続5 司馬良太郎祖国防衛思想
投稿者: kocohadokowatasihadare 投稿日時: 2003/09/08 21:36 投稿番号: [85790 / 232612]
では、この「明るい明治」と「暗い昭和」の考えはどのように司馬のなかで生まれたのであろうか。これには司馬自身の体験としてのノモンハン事件の衝撃についてあげられる。この事件は、参謀本部によって日本国民に知らされることはなかった。「満州国」とモンゴル人民共和国との国境で起きた日本とソ連、両軍の衝突事件である。昭和十四(一九三九)年五月、不明確な国境線をめぐり、モンゴル軍と「満州国」群が衝突したことを契機に、ハルハ河を国境と主張する関東軍は戦車部隊など、全力を投入してモンゴル軍を駆逐、越境空襲や防疫給水部による細菌戦まで行った。ソ連軍はモンゴルとの相互援助条約に基づいて空軍・機械化部隊を大量に投入し、八月からはハルハ河を超えて大攻勢に転じ、このために日本の第二十三師団は壊滅するなど、日本軍は大損害をこうむった。ノモンハン事件について司馬は、
日本軍の死傷率は七十五%にものぼりました。ひくも進むもなく七十五%が死に、傷つきました。死傷率七十五%というのは世界の戦史にないのではないでしょうか。よくぞここまで国民教育をしたものだと思います。ふつうヨーロッパのルールでは、三十%の死傷者が出れば、将軍は上の命令なくして退却してもいいようですね。そういうこともせずに七十五%ですから、実感としてはほとんど全滅している感じであります。そういう戦争をやった二年後に、太平洋戦争をやった。ちゃんとした常識のある国家運営者の考えることでは全くありません。
と、言っている。国民に知らされることのなかったこの事件を司馬が知ったのは従軍してからである。司馬は昭和十八年に学徒出陣し、兵庫県加古川の戦車第十九連隊に入営したが、その第十九連隊にノモンハン事件の生存兵がいたのである。司馬は戦場でこの事実を知り、憤りを感じた。「日本とは何なのであろう」と。
日露戦争からの流れのなかで白兵主義へと退行した日本軍は、逆に火力主義の脅威から、火力主義となったソ連軍(ロシア)に大敗する。火力主義を捨て去った日本軍の装備は勝利を得た自信から日露戦争当時のままだったのである。戦車兵となった司馬は自軍の戦車の装備を見て愕然とした。戦車の砲塔がスパナで削れてしまう戦車で戦争に勝とうというのだから。
司馬はこの、自身の戦時体験から「暗い昭和」像を固定観念として持つこととなり、逆にそれ以前の時代への過大な美化と賞賛につながったのである。
昭和十年以後の統帥機関によって、明治人が苦労してつくった近代国家は扼殺されたといっていい。このときに死んだと言っていい。
この言葉に見えるように、司馬は昭和国家を憎悪し、明治をつくった人々を誉めたたえた。明治はリアリズムの時代で、昭和前期(昭和元年から昭和二十年まで)にはリアリズムがなかったという。明治とは別国の観があり、別の民族だったのではないかと思うほどだという。
しかし、これまでの各章での司馬史観の問題点をふまえると正しいとは間違っても言えない。
司馬は前述のように、昭和十八年から学徒出陣し、兵庫県加古川の戦車第十九連隊に入営した。その連隊に「日本」という国家に対して憤りを感じた事件――ノモンハン事変――の生存兵士がいたことから、ノモンハンはまるで司馬自身に直接降りかかかった感じになったのであろう。そして、昭和二十年の太平洋戦争敗戦の現状を自身の目で見たことである。
問題点は、ここにある。歴史というものは「私情」を挟まず、極めて客観的に見ることによって、より鮮明な全体像が浮かび上がってくるものである。司馬は小説を書く原因となった「ノモンハン」と「敗戦」を間接的に、あるいは直接的に体験することによって「私情」という名の色眼鏡で日本近代史を見ているのである。そこにはすでに近代史の実像は存在しない。司馬は「ノモンハン」と「敗戦」の私的感情をふまえて日露戦争などの解釈をしている。そこから生まれた「明るい明治」と「暗い昭和」像をすべての日本史に適応することで、様々なひずみが生じ、さらには歴史までゆがめている部分があるのは否めない。
司馬は合理主義を好み、前述のように作品の主人公にも合理主義者が多い。それは日露戦争以降、軍備において退行していった日本軍への憤りととれ、加えて、自らの戦時体験で得た合理主義への激しい郷愁ではないだろうか。
日本軍の死傷率は七十五%にものぼりました。ひくも進むもなく七十五%が死に、傷つきました。死傷率七十五%というのは世界の戦史にないのではないでしょうか。よくぞここまで国民教育をしたものだと思います。ふつうヨーロッパのルールでは、三十%の死傷者が出れば、将軍は上の命令なくして退却してもいいようですね。そういうこともせずに七十五%ですから、実感としてはほとんど全滅している感じであります。そういう戦争をやった二年後に、太平洋戦争をやった。ちゃんとした常識のある国家運営者の考えることでは全くありません。
と、言っている。国民に知らされることのなかったこの事件を司馬が知ったのは従軍してからである。司馬は昭和十八年に学徒出陣し、兵庫県加古川の戦車第十九連隊に入営したが、その第十九連隊にノモンハン事件の生存兵がいたのである。司馬は戦場でこの事実を知り、憤りを感じた。「日本とは何なのであろう」と。
日露戦争からの流れのなかで白兵主義へと退行した日本軍は、逆に火力主義の脅威から、火力主義となったソ連軍(ロシア)に大敗する。火力主義を捨て去った日本軍の装備は勝利を得た自信から日露戦争当時のままだったのである。戦車兵となった司馬は自軍の戦車の装備を見て愕然とした。戦車の砲塔がスパナで削れてしまう戦車で戦争に勝とうというのだから。
司馬はこの、自身の戦時体験から「暗い昭和」像を固定観念として持つこととなり、逆にそれ以前の時代への過大な美化と賞賛につながったのである。
昭和十年以後の統帥機関によって、明治人が苦労してつくった近代国家は扼殺されたといっていい。このときに死んだと言っていい。
この言葉に見えるように、司馬は昭和国家を憎悪し、明治をつくった人々を誉めたたえた。明治はリアリズムの時代で、昭和前期(昭和元年から昭和二十年まで)にはリアリズムがなかったという。明治とは別国の観があり、別の民族だったのではないかと思うほどだという。
しかし、これまでの各章での司馬史観の問題点をふまえると正しいとは間違っても言えない。
司馬は前述のように、昭和十八年から学徒出陣し、兵庫県加古川の戦車第十九連隊に入営した。その連隊に「日本」という国家に対して憤りを感じた事件――ノモンハン事変――の生存兵士がいたことから、ノモンハンはまるで司馬自身に直接降りかかかった感じになったのであろう。そして、昭和二十年の太平洋戦争敗戦の現状を自身の目で見たことである。
問題点は、ここにある。歴史というものは「私情」を挟まず、極めて客観的に見ることによって、より鮮明な全体像が浮かび上がってくるものである。司馬は小説を書く原因となった「ノモンハン」と「敗戦」を間接的に、あるいは直接的に体験することによって「私情」という名の色眼鏡で日本近代史を見ているのである。そこにはすでに近代史の実像は存在しない。司馬は「ノモンハン」と「敗戦」の私的感情をふまえて日露戦争などの解釈をしている。そこから生まれた「明るい明治」と「暗い昭和」像をすべての日本史に適応することで、様々なひずみが生じ、さらには歴史までゆがめている部分があるのは否めない。
司馬は合理主義を好み、前述のように作品の主人公にも合理主義者が多い。それは日露戦争以降、軍備において退行していった日本軍への憤りととれ、加えて、自らの戦時体験で得た合理主義への激しい郷愁ではないだろうか。
これは メッセージ 85789 (kocohadokowatasihadare さん)への返信です.