Re: どうしてクジラを捕ってはならないのか
投稿者: gondawara_yuji 投稿日時: 2008/06/30 18:35 投稿番号: [25867 / 62227]
☆assaraamaaleicomnjp>「どうしてクジラを捕って、殺して、食ってはならないのか?」
やっぱりよく分からないな。
「モラトリアムによって決定したから」というのは何の理由にもならない。
今となっては、クジラが絶滅しそうだとか、そう言う理由は(ある種をのぞいては)一切ない。
クジラがかわいそうだから、とか、動物愛の倫理に反しているからとかも、これは個人的なセンチメンタリズムである。
この個人的なセンチメンタリズムが悪いわけではない。このことは、人間として生きていく上では、非常に重要な大切な感情の一つであることは認めるけれども、それを例えば、クジラを食べて生きている人たちの実際的な説得力に照らし合わせてみれば、何の価値もない、ただの個人的、感情論に過ぎない。そう言う意味ではこのセンチメンタリズムという感情論は絶対的な反対理由にはなりえない。・・こんな事には何の普遍性もない。
そもそも、「クジラを殺してはならない」、と「クジラを殺すことも許される」は必ずしも二項対立的な相容れないものであるとする主張はおかしい。
世界にはクジラを食うことで生活をしてきた人たちが確実に存在するのだから、なるべく「殺してはならない」という禁止事項は無意味であるから考えの中に入れないで、「許される範囲」と言う中での「増減」という尺度で物事を考えるとおもしろいのかも知れないと思った。・・・というかそう考えるのが妥当だと思う。
そうすることで、社会的な矛盾もある程度解消し、対立関係のないより円滑な社会形成が望めるのではないだろうか、と思った。
その意味で考えると、絶滅する筈のないクジラをあたかも絶滅するかのごとく振れ周り、虚偽の事実を元に人身を騙し、捕鯨反対の方向に導いてくいなどという手法がいかに社会的対立を不必要に生み出しているか?正常な社会形成にとっていかに害悪な存在であるか?が分かる。
逆に、絶滅しないように有効に管理しながら、永続的な海洋資源として、食べたい人がもしいるのならば、そう言う人たちに供給していくようなシステムを作ることの方が、大切なのだと考えることが必要だと思う。もしも現行の商業資本主義的に、行き詰まることがあるとしたならば、それはそれで、その自然な淘汰として捕鯨文化を惜しみながら捨て去ってもいいとさえ思う。もちろんただ指をくわえてみるのではなくて、出来るだけの可能性を信じて、文化、技術の継承を試みるのは当然のことであるし、今行われていることも、実際そのことの一環だという認識はある。
間違っても、鯨食を理解しない文化を持った横暴な国々(や人々)の強制によって、自らのかけがえのない文化を捨て去っては、ご先祖様に申し訳が立たない・・・・と思う。<
________________________________________
■患者13812号>調査捕鯨の当初の科学目的は「自由研究」にあったのではなく、「商業捕鯨再開」のために必要な「鯨の急激な絶滅リスクを招かない商業捕鯨捕獲枠算出法」の開発のために「鯨の不確実性を生態の面から調査(払拭)しよう(つまり『生物学的特性値』を取得しよう)」にあったのであります。
◇な〜にが「あります」だ〜この脳足りんが〜 〜 \(^。^)/
テメー 脳味噌、有んのか???
ねぇだろ〜 今までのレス見れば明らかである、脳足りんってな!(^0^)/
■患者13812号>(なおちなみに鯨の不確実性を生息数の面から調査しようとしたのがSOWER目視調査)ところが1991年のRMP鯨資源管理方式の開発(合意)により「鯨の急激な絶滅リスクを招かない商業捕鯨捕獲枠算出」に「生物学的特性値」が一切、必要とはされないってことが分かった。<
◇「なおちなみに」? 何? テメーここは日本だ〜!
日本人に分らん言葉つかってんじゃねぇぞ!!
■患者13812号>つまりその1991年を境に「生物学的特性値」取得を科学的根拠としていた調査捕鯨の科学的目的が喪失してしまったということなのです。したがって調査捕鯨の科学的目的が喪失されてしまっている今現在“クジラを捕ってはならない”ってことになるのです。<
◇バカ野郎! 狂ったこと、言ってんじゃねぇよ!!
やっぱりよく分からないな。
「モラトリアムによって決定したから」というのは何の理由にもならない。
今となっては、クジラが絶滅しそうだとか、そう言う理由は(ある種をのぞいては)一切ない。
クジラがかわいそうだから、とか、動物愛の倫理に反しているからとかも、これは個人的なセンチメンタリズムである。
この個人的なセンチメンタリズムが悪いわけではない。このことは、人間として生きていく上では、非常に重要な大切な感情の一つであることは認めるけれども、それを例えば、クジラを食べて生きている人たちの実際的な説得力に照らし合わせてみれば、何の価値もない、ただの個人的、感情論に過ぎない。そう言う意味ではこのセンチメンタリズムという感情論は絶対的な反対理由にはなりえない。・・こんな事には何の普遍性もない。
そもそも、「クジラを殺してはならない」、と「クジラを殺すことも許される」は必ずしも二項対立的な相容れないものであるとする主張はおかしい。
世界にはクジラを食うことで生活をしてきた人たちが確実に存在するのだから、なるべく「殺してはならない」という禁止事項は無意味であるから考えの中に入れないで、「許される範囲」と言う中での「増減」という尺度で物事を考えるとおもしろいのかも知れないと思った。・・・というかそう考えるのが妥当だと思う。
そうすることで、社会的な矛盾もある程度解消し、対立関係のないより円滑な社会形成が望めるのではないだろうか、と思った。
その意味で考えると、絶滅する筈のないクジラをあたかも絶滅するかのごとく振れ周り、虚偽の事実を元に人身を騙し、捕鯨反対の方向に導いてくいなどという手法がいかに社会的対立を不必要に生み出しているか?正常な社会形成にとっていかに害悪な存在であるか?が分かる。
逆に、絶滅しないように有効に管理しながら、永続的な海洋資源として、食べたい人がもしいるのならば、そう言う人たちに供給していくようなシステムを作ることの方が、大切なのだと考えることが必要だと思う。もしも現行の商業資本主義的に、行き詰まることがあるとしたならば、それはそれで、その自然な淘汰として捕鯨文化を惜しみながら捨て去ってもいいとさえ思う。もちろんただ指をくわえてみるのではなくて、出来るだけの可能性を信じて、文化、技術の継承を試みるのは当然のことであるし、今行われていることも、実際そのことの一環だという認識はある。
間違っても、鯨食を理解しない文化を持った横暴な国々(や人々)の強制によって、自らのかけがえのない文化を捨て去っては、ご先祖様に申し訳が立たない・・・・と思う。<
________________________________________
■患者13812号>調査捕鯨の当初の科学目的は「自由研究」にあったのではなく、「商業捕鯨再開」のために必要な「鯨の急激な絶滅リスクを招かない商業捕鯨捕獲枠算出法」の開発のために「鯨の不確実性を生態の面から調査(払拭)しよう(つまり『生物学的特性値』を取得しよう)」にあったのであります。
◇な〜にが「あります」だ〜この脳足りんが〜 〜 \(^。^)/
テメー 脳味噌、有んのか???
ねぇだろ〜 今までのレス見れば明らかである、脳足りんってな!(^0^)/
■患者13812号>(なおちなみに鯨の不確実性を生息数の面から調査しようとしたのがSOWER目視調査)ところが1991年のRMP鯨資源管理方式の開発(合意)により「鯨の急激な絶滅リスクを招かない商業捕鯨捕獲枠算出」に「生物学的特性値」が一切、必要とはされないってことが分かった。<
◇「なおちなみに」? 何? テメーここは日本だ〜!
日本人に分らん言葉つかってんじゃねぇぞ!!
■患者13812号>つまりその1991年を境に「生物学的特性値」取得を科学的根拠としていた調査捕鯨の科学的目的が喪失してしまったということなのです。したがって調査捕鯨の科学的目的が喪失されてしまっている今現在“クジラを捕ってはならない”ってことになるのです。<
◇バカ野郎! 狂ったこと、言ってんじゃねぇよ!!
これは メッセージ 25860 (r13812 さん)への返信です.
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