> 対話で和解
投稿者: marchingpeople 投稿日時: 2002/12/08 08:11 投稿番号: [1172 / 2453]
はじめましてf3nasaさん、コメントありがとうございます。
> イスラエルとアラブの経済格差に関する言及はこちらのレポート、
>
> The 1929 Riots
> http://www.eretzyisroel.org/~samuel/britainriots.html
> からも読み取れますが、結局のところ今も昔も変わらない問題の本質は、
> 食い詰めたアラブがその不満をユダヤにぶつけてるって事じゃないです?
すみません、自信がないのですがこのページ違う感じが。。。ただ、フセイニーを初めとする地元の実力者がシオニストの経済支配を恐れて、まさに「状況が創出されねばならなかった」んでしょうね。まあ、今のテロリスト幹部と思考的に大差がない。そして案外、人気もあるところが似ています(苦笑)。
> 人種や主義に関係無く、メシが食えてりゃ人間はかなりの事にも耐える事が出来ますが、
> 食い詰める状況に追い込まれたなら爆発するしかないですし。
>
> 食い詰めた者相手に理性的な対話を求めて解決策を探ったところで
> そりゃあ上手く行く訳が無いですよねぇ。
確か言えてます(笑)。アラブの大儀といっても、民衆レベルではそんなもんかも知れませんね。相手方もユダヤの大儀の名の下で貧困救済を行いましたが、大儀そのものには同胞からの強い反対もありましたからね。現在もロシアの貧困ユダヤ人を入植させて問題を複雑にしてますし。 「危ないから来るな」と諭したって、食い詰めてると理性的に考えられないかもしれませんね。まあ、アラブの大儀とかシオニズムもコミュニズムも、貧困対策としては難点があるってことで(^^;
余談ですが、イシュヴの経済的繁栄に惹きつけられたアラブ移民が食える状態だったのは、第一次大戦直前までかそれよりずっと以前の話でしょうか?
それで、本題の「対話」について紹介してくれたページの内容は(英語は苦手なもので斜め読みなのですが(^^; )、大英帝国の計画とロンドンのシオニスト公認の方針がぶつかった話で、「当初シオニスト側はアラブとの対話・・・」とは違う感じがするのですがどうでしょうか?
ちなみに、英国政府の方針にかかわらず、現地の英国将兵が反ユダヤっていうか親アラブだった話は、あまりアラブ側の文献には出てきません。だからこの点を想像してみると、親アラブの要因としては1757年のインドにおけるプラッシーの戦い以降、東インド会社の社員やインド総督なんかが贅沢三昧できたので、アラブで「夢よ、もう一度」っていう欲望があったと思うのですが、シオニストの解釈はどうなんでしょう?それからえっと、公認の方針とはワイツマンがバルフォア宣言に向けてまとめた草案ですよね?、質問ばかりですみませんm(_ _)m
> ちなみにこのページ、僕のボロい ThinkPad だとリンクを選択してから
> 表示されるまでに優に二分はかかります(汗
トラックポイントもそうですがキーボードが最高ですよね。うちではデスクトップを駆逐したほど活躍してくれて、液晶が黄色くなるまで使ってました。とりあえず、該当部分だけコピペしときます(笑)。
// アラブの暴動と英国の反ユダヤ政策 //
ユダヤの民族再興と祖国再建運動は、アラブの民族主義者によって妨害された。彼らの強烈な反ユダヤ感情は、1920年、1921年、1929年そして1931年から39年にかけて、反ユダヤ暴動となって爆発した。
アラブ暴徒はユダヤ人の輸送機関を襲い、苦心して育てた森や畑に火をつけ、ユダヤ人の町や村を攻撃し住民を殺傷した。ユダヤ側から全く挑発行為がないにもかかわらず、アラブはテロに訴えたのである。
当初シオニスト側はアラブとの対話で和解の道をさぐろうとしたが、結局うまくいかなかった。それ以後、シオニズムとアラブ民族主義は完全に離反し、いつ衝突してもおかしくない対立関係へとつき進んだ。
英国政府は、対立する二つの民族主義運動がそれぞれの目的を有することを認め、1922年委任統治領分割に続き、1937年には新たな分割を提案した。つまり、ヨルダン川以西の地域をユダヤ、アラブの二カ国に分割するのである。ユダヤ指導部はこの分割案を受け入れ、ユダヤ機関に英国当局との交渉権限を与えた。一方アラブ側は一切の妥協を拒み、いかなる分割にも反対した。
アラブの大規模な反ユダヤ暴動はやまず、英国当局は1939年5月に白書をだして、ユダヤ人移民の大幅制限に踏み切った。当時ヨーロッパではナチのユダヤ人抹殺政策が進行中で、英国当局の措置によって、ユダヤ人は逃げ場を失った。
この政策に抗して、指導者のダビッド・ベングリオン(後年初代首相)は、第二次大戦勃発後「我
> イスラエルとアラブの経済格差に関する言及はこちらのレポート、
>
> The 1929 Riots
> http://www.eretzyisroel.org/~samuel/britainriots.html
> からも読み取れますが、結局のところ今も昔も変わらない問題の本質は、
> 食い詰めたアラブがその不満をユダヤにぶつけてるって事じゃないです?
すみません、自信がないのですがこのページ違う感じが。。。ただ、フセイニーを初めとする地元の実力者がシオニストの経済支配を恐れて、まさに「状況が創出されねばならなかった」んでしょうね。まあ、今のテロリスト幹部と思考的に大差がない。そして案外、人気もあるところが似ています(苦笑)。
> 人種や主義に関係無く、メシが食えてりゃ人間はかなりの事にも耐える事が出来ますが、
> 食い詰める状況に追い込まれたなら爆発するしかないですし。
>
> 食い詰めた者相手に理性的な対話を求めて解決策を探ったところで
> そりゃあ上手く行く訳が無いですよねぇ。
確か言えてます(笑)。アラブの大儀といっても、民衆レベルではそんなもんかも知れませんね。相手方もユダヤの大儀の名の下で貧困救済を行いましたが、大儀そのものには同胞からの強い反対もありましたからね。現在もロシアの貧困ユダヤ人を入植させて問題を複雑にしてますし。 「危ないから来るな」と諭したって、食い詰めてると理性的に考えられないかもしれませんね。まあ、アラブの大儀とかシオニズムもコミュニズムも、貧困対策としては難点があるってことで(^^;
余談ですが、イシュヴの経済的繁栄に惹きつけられたアラブ移民が食える状態だったのは、第一次大戦直前までかそれよりずっと以前の話でしょうか?
それで、本題の「対話」について紹介してくれたページの内容は(英語は苦手なもので斜め読みなのですが(^^; )、大英帝国の計画とロンドンのシオニスト公認の方針がぶつかった話で、「当初シオニスト側はアラブとの対話・・・」とは違う感じがするのですがどうでしょうか?
ちなみに、英国政府の方針にかかわらず、現地の英国将兵が反ユダヤっていうか親アラブだった話は、あまりアラブ側の文献には出てきません。だからこの点を想像してみると、親アラブの要因としては1757年のインドにおけるプラッシーの戦い以降、東インド会社の社員やインド総督なんかが贅沢三昧できたので、アラブで「夢よ、もう一度」っていう欲望があったと思うのですが、シオニストの解釈はどうなんでしょう?それからえっと、公認の方針とはワイツマンがバルフォア宣言に向けてまとめた草案ですよね?、質問ばかりですみませんm(_ _)m
> ちなみにこのページ、僕のボロい ThinkPad だとリンクを選択してから
> 表示されるまでに優に二分はかかります(汗
トラックポイントもそうですがキーボードが最高ですよね。うちではデスクトップを駆逐したほど活躍してくれて、液晶が黄色くなるまで使ってました。とりあえず、該当部分だけコピペしときます(笑)。
// アラブの暴動と英国の反ユダヤ政策 //
ユダヤの民族再興と祖国再建運動は、アラブの民族主義者によって妨害された。彼らの強烈な反ユダヤ感情は、1920年、1921年、1929年そして1931年から39年にかけて、反ユダヤ暴動となって爆発した。
アラブ暴徒はユダヤ人の輸送機関を襲い、苦心して育てた森や畑に火をつけ、ユダヤ人の町や村を攻撃し住民を殺傷した。ユダヤ側から全く挑発行為がないにもかかわらず、アラブはテロに訴えたのである。
当初シオニスト側はアラブとの対話で和解の道をさぐろうとしたが、結局うまくいかなかった。それ以後、シオニズムとアラブ民族主義は完全に離反し、いつ衝突してもおかしくない対立関係へとつき進んだ。
英国政府は、対立する二つの民族主義運動がそれぞれの目的を有することを認め、1922年委任統治領分割に続き、1937年には新たな分割を提案した。つまり、ヨルダン川以西の地域をユダヤ、アラブの二カ国に分割するのである。ユダヤ指導部はこの分割案を受け入れ、ユダヤ機関に英国当局との交渉権限を与えた。一方アラブ側は一切の妥協を拒み、いかなる分割にも反対した。
アラブの大規模な反ユダヤ暴動はやまず、英国当局は1939年5月に白書をだして、ユダヤ人移民の大幅制限に踏み切った。当時ヨーロッパではナチのユダヤ人抹殺政策が進行中で、英国当局の措置によって、ユダヤ人は逃げ場を失った。
この政策に抗して、指導者のダビッド・ベングリオン(後年初代首相)は、第二次大戦勃発後「我
これは メッセージ 1169 (f3nasa さん)への返信です.
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