということになります。
3つ目の「アラーが聖書の神である」というのは、神話です。これはイスラム教徒だけでなく、一般にも信じられていることですが、まったく異質のものです。
モハメッドが生きていた、7世紀のアラビア地方では、アニミズムが非常に盛んでした。実に360の神がいました。メッカでは、黒い隕石がカーバの中に安置され、これが「アラー」でした。これは月の神として拝まれ、祈られていました。モハメッドは、ユダヤ教やキリスト教(と言っても異端のグノーシス主義)にも触れて、359の神々を排除して、この一つの神「アラー」のみを神としました。
したがって、彼らが信じているアラーは、聖書の神ではありません(※1)。これは、ギリシヤ神話に出てくるたくさんの神々から、ゼウス神だけを拝んでいるのと同じです。あるいは、私たち日本人ならば、神道の中にある数々のカミから、天皇を祭り上げて、天皇に対して絶対忠誠を強いさせた国家神道にきわめて似ています。
モスクの中で聞こえることばで、「アラーは、さらに偉大なり」というものがあるそうです。もっとも偉大なのではなく、より偉大(greater)と言っているそうです。これは、ユダヤ人やクリスチャンのカミよりも偉大である、ということが暗示されているそうで、そうすると、イザヤ書14:13−14にある、ルシファーの言葉と同じになっています
これは メッセージ 2796 (aucuba_japonica さん)への返信です.
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