>>お前のこの発言は捏造だ6
投稿者: netuzouhanntai 投稿日時: 2003/10/05 17:40 投稿番号: [89310 / 232612]
―進歩派知識人、マスコミ人士への工作で度々名前が上がっていたのが、自
称梨花女子大卒、日本語による韓国の翻訳小説掲載の季刊誌「韓国文芸」の
編集兼発行人の全玉淑という女性であった。彼女は70年代始めから朴正煕
暗殺(79年10月)の前年頃まで日本で暗躍した。「PR雑誌の編集というの
は表向き。実は朴政権の放った対日工作員の一人でKCIA要員とも見ら
れ」(赤旗76・3・23)ており、「KCIAの撃った玉」(粒第27
号)。民間人レベルでの対日文化人・作家工作を担当し、日本の対韓世論を
好転させるための文化誌の発行を受け持った。(「これがKCIAだ」)。
粒第27号によると、「韓国文芸」は編集も印刷もすべて韓国でなされた上
で日本に持ち込まれ、大部分は無料で、これはという人に配布されていた。
そのことから鄭敬謨氏は「この雑誌の真の発行人が誰であり、その目的が何
であるかぐらいは問わずとも知りうる自明のもの」(粒第27号)と指摘す
る。
74年半ば頃、当時獄中にあった詩人金芝河や李泳禧教授の「無二の親友」
だという触れ込みで東京に現れては日本の中堅、非中堅のジャーナリストを
酒席にはべらせ、とかく華やいだ噂をまき散らした。流暢な日本語を操り濃
艶という形容詞に不足はない魅力的な女性であったらしい。(粒第27号)
「これがKCIAだ」によると、ソウルの特派員の間では72年頃から、
彼女のことが話題になっていた。全は政府高官から聞いた話や金芝河の獄中
生活、彼の創作活動などについて、いろいろな情報を流した。
最初は貴重な情報だとその話を聞いていた記者たちも、彼女の話が自称金
芝河の同情者であり、熱烈なファンにしては、あまりにもおかしいと気付き
始めた。金芝河氏が共産主義者であるとか、反政府活動のために北側の援助
をもらっていたというたぐいのガセネタを流し、それを信じさせようと説得
するようになってきたからだ。
ソウルの日本人特派員の間で「全玉淑はどうもおかしい」ということにな
り、それ以後はまともに話を聞かない記者たちが多くなった。そのうちに全
は、ソウルだけでなく日本にも姿をあらわすようになった。日本で「韓国」
問題に関心を持つ文化人、作家、学者にかたっぱしから電話をかけ、「韓国
の話をうかがいたい」とか、「小説の翻訳を頼みたい」といっては接近す
る。その誘いをことわっても、しつこく電話をかけてくるという。
粒第27号によると、(朴正煕が射殺される前あたりの年)全玉淑の動き
をこと細かく知りうる立場にあった友人のM氏から鄭敬謨氏に電話がかかっ
てきた。電話のメッセージは全氏が任務を終えて帰国することになったが、
帰国にあたって彼女が残した最後の言葉が「あとは安江氏と鄭敬謨をこませ
ばよい」であったと言うことだった。安江氏に対する「すけこまし」工作に
失敗したまま全は韓国に戻り、戻ってから「シネ21」とかいう映画雑誌を
出しているとされた。全の工作がその後どのような展開を見せたかは、李恢
成氏(作家)の紀行文「死者と生者の市」(『文学界』96・5号)を読む
と明らかだという。
「金浦空港に着いた李恢成氏は、…ソウル市に入り、自分が呼ばれたある
シンポジウムの会場に入ったのですが、そこにはちゃんと「エミレ21」金
玉淑女史、つまり「シネ21」全玉淑女史が待ちかまえて彼を迎えてくれた
のです。…何故か李恢成氏はこの紀行文にはっきりとは書いていないのです
が、晴れがましくも彼も呼ばれたソウルでのこのシンポジウムは車明岳教
授、つまり翰林大学日本学研究所長の池明観氏と韓国クリスチャン・アカデ
ミーの主催によるもので(95年2月)、これには安江氏が坂本義和氏と大
江健三郎氏を誘っていっしょに参加したのでした。…全玉淑女史からバト
ン・タッチされた池明観氏が、彼女の能力ではなしえなかったことを成就し
たという点においては、彼の工作は成功したと言えなくもないでしょう。」
(粒第27号)
全玉淑は町井久之(鄭建永)の愛人とされる(「これがKCIAだ」)。
東亜相互企業グループのボス、町井は元暴力団東声会会長で、都内に高級レ
ストランやクラブを持っているほか、釜関フェリーに出資し、在日韓国人で
朴大統領に会うことのできる数少ない男の1人。日本の右翼の大物、児玉誉
士夫(故人)とは兄弟分。その児玉は小佐野賢治(故人・国際興業社主)と
関係が深く、さらに、小佐野は趙重勲(大韓航空社長)とコンビを組んでい
た。
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称梨花女子大卒、日本語による韓国の翻訳小説掲載の季刊誌「韓国文芸」の
編集兼発行人の全玉淑という女性であった。彼女は70年代始めから朴正煕
暗殺(79年10月)の前年頃まで日本で暗躍した。「PR雑誌の編集というの
は表向き。実は朴政権の放った対日工作員の一人でKCIA要員とも見ら
れ」(赤旗76・3・23)ており、「KCIAの撃った玉」(粒第27
号)。民間人レベルでの対日文化人・作家工作を担当し、日本の対韓世論を
好転させるための文化誌の発行を受け持った。(「これがKCIAだ」)。
粒第27号によると、「韓国文芸」は編集も印刷もすべて韓国でなされた上
で日本に持ち込まれ、大部分は無料で、これはという人に配布されていた。
そのことから鄭敬謨氏は「この雑誌の真の発行人が誰であり、その目的が何
であるかぐらいは問わずとも知りうる自明のもの」(粒第27号)と指摘す
る。
74年半ば頃、当時獄中にあった詩人金芝河や李泳禧教授の「無二の親友」
だという触れ込みで東京に現れては日本の中堅、非中堅のジャーナリストを
酒席にはべらせ、とかく華やいだ噂をまき散らした。流暢な日本語を操り濃
艶という形容詞に不足はない魅力的な女性であったらしい。(粒第27号)
「これがKCIAだ」によると、ソウルの特派員の間では72年頃から、
彼女のことが話題になっていた。全は政府高官から聞いた話や金芝河の獄中
生活、彼の創作活動などについて、いろいろな情報を流した。
最初は貴重な情報だとその話を聞いていた記者たちも、彼女の話が自称金
芝河の同情者であり、熱烈なファンにしては、あまりにもおかしいと気付き
始めた。金芝河氏が共産主義者であるとか、反政府活動のために北側の援助
をもらっていたというたぐいのガセネタを流し、それを信じさせようと説得
するようになってきたからだ。
ソウルの日本人特派員の間で「全玉淑はどうもおかしい」ということにな
り、それ以後はまともに話を聞かない記者たちが多くなった。そのうちに全
は、ソウルだけでなく日本にも姿をあらわすようになった。日本で「韓国」
問題に関心を持つ文化人、作家、学者にかたっぱしから電話をかけ、「韓国
の話をうかがいたい」とか、「小説の翻訳を頼みたい」といっては接近す
る。その誘いをことわっても、しつこく電話をかけてくるという。
粒第27号によると、(朴正煕が射殺される前あたりの年)全玉淑の動き
をこと細かく知りうる立場にあった友人のM氏から鄭敬謨氏に電話がかかっ
てきた。電話のメッセージは全氏が任務を終えて帰国することになったが、
帰国にあたって彼女が残した最後の言葉が「あとは安江氏と鄭敬謨をこませ
ばよい」であったと言うことだった。安江氏に対する「すけこまし」工作に
失敗したまま全は韓国に戻り、戻ってから「シネ21」とかいう映画雑誌を
出しているとされた。全の工作がその後どのような展開を見せたかは、李恢
成氏(作家)の紀行文「死者と生者の市」(『文学界』96・5号)を読む
と明らかだという。
「金浦空港に着いた李恢成氏は、…ソウル市に入り、自分が呼ばれたある
シンポジウムの会場に入ったのですが、そこにはちゃんと「エミレ21」金
玉淑女史、つまり「シネ21」全玉淑女史が待ちかまえて彼を迎えてくれた
のです。…何故か李恢成氏はこの紀行文にはっきりとは書いていないのです
が、晴れがましくも彼も呼ばれたソウルでのこのシンポジウムは車明岳教
授、つまり翰林大学日本学研究所長の池明観氏と韓国クリスチャン・アカデ
ミーの主催によるもので(95年2月)、これには安江氏が坂本義和氏と大
江健三郎氏を誘っていっしょに参加したのでした。…全玉淑女史からバト
ン・タッチされた池明観氏が、彼女の能力ではなしえなかったことを成就し
たという点においては、彼の工作は成功したと言えなくもないでしょう。」
(粒第27号)
全玉淑は町井久之(鄭建永)の愛人とされる(「これがKCIAだ」)。
東亜相互企業グループのボス、町井は元暴力団東声会会長で、都内に高級レ
ストランやクラブを持っているほか、釜関フェリーに出資し、在日韓国人で
朴大統領に会うことのできる数少ない男の1人。日本の右翼の大物、児玉誉
士夫(故人)とは兄弟分。その児玉は小佐野賢治(故人・国際興業社主)と
関係が深く、さらに、小佐野は趙重勲(大韓航空社長)とコンビを組んでい
た。
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これは メッセージ 89302 (yayoijin_matsuei さん)への返信です.