真実を知らずして!いい加減なことを
投稿者: netuzouhanntai 投稿日時: 2003/09/21 18:57 投稿番号: [87618 / 232612]
http://home.att.ne.jp/red/dateasia/kako/kan51.htm
南北共存を認めていない北
政府は、一種の言論統制をかけており、6月の首脳会談の前に、情報部等が各新聞を回って、「金正日を刺激しないように」と言って回っている。逆に、『朝鮮日報』の編集長の趙さんは、「こんな馬鹿なことが許されるか」と書いた。書いたら逮捕するということですが、激しい言論戦をやっています。
アメリカも割れています。民主党は、韓国ほどではないが、「変わりつつある」という評価で、共和党は「そんなことはない。アメリカが譲るべきでないところを譲ったから話し合いが続いているだけで、核ミサイル開発問題は完全に終了したとはいえない」と言う。「人権にも触れていない」と。
国際的には、金大中大統領がノーベル平和賞をもらったので、その評価が固まったように見えますが、一皮むくと、まだ南北対話の評価は固まっていない。その評価は、北が変わったか、南北共存を認める政策転換をしたかどうか、です。南はもう変わっています。70年代の初めに変えた。李承晩大統領は「滅共統一」の立場だった。
「もう大丈夫」と「まだ大丈夫」がクロスして
朝鮮戦争の休戦協定に韓国はサインしていない。李承晩大統領が拒否した。「北進する」と。しかし、軍事力がなかったので言うだけでした。蒋介石も大陸反攻で、台湾と一緒になってそういうことを言っていた。朴正煕大統領が、軍事クーデターをやり、日韓国交正常化をやって、段々経済も上向きになり、70年代初めにはGNPが北とクロスした。それまでは北が上だった。ちょうど経済が同じ位のときに南北対話が始まった。互いに、まだ自分の方が優位だと思っていたから始められた。もちろん国際情勢が対話の時代になり、朝鮮戦争の当事者が朝鮮の頭越しに対話を始めるという大きな変化もあった。
1961年には、金日成が「韓国に米の援助をしてやる」と演説しています。李承晩時代は、国家予算の60%は米軍からの援助物資でした。「そういう状況は民族の主体性として恥ずかしい。同族である我々から受けなさい」と言った。60年代はそういう状況で、70年代になっても、北朝鮮はまだそういう状況が続いていると思っていた。60年代に『ユンボギの日記』が翻訳されますが、両親のいない貧しい少年が、それでもけなげに生きていく、という物語です。子どもたちが、食べられないので残飯をもらいに歩いているというのが韓国のイメージでした。
しかし、韓国は60年代半ばから、経済成長軌道に乗り、絶対的貧困の追放に成功していく。北朝鮮の社会主義システムは、戦時中や戦後しばらくは機能しますが、その後は働かなくなりますから、成長が止まった。また、軍事優先路線をとったこともあり、経済が停滞した。しかし、70年代の初めには、まだ南が北にあこがれる筈だ、と思っていた。南は南で自信を持ち始めた。「もう大丈夫」と「まだ大丈夫」という思いがクロスした中で、対話が始まった。
南北共存を認めていない北
政府は、一種の言論統制をかけており、6月の首脳会談の前に、情報部等が各新聞を回って、「金正日を刺激しないように」と言って回っている。逆に、『朝鮮日報』の編集長の趙さんは、「こんな馬鹿なことが許されるか」と書いた。書いたら逮捕するということですが、激しい言論戦をやっています。
アメリカも割れています。民主党は、韓国ほどではないが、「変わりつつある」という評価で、共和党は「そんなことはない。アメリカが譲るべきでないところを譲ったから話し合いが続いているだけで、核ミサイル開発問題は完全に終了したとはいえない」と言う。「人権にも触れていない」と。
国際的には、金大中大統領がノーベル平和賞をもらったので、その評価が固まったように見えますが、一皮むくと、まだ南北対話の評価は固まっていない。その評価は、北が変わったか、南北共存を認める政策転換をしたかどうか、です。南はもう変わっています。70年代の初めに変えた。李承晩大統領は「滅共統一」の立場だった。
「もう大丈夫」と「まだ大丈夫」がクロスして
朝鮮戦争の休戦協定に韓国はサインしていない。李承晩大統領が拒否した。「北進する」と。しかし、軍事力がなかったので言うだけでした。蒋介石も大陸反攻で、台湾と一緒になってそういうことを言っていた。朴正煕大統領が、軍事クーデターをやり、日韓国交正常化をやって、段々経済も上向きになり、70年代初めにはGNPが北とクロスした。それまでは北が上だった。ちょうど経済が同じ位のときに南北対話が始まった。互いに、まだ自分の方が優位だと思っていたから始められた。もちろん国際情勢が対話の時代になり、朝鮮戦争の当事者が朝鮮の頭越しに対話を始めるという大きな変化もあった。
1961年には、金日成が「韓国に米の援助をしてやる」と演説しています。李承晩時代は、国家予算の60%は米軍からの援助物資でした。「そういう状況は民族の主体性として恥ずかしい。同族である我々から受けなさい」と言った。60年代はそういう状況で、70年代になっても、北朝鮮はまだそういう状況が続いていると思っていた。60年代に『ユンボギの日記』が翻訳されますが、両親のいない貧しい少年が、それでもけなげに生きていく、という物語です。子どもたちが、食べられないので残飯をもらいに歩いているというのが韓国のイメージでした。
しかし、韓国は60年代半ばから、経済成長軌道に乗り、絶対的貧困の追放に成功していく。北朝鮮の社会主義システムは、戦時中や戦後しばらくは機能しますが、その後は働かなくなりますから、成長が止まった。また、軍事優先路線をとったこともあり、経済が停滞した。しかし、70年代の初めには、まだ南が北にあこがれる筈だ、と思っていた。南は南で自信を持ち始めた。「もう大丈夫」と「まだ大丈夫」という思いがクロスした中で、対話が始まった。
これは メッセージ 87608 (mvp8712 さん)への返信です.