閔妃暗殺の惨劇と朝鮮人部隊の参加を目撃
投稿者: netuzouhanntai 投稿日時: 2003/10/12 22:25 投稿番号: [89903 / 232612]
閔妃暗殺は三浦公使の指示による日本人の手によるものとされているが、朝鮮人の部隊も参加していたことはほとんどの書物で無視されている。この事件の最中王宮内に居たロシア人技師が、閔妃暗殺の惨劇と朝鮮人部隊の参加を目撃していた。下記の文は当時朝鮮を旅行していたロシアの軍人が聞き書きしたものである。
「朝鮮旅行記」 ゲ・デ・チャガイ編 井上紘一訳 1992 平凡社東洋文庫
『1895―1896年の南朝鮮旅行』の章 カルネイェフ(ロシア参謀本部中佐)
1895年11月26日に実行された王妃暗殺では、間違いなく大院君(国王高宗の父)がかなりの役割を演じていた。(中略)
午前3時、王宮を日本軍(守備隊)が包囲し始めた。日本軍の一部隊は北西門に配備され、北東門に集結したのは、日本人によって教育された朝鮮兵(訓練隊)約300人である。(中略)宮中では、日本軍と朝鮮軍の兵士によって王宮が包囲されたことが明らかとなるや否や、国王は前の農商務相李範晋に米国とロシアの公使館へ駆け込み、救援を求めるよう命令した。(中略)
午前4時過ぎ、最初の銃声を合図に数名の日本人が、差掛けはしごを伝って王宮の壁を北側からよじ登った。南壁をよじ登った者たちが銃撃で歩哨を追い散らして、正門を開けたので、正門の外に待機していた朝鮮兵が怒涛のごとく乱入した。一方、北門を押し破って侵入した日本軍や朝鮮軍の兵士らは、差掛けはしごを用いて北の小門を乗り越え、銃撃によって宮中の衛兵(侍衛隊)を追い散らした後に、門を開放して、王宮の北の部分を占拠した。王宮の中央部は日本人将校指揮下の朝鮮兵部隊が陣取り、国王の居間では、庭園に出る扉と宮殿の内部に通じる扉のそれぞれに、日本兵が二名ずつ立哨していた。王妃の離れが所在する中庭は、平服に軍刀を帯びる日本人で充満していた。彼らの何人かは、抜き身の刀を手にしていた。この群団の指揮者もやはり、長い刀を帯びる日本人だった。
彼らは中庭を走り回って、王妃の所在を聞き出せると判断される人々を捕まえては打擲するも、誰一人として彼らの求める情報を与えた者はいなかった。王妃が女官の間に身を隠しているに違いないと考えた日本人たちは、か弱い宮廷婦人を手当たり次第に殺しだした。日本人らは婦人たちに襲いかかり、王妃の引渡しを要求するのだった。王妃と全ての女官たちは口裏を合わせて、王妃はここにいないと答えていた。しかし、哀れなる王妃の神経がもはや耐え切れなくなって、彼女が廊下へ逃げ出すと、一人の日本人が脱兎のごとくその後を追い、王妃を捕まえ刺し殺した。しばらく経って、日本人らは殺害した王妃を近くの林に運び出し、灯油を振り撒いた上に火を放って焼却した。1895年11月26日の流血劇は、こうして幕を閉じた。
日本人らが自らの虐殺を実行していた頃、南門からは日本軍兵士とともに大院君が、そして彼とほぼ同時に三浦公使も王宮に入った。彼らは直ちに王の許に赴き、王妃からその称号を剥奪し、平民の身分に降格させることを宣する布告に署名するよう迫った。
<同書解説から>
特に印象に残ったのは、カルネイェフが伝える閔妃暗殺の現場報告である。これは恐らく、現場に居合わせて一部始終を見届けたロシアの建築家セレドニン・ソバチンに直接取材した聴書であろう。
(これはロシア軍参謀本部中佐の報告書であり、日本とロシアが朝鮮をめぐって厳しく対立していた当時の時代背景も考慮する必要がある)
この事件に朝鮮兵も参加していたことからも分かるように日朝だけの問題ではなく、朝鮮内部の主導権争いも複雑に絡み合っていたのである。閔妃はか弱い王妃ではなく、政敵を次々に葬っていた冷酷非情な権力者で、大院君とも激しく対立していた。
「朝鮮旅行記」 ゲ・デ・チャガイ編 井上紘一訳 1992 平凡社東洋文庫
『1895―1896年の南朝鮮旅行』の章 カルネイェフ(ロシア参謀本部中佐)
1895年11月26日に実行された王妃暗殺では、間違いなく大院君(国王高宗の父)がかなりの役割を演じていた。(中略)
午前3時、王宮を日本軍(守備隊)が包囲し始めた。日本軍の一部隊は北西門に配備され、北東門に集結したのは、日本人によって教育された朝鮮兵(訓練隊)約300人である。(中略)宮中では、日本軍と朝鮮軍の兵士によって王宮が包囲されたことが明らかとなるや否や、国王は前の農商務相李範晋に米国とロシアの公使館へ駆け込み、救援を求めるよう命令した。(中略)
午前4時過ぎ、最初の銃声を合図に数名の日本人が、差掛けはしごを伝って王宮の壁を北側からよじ登った。南壁をよじ登った者たちが銃撃で歩哨を追い散らして、正門を開けたので、正門の外に待機していた朝鮮兵が怒涛のごとく乱入した。一方、北門を押し破って侵入した日本軍や朝鮮軍の兵士らは、差掛けはしごを用いて北の小門を乗り越え、銃撃によって宮中の衛兵(侍衛隊)を追い散らした後に、門を開放して、王宮の北の部分を占拠した。王宮の中央部は日本人将校指揮下の朝鮮兵部隊が陣取り、国王の居間では、庭園に出る扉と宮殿の内部に通じる扉のそれぞれに、日本兵が二名ずつ立哨していた。王妃の離れが所在する中庭は、平服に軍刀を帯びる日本人で充満していた。彼らの何人かは、抜き身の刀を手にしていた。この群団の指揮者もやはり、長い刀を帯びる日本人だった。
彼らは中庭を走り回って、王妃の所在を聞き出せると判断される人々を捕まえては打擲するも、誰一人として彼らの求める情報を与えた者はいなかった。王妃が女官の間に身を隠しているに違いないと考えた日本人たちは、か弱い宮廷婦人を手当たり次第に殺しだした。日本人らは婦人たちに襲いかかり、王妃の引渡しを要求するのだった。王妃と全ての女官たちは口裏を合わせて、王妃はここにいないと答えていた。しかし、哀れなる王妃の神経がもはや耐え切れなくなって、彼女が廊下へ逃げ出すと、一人の日本人が脱兎のごとくその後を追い、王妃を捕まえ刺し殺した。しばらく経って、日本人らは殺害した王妃を近くの林に運び出し、灯油を振り撒いた上に火を放って焼却した。1895年11月26日の流血劇は、こうして幕を閉じた。
日本人らが自らの虐殺を実行していた頃、南門からは日本軍兵士とともに大院君が、そして彼とほぼ同時に三浦公使も王宮に入った。彼らは直ちに王の許に赴き、王妃からその称号を剥奪し、平民の身分に降格させることを宣する布告に署名するよう迫った。
<同書解説から>
特に印象に残ったのは、カルネイェフが伝える閔妃暗殺の現場報告である。これは恐らく、現場に居合わせて一部始終を見届けたロシアの建築家セレドニン・ソバチンに直接取材した聴書であろう。
(これはロシア軍参謀本部中佐の報告書であり、日本とロシアが朝鮮をめぐって厳しく対立していた当時の時代背景も考慮する必要がある)
この事件に朝鮮兵も参加していたことからも分かるように日朝だけの問題ではなく、朝鮮内部の主導権争いも複雑に絡み合っていたのである。閔妃はか弱い王妃ではなく、政敵を次々に葬っていた冷酷非情な権力者で、大院君とも激しく対立していた。
これは メッセージ 89871 (sinjin8888 さん)への返信です.