北朝鮮の暗殺物語
投稿者: jouhoukikanin87 投稿日時: 2003/12/18 21:09 投稿番号: [96129 / 232612]
要するに金正男という存在そのものが他人が知っていてはならない人物であり、そのため金正日の立場はすでに「取り除かれた息子」と同じである。特に金正男の日本への密入国事件が膨れあがってからというもの、彼は北朝鮮に入ることもできずに、そのまま外国を流浪する浪人の身分となった。そんな境遇にいる金正男が、異母兄弟等と後継者闘争を繰り広げるという言及は、空想漫画のような話である。
政府は金容淳と高英姫の交通事故の背景については言葉を慎んだ。10月27日、朝鮮中央放送が「金容淳秘書がさる6月16日、交通事故で長期間入院治療中、10月26日に死亡した」と報道すると、丁世鉉・統一部長官は「人間として弔意を表す」と言及した。これに先んじ、丁長官は高英姫の事故と関連し、10月21日の国会での対政府質疑に対する答弁を通じて「高英姫は重病に伏しているものと理解する」と短く明らかにした。
北朝鮮労働党中央委員会と最高人民会議常任委員会は、10月27日付の訃告を通じて「金容淳中央委員会秘書は、6・15南北共同宣言の錦の御旗のもと、祖国統一の転換的局面を開くためにあらゆる情熱を捧げた」としながら「党と革命、祖国と民族の前に打ち立てた彼の功績は永遠に残っている」という公式の言及をするのみであり、金容淳の交通事故背景については一言も言及しなかった。
ならば、往来する車両がほとんど存在しない北朝鮮にて、金容淳と高英姫の交通事故はどのように起こりえたのであろうか。
北朝鮮高位層が交通事故で死亡した事例は今回が初めてではない。1980年代中頃、金チグ党中央委員会組織指導部第1部部長、李ファヨン組織指導部副部長が、深夜に乗用車を運転し帰宅する途中に交通事故で死亡した。当時、盧明根・党財政経理部は重傷を負い、その後遺症で長らく苦労した。彼らはみな乗用車に一緒に乗っている途中で災難に遭ったことが伝えられた。さらにこれ以前に、李ジョンモク外交部第1部部長もやはり、深夜に車を運転して帰宅する途中、交通事故で即死した。
また1987年、呉振宇・人民武力部長は明け方の3時ごろ、直接乗用車を運転して帰宅する途中で交通事故に遭い、ほとんど即死の状態から奇跡的に回復したことがある。いったい北朝鮮高位層間にどのようなことが行われているため、こうした交通事故が頻繁なのであろうか。
頭蓋骨が割れ、肋骨が折れた呉振宇
彼らの交通事故は100%、明け方の2〜3時ごろ、泥酔した状態で発生した飲酒運転事故であった。交通事故の原因はすべて同じであろう。だが飛ぶ鳥も落とすという朝鮮人民軍人民武力部長の呉振宇がなぜ、当番兵や運転手に任せずに、老体で直接ハンドルを握ったのだろうか?まずは前人民軍高位将校出身たちの証言をまとめ、呉振宇交通事故の転末を探ろう。
1980年10月の第6次党大会を通じ、金正日は朝鮮労働党中央軍事委員に選出された。これにより1974年に公式な後継者として指名された以後、軍に対する影響力までを確固として掌握するようになったのである。しかし金正日には越えるべき「山」がひとつあった。それが呉振宇であった。当時、呉振宇は軍の諸侯であった。呉振宇はパルチザン時代、金日成の当番病であり、金日成の前で向かい合ってタバコを吸うことができる唯一の人物だった。金正日がどんなに金日成の後継者とはいえ、呉振宇は手に余る相手であった。
金正日はこのころから呉振宇に「ニンジン」作戦を展開した。彼は呉振宇にフォード乗用車とベンツ-450型、ハンティング用の乗用車など最高級の自動車6台をプレゼントした。また「特閣」を含め秘密工事を専門に担当する社会安全部工兵1旅団を動員し、豪華な一戸建て住宅を建てた。呉振宇もやはり金正日が政治局常務委員になったので、彼に対する態度を変えはじめた。1980年10月の第6次党大会以後、北朝鮮権力の首脳部である政治局常務委員は、金日成、金一、呉振宇、金正日、李鍾玉ら5人だった。金正日は表面では呉振宇を尊敬しているように見せたが、あくまで信用しなかったのである。
こうするうちに1987年春、呉振宇が不意の交通事故に見舞われた。この事故で呉振宇は頭蓋骨が割れ、肋骨も折れて意識を失う重体に陥った。
1987年、北朝鮮は88オリンピックに対応して「89平壌世界青年学生祝典」を準備していた。当時、北朝鮮は平壌祝典に対応する光復道路建設で全国が騒々しかった。そんなある日の早朝、人民武力部長・呉振宇の家に電話がかかってきた。呉振宇が交通事故で平壌第1病院に入院しているというあわただしい電話だった。呉振宇は意識不明の状態にあった。命があるのが奇跡なほどであった。彼の妻が病院側から聞いた話はこうだった。
政府は金容淳と高英姫の交通事故の背景については言葉を慎んだ。10月27日、朝鮮中央放送が「金容淳秘書がさる6月16日、交通事故で長期間入院治療中、10月26日に死亡した」と報道すると、丁世鉉・統一部長官は「人間として弔意を表す」と言及した。これに先んじ、丁長官は高英姫の事故と関連し、10月21日の国会での対政府質疑に対する答弁を通じて「高英姫は重病に伏しているものと理解する」と短く明らかにした。
北朝鮮労働党中央委員会と最高人民会議常任委員会は、10月27日付の訃告を通じて「金容淳中央委員会秘書は、6・15南北共同宣言の錦の御旗のもと、祖国統一の転換的局面を開くためにあらゆる情熱を捧げた」としながら「党と革命、祖国と民族の前に打ち立てた彼の功績は永遠に残っている」という公式の言及をするのみであり、金容淳の交通事故背景については一言も言及しなかった。
ならば、往来する車両がほとんど存在しない北朝鮮にて、金容淳と高英姫の交通事故はどのように起こりえたのであろうか。
北朝鮮高位層が交通事故で死亡した事例は今回が初めてではない。1980年代中頃、金チグ党中央委員会組織指導部第1部部長、李ファヨン組織指導部副部長が、深夜に乗用車を運転し帰宅する途中に交通事故で死亡した。当時、盧明根・党財政経理部は重傷を負い、その後遺症で長らく苦労した。彼らはみな乗用車に一緒に乗っている途中で災難に遭ったことが伝えられた。さらにこれ以前に、李ジョンモク外交部第1部部長もやはり、深夜に車を運転して帰宅する途中、交通事故で即死した。
また1987年、呉振宇・人民武力部長は明け方の3時ごろ、直接乗用車を運転して帰宅する途中で交通事故に遭い、ほとんど即死の状態から奇跡的に回復したことがある。いったい北朝鮮高位層間にどのようなことが行われているため、こうした交通事故が頻繁なのであろうか。
頭蓋骨が割れ、肋骨が折れた呉振宇
彼らの交通事故は100%、明け方の2〜3時ごろ、泥酔した状態で発生した飲酒運転事故であった。交通事故の原因はすべて同じであろう。だが飛ぶ鳥も落とすという朝鮮人民軍人民武力部長の呉振宇がなぜ、当番兵や運転手に任せずに、老体で直接ハンドルを握ったのだろうか?まずは前人民軍高位将校出身たちの証言をまとめ、呉振宇交通事故の転末を探ろう。
1980年10月の第6次党大会を通じ、金正日は朝鮮労働党中央軍事委員に選出された。これにより1974年に公式な後継者として指名された以後、軍に対する影響力までを確固として掌握するようになったのである。しかし金正日には越えるべき「山」がひとつあった。それが呉振宇であった。当時、呉振宇は軍の諸侯であった。呉振宇はパルチザン時代、金日成の当番病であり、金日成の前で向かい合ってタバコを吸うことができる唯一の人物だった。金正日がどんなに金日成の後継者とはいえ、呉振宇は手に余る相手であった。
金正日はこのころから呉振宇に「ニンジン」作戦を展開した。彼は呉振宇にフォード乗用車とベンツ-450型、ハンティング用の乗用車など最高級の自動車6台をプレゼントした。また「特閣」を含め秘密工事を専門に担当する社会安全部工兵1旅団を動員し、豪華な一戸建て住宅を建てた。呉振宇もやはり金正日が政治局常務委員になったので、彼に対する態度を変えはじめた。1980年10月の第6次党大会以後、北朝鮮権力の首脳部である政治局常務委員は、金日成、金一、呉振宇、金正日、李鍾玉ら5人だった。金正日は表面では呉振宇を尊敬しているように見せたが、あくまで信用しなかったのである。
こうするうちに1987年春、呉振宇が不意の交通事故に見舞われた。この事故で呉振宇は頭蓋骨が割れ、肋骨も折れて意識を失う重体に陥った。
1987年、北朝鮮は88オリンピックに対応して「89平壌世界青年学生祝典」を準備していた。当時、北朝鮮は平壌祝典に対応する光復道路建設で全国が騒々しかった。そんなある日の早朝、人民武力部長・呉振宇の家に電話がかかってきた。呉振宇が交通事故で平壌第1病院に入院しているというあわただしい電話だった。呉振宇は意識不明の状態にあった。命があるのが奇跡なほどであった。彼の妻が病院側から聞いた話はこうだった。
これは メッセージ 96124 (seiron_893_seiron さん)への返信です.