大韓航空機撃墜操縦士インタビュー①
投稿者: rachi_yamero 投稿日時: 2003/10/20 02:40 投稿番号: [90548 / 232612]
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2003/10/17/20031017000078.html
ホーム>社会 2003.10.17(金) 19:55
大韓航空機撃墜した旧ソ連操縦士「モスクワが最終指示」
「当時としては民間機と識別することが難しかった。旅客機であるという事実を知っていれば、上部の撃墜命令を拒否していたでしょう」
「操縦士の私に直接的な発砲権はない。命令によってのみ可能です」
「7年間、サハリンの基地で勤務する際、500回以上に渡って米偵察機のソ連領空侵犯を阻止するため出撃し、警戒飛行をしました」
「大韓航空機は最後に炎に包まれ爆発しました。私が本当に旅客機を撃墜したとすれば、韓国の国民と遺族に心から謝罪します」
1983年、サハリン上空で当時のソ連の戦闘機による「大韓航空007便撃墜事件」が発生してから20年経った今年、大韓機を撃墜したソ連軍の操縦士、ゲンナジー・オシーポピッチ(59)さんが初めて韓国の記者とインタビューをした(インタビュー記事の全文は18日発売の月刊朝鮮11月号に掲載)。
この事件は、正規の飛行コースを逸脱し、ソ連の領空に侵入していた大韓航空007便が、戦闘機が発射したミサイルに撃たれ、乗客・乗員計269人全員が犠牲になるという驚くべき事故だった。
オシーポピッチさんはロシア南部の黒海に近いクラスノダール市から約150キロメートル 離れた「マイコフ」という小さな村に住んでいた。
約50あまりの家が集まっているこの田舎の村でオシーポピッチさんは、妻のリュードミラさんと2人で年金で生活する平凡な農夫として暮らしていた。オシーポピッチさんのきれいな白髪が印象的だった。
オシーポピッチさんは丸1日、朝鮮日報の記者と単独で会い、心のうちを包み隠さず吐露した。被害当事国の韓国人記者に会い、これまで20年間胸に秘めてきた悪霊と胸の痛みを洗い流すかのように、時には腹を立て、特には悲しみに沈みながら、悲痛な過去を思い出しては語った。
オシーポピッチさんはまだ、あの日の悪夢を隅々まで覚えていた。
「あの日の事件が私の人生を変えました。心は長い間押し潰されました。1日にウォッカを2本以上飲み、たばこも2箱以上吸ったりと辛い日々でした。うつ病になりもしました」
オシーポピッチさんは、軍人として命令を受け、任務を果たしたと考えたという。
「しかし、とんでもない事件になってしまったことが後で分かりました。世間が騒然となりました。大韓機を撃墜してから5日後に転出命令を受け、何も考えず、妻の実家のあるここに夜逃げ同然で来ました」
この事件でオシーポピッチさんの人生も一変したのだ。
「事件が起きた日は、戦闘操縦士の制服と軍靴を履いて勤務待機中でした。零時をちょっと過ぎた頃です。8500メートル上空から前方30キロメートル離れたところに飛行物体があるのを肉眼で確認しました。飛行機には点滅灯が点っていました」
「少し雲がかかっていましたが、確認することはできました。機内窓が見えましたが、窓の向こうで動く物体までは識別できませんでした。通常の旅客機に付けられている点滅灯が点滅していると、管制塔に報告しました」
しかし、オシーポピッチさんは「当時は米偵察機がしきりに出没し、軍部の空気も険しかった。サハリン周辺の上空では、米国がソ連の防空網と地上レーダー基地の情報入手に血眼になっていた」と明らかにした。
「文字通り戦場でした。私が勤務した7年間、米偵察機を監視し、領空を警戒飛行した回数だけで500回を超えます」
旅客機の撃墜を命じる1回目の指示が取り消され、誘導着陸の命令を受けたオシーポピッチさんは、旅客機に300メートル近くまで接近、大韓航空007便と同じ高度で飛行しながら、ライトで信号を送ったとし、翼の方にある警告灯を点滅させ、数回信号を送ったと話した。
「しかし、旅客機からは何の反応もありませんでした。地上管制塔から小型照明弾ミサイルの発射を命じられ、4回も発射しました。250発余の散弾を発射したと思います。それでも旅客機は何の反応も見せず、高度を上げたため、管制塔が撃墜命令を出しました」
「その瞬間、私は戦闘機の速度を上げ、旅客機の前を楕円を描きながら旋回した後、ミサイルを発射しました。ミサイルを発射した時、爆風のような爆発音と閃光のため、目を閉じずにはいられませんでした。0.5秒余のほんの一瞬でした」
「2発目のミサイルを発射した後、ミサイルが旅客機に命中したのを確認しまし\xA4
ホーム>社会 2003.10.17(金) 19:55
大韓航空機撃墜した旧ソ連操縦士「モスクワが最終指示」
「当時としては民間機と識別することが難しかった。旅客機であるという事実を知っていれば、上部の撃墜命令を拒否していたでしょう」
「操縦士の私に直接的な発砲権はない。命令によってのみ可能です」
「7年間、サハリンの基地で勤務する際、500回以上に渡って米偵察機のソ連領空侵犯を阻止するため出撃し、警戒飛行をしました」
「大韓航空機は最後に炎に包まれ爆発しました。私が本当に旅客機を撃墜したとすれば、韓国の国民と遺族に心から謝罪します」
1983年、サハリン上空で当時のソ連の戦闘機による「大韓航空007便撃墜事件」が発生してから20年経った今年、大韓機を撃墜したソ連軍の操縦士、ゲンナジー・オシーポピッチ(59)さんが初めて韓国の記者とインタビューをした(インタビュー記事の全文は18日発売の月刊朝鮮11月号に掲載)。
この事件は、正規の飛行コースを逸脱し、ソ連の領空に侵入していた大韓航空007便が、戦闘機が発射したミサイルに撃たれ、乗客・乗員計269人全員が犠牲になるという驚くべき事故だった。
オシーポピッチさんはロシア南部の黒海に近いクラスノダール市から約150キロメートル 離れた「マイコフ」という小さな村に住んでいた。
約50あまりの家が集まっているこの田舎の村でオシーポピッチさんは、妻のリュードミラさんと2人で年金で生活する平凡な農夫として暮らしていた。オシーポピッチさんのきれいな白髪が印象的だった。
オシーポピッチさんは丸1日、朝鮮日報の記者と単独で会い、心のうちを包み隠さず吐露した。被害当事国の韓国人記者に会い、これまで20年間胸に秘めてきた悪霊と胸の痛みを洗い流すかのように、時には腹を立て、特には悲しみに沈みながら、悲痛な過去を思い出しては語った。
オシーポピッチさんはまだ、あの日の悪夢を隅々まで覚えていた。
「あの日の事件が私の人生を変えました。心は長い間押し潰されました。1日にウォッカを2本以上飲み、たばこも2箱以上吸ったりと辛い日々でした。うつ病になりもしました」
オシーポピッチさんは、軍人として命令を受け、任務を果たしたと考えたという。
「しかし、とんでもない事件になってしまったことが後で分かりました。世間が騒然となりました。大韓機を撃墜してから5日後に転出命令を受け、何も考えず、妻の実家のあるここに夜逃げ同然で来ました」
この事件でオシーポピッチさんの人生も一変したのだ。
「事件が起きた日は、戦闘操縦士の制服と軍靴を履いて勤務待機中でした。零時をちょっと過ぎた頃です。8500メートル上空から前方30キロメートル離れたところに飛行物体があるのを肉眼で確認しました。飛行機には点滅灯が点っていました」
「少し雲がかかっていましたが、確認することはできました。機内窓が見えましたが、窓の向こうで動く物体までは識別できませんでした。通常の旅客機に付けられている点滅灯が点滅していると、管制塔に報告しました」
しかし、オシーポピッチさんは「当時は米偵察機がしきりに出没し、軍部の空気も険しかった。サハリン周辺の上空では、米国がソ連の防空網と地上レーダー基地の情報入手に血眼になっていた」と明らかにした。
「文字通り戦場でした。私が勤務した7年間、米偵察機を監視し、領空を警戒飛行した回数だけで500回を超えます」
旅客機の撃墜を命じる1回目の指示が取り消され、誘導着陸の命令を受けたオシーポピッチさんは、旅客機に300メートル近くまで接近、大韓航空007便と同じ高度で飛行しながら、ライトで信号を送ったとし、翼の方にある警告灯を点滅させ、数回信号を送ったと話した。
「しかし、旅客機からは何の反応もありませんでした。地上管制塔から小型照明弾ミサイルの発射を命じられ、4回も発射しました。250発余の散弾を発射したと思います。それでも旅客機は何の反応も見せず、高度を上げたため、管制塔が撃墜命令を出しました」
「その瞬間、私は戦闘機の速度を上げ、旅客機の前を楕円を描きながら旋回した後、ミサイルを発射しました。ミサイルを発射した時、爆風のような爆発音と閃光のため、目を閉じずにはいられませんでした。0.5秒余のほんの一瞬でした」
「2発目のミサイルを発射した後、ミサイルが旅客機に命中したのを確認しまし\xA4
これは メッセージ 1 (mitokoumon_2002 さん)への返信です.