豆満江の北①
投稿者: sofiansky2003 投稿日時: 2003/07/05 05:35 投稿番号: [76957 / 232612]
>この前後、不思議な事に、西独には大量の食料、銀行には現金が蓄えられていました。
↓
東独が崩壊してから遅くない時期にコール首相はハンガリーに対し、かなりのODAを提供したことを記憶しています。
その時は随分と露骨なという気もしていたのですが。
こういうことだったのですね。
さて、Msg.76823 について若干気のついたことについてコメントさせていただきます。
>中華人民共和国が誕生したのは1949年で、その5年後には、東北三省は独立運動を展開、その戦闘で膨大な死者を出しているといわれます。
↓
終戦後からの東北部の推移は以下のとおり認識しています。
終戦直後から「満州を制するものは中国を制す」といわれ、資源に恵まれ中国第一の重工業地帯であったとのことです。このために中共は林彪と15万の軍隊を派遣し、ソ連軍とともに瞬く間に日本軍から奪った。これに対し、蒋介石は近代装備の国府軍を派遣し、ここに本格的な内戦が開始された。当初国府軍は有利であったが、次第に都市部のみとなり、48年10月に長春にて国府軍の降伏により中共の勝利となった。国共内戦に3大会戦というものがありますが、これが一番の激戦と思います。ちなみに、「大地の子」の都市が共産軍に包囲され、そこを脱出していく場面はこの時のものです。林彪はさらに南の方に転戦します。
その後(「1949年から5年後」に当るのですが)つまり1954年2月には高崗事件が起こっています(当時の政治局員高崗が失脚したこと)。高崗も林彪と一緒に東北部にきたが、東北部にとどまって行政手腕を発揮し始め、親ソ政策を進め、半独立的な割拠形態をとるに至り、中共中央(毛沢東)と衝突したとのことです。彼はスターリンの信頼も厚かったとのことです。ただし、別説では毛沢東との路線闘争で毛が政略により政敵を失脚させた第1号との見方もあります。ちなみにこの高崗を弁護しようとしてその後長い間冷や飯を食わされたのが、朱溶基前首相とのことです。
当時の中国のことですから日語になっていない事実が多いかと思いますが、高崗事件はあったものの「独立運動」「多くの死者」との内容は見ておりません。
>Deng Xiaopinによる改革解放経済政策の好影響も東北三省は無関係で、経済的にも孤立疲弊したこの地域は
↓
これはそのとおりと思います。
改革開放は、広東・上海が先導してもので、従来の主力型重工業(鉄鋼、石炭、車輌)の国有企業が多くある東北三省では、その恩恵はほとんどなくむしろお荷物になっており、失業者が多いとのことです。
>そしてまた、この一帯にはやく1千万人におよぶ中国共産政府の国籍の朝鮮族が独自の文化共同体を営んでいる。
この朝鮮族の共同体が脱北者、北朝鮮難民の隠れ家になっています。
↓
東北三省のうち吉林省が豆満江をはさんで北朝鮮と国境をはさんでいるわけですが、その内の国境添いに朝鮮族自治県(延辺)がありそこに朝鮮族が80〜100万人、東北三省全体でも200万人と言われています。清・李氏朝鮮の時代は互いに鎖国政策を取っていたから移住なるものは少なかったと思いますが、1885年に清が政策を変更しことから越境移民が多くなり始め、日本による統治時代には対満州政策と相まっての移民が主体なようです(最大値で166万人−終戦後50万人は帰国したとのこと)。
↓
(以下のHP参照)
http://www.seinan-gu.ac.jp/~jingxu/chousenzoku.html
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東独が崩壊してから遅くない時期にコール首相はハンガリーに対し、かなりのODAを提供したことを記憶しています。
その時は随分と露骨なという気もしていたのですが。
こういうことだったのですね。
さて、Msg.76823 について若干気のついたことについてコメントさせていただきます。
>中華人民共和国が誕生したのは1949年で、その5年後には、東北三省は独立運動を展開、その戦闘で膨大な死者を出しているといわれます。
↓
終戦後からの東北部の推移は以下のとおり認識しています。
終戦直後から「満州を制するものは中国を制す」といわれ、資源に恵まれ中国第一の重工業地帯であったとのことです。このために中共は林彪と15万の軍隊を派遣し、ソ連軍とともに瞬く間に日本軍から奪った。これに対し、蒋介石は近代装備の国府軍を派遣し、ここに本格的な内戦が開始された。当初国府軍は有利であったが、次第に都市部のみとなり、48年10月に長春にて国府軍の降伏により中共の勝利となった。国共内戦に3大会戦というものがありますが、これが一番の激戦と思います。ちなみに、「大地の子」の都市が共産軍に包囲され、そこを脱出していく場面はこの時のものです。林彪はさらに南の方に転戦します。
その後(「1949年から5年後」に当るのですが)つまり1954年2月には高崗事件が起こっています(当時の政治局員高崗が失脚したこと)。高崗も林彪と一緒に東北部にきたが、東北部にとどまって行政手腕を発揮し始め、親ソ政策を進め、半独立的な割拠形態をとるに至り、中共中央(毛沢東)と衝突したとのことです。彼はスターリンの信頼も厚かったとのことです。ただし、別説では毛沢東との路線闘争で毛が政略により政敵を失脚させた第1号との見方もあります。ちなみにこの高崗を弁護しようとしてその後長い間冷や飯を食わされたのが、朱溶基前首相とのことです。
当時の中国のことですから日語になっていない事実が多いかと思いますが、高崗事件はあったものの「独立運動」「多くの死者」との内容は見ておりません。
>Deng Xiaopinによる改革解放経済政策の好影響も東北三省は無関係で、経済的にも孤立疲弊したこの地域は
↓
これはそのとおりと思います。
改革開放は、広東・上海が先導してもので、従来の主力型重工業(鉄鋼、石炭、車輌)の国有企業が多くある東北三省では、その恩恵はほとんどなくむしろお荷物になっており、失業者が多いとのことです。
>そしてまた、この一帯にはやく1千万人におよぶ中国共産政府の国籍の朝鮮族が独自の文化共同体を営んでいる。
この朝鮮族の共同体が脱北者、北朝鮮難民の隠れ家になっています。
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東北三省のうち吉林省が豆満江をはさんで北朝鮮と国境をはさんでいるわけですが、その内の国境添いに朝鮮族自治県(延辺)がありそこに朝鮮族が80〜100万人、東北三省全体でも200万人と言われています。清・李氏朝鮮の時代は互いに鎖国政策を取っていたから移住なるものは少なかったと思いますが、1885年に清が政策を変更しことから越境移民が多くなり始め、日本による統治時代には対満州政策と相まっての移民が主体なようです(最大値で166万人−終戦後50万人は帰国したとのこと)。
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(以下のHP参照)
http://www.seinan-gu.ac.jp/~jingxu/chousenzoku.html
これは メッセージ 76824 (east_jungle3 さん)への返信です.