原爆を作って日本人は皆殺し
投稿者: kitachousendeikirai 投稿日時: 2003/04/26 22:26 投稿番号: [64893 / 232612]
在日の心の奥底を覗くと、、、
日本人がいくら平和を願っても、こいつらの反日感情は、どうしようもない。
北朝鮮のミサイルを叩く、正当防衛の軍事力を早く構築しよう。
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金 龍 明さん 6月10日
3月7日の石原発言について
「三国人」という発言が極めて非常識な発言として痛烈な批判を浴びるのは当然である。この発言の報道を聞いたとき私は殆ど驚かなかった。それよりも私の感性に響いてきたのは、それ以前の3月7日の「北鮮なんて、ばかなことを始めたら一撃で壊滅する」という発言に対してであった。この発言の報道を聞いたとき、あ!こいつはガキだな、と思ったのである。それは、私が北朝鮮の肩を持っているからでも石原が「北鮮」という言葉を使ったからでもない。私の感性は、石原の言葉にではなく心理に反応したのだ。
私は現在韓国籍だが、子供のころは朝鮮学校に通っていたことがある。朝鮮学校というところは、特別に反日教育などはしないが、やはり、日本の学校では教えないような事も教えてくれた。或いは自然に耳に入ってきた。それは例えば、日本の学校で教えるのとは違う歴史観などであった。とりわけその代表は関東大震災のときの出来事に付いてである。
朴 慶南(パク キョンナム)さんが、「わたしのお爺さんは下水道に逃げ込んで助かった。」と話していたが、その類のことである。私が朝鮮学校で聞いたのは「イチエンゴジュッセン(一円五十銭)」と言わされて、正しく発音できなかったら殺された、と言うものだった。当時、まだ朝鮮人は日本語に慣れておらず、訛りがあって「一円五十銭」を正しく発音できなかったということがあったのだろう。また、朝鮮人が井戸に毒を入れる、と言うデマによって朝鮮人は殺されたとも聞いた。デマを流す方も流す方だが真に受ける方も受ける方だと思った。両方とも人間のやることじゃない。
このとき、私は子供心に、日本人は人間とはいえない。朝鮮人を虐殺しておきながら、反省もしないし、謝りもしない。こんな日本人は俺が大きくなったら原爆を作って皆殺しにしてやろうと思った。原爆を作ったら日本に落とすのだが、反省している日本人もいるし、私たちの同胞も日本にはまだ沢山いる。それらの人が死ぬことになるが、「そんなことは問題ではない!とにかく日本人を殺すことが先決なのだ。問題は外国へ行っている日本人をどうやって殺すかだ。」と心の奥底で思っていた。たとえ、朝鮮人や罪のない日本人が多少死んでも、とにかく日本人を皆殺しにしてやる、という常軌を逸した激しい怒りの感情を十歳前後の私は持っていたのである。
しかし、それは実行されなかった。その理由は簡単で、私に根性がなかった為でもなく、日本人のやったことを許したわけでもない。それは、たとえば、隣に座っている日本人が皆殺しの対象にはどうしても思えなかったからだ。私は次第に「罪を憎んで人を憎まず。」の言葉通り、日本人があの時ああいう行動をとったのには原因があり、その原因には、また、その原因があるのだ、と言う風に考えるようになっていった。しかし、「日本人を皆殺しにしてやる。」という激しい怒りの感情は私のアイデンティティーの一部として現在も残っていることも事実である。日本人の常軌を逸した行動が常軌を逸した怒りの感情を私に生じさせたのだが、この「同胞を犠牲にしてまでも日本人を皆殺しにしてやる。」という感情こそはあらゆる戦争の本質ではないかと私は考えるようになった。私の幼少期を襲った、この感情は私に特有のものではなく、人間ならば誰でも抱き得る感情ではないだろうか。世界各地の紛争地帯にはこのような感情を持っている人が少なからずいるはずである。現地へ行って聞いてみたわけではないが私の心がそう言っているのである。だから、平和を欲するならば、たとえアイデンティティーの一部であっても、このような感情はコントロールし、もしくは、心の中から削除さえできる勇気を持たねばならないのだと今は考えている。私は戦争を、心の中で体験してきたような気がしてならない。
だから言いたい。石原慎太郎の3月7日の発言は、私が子供のころ抱いていた、「同胞を犠牲にしてでも日本人を皆殺しにしてやる。」という感情と、激しさは異なるかもしれないが、類似の感情であって、それを公の場でストレートに言ってしまったということなのだ。だから、石原は精神的に幼いと思われてならない。おそらく石原は戦争の『せ』の字も理解していないし、ましてや、不戦の誓いを掲げた憲法第9条の精神など到底理解できていないだろう、と想像するのは考え過ぎだろうか。
http://ishihara.yamero.net/opin.htm
日本人がいくら平和を願っても、こいつらの反日感情は、どうしようもない。
北朝鮮のミサイルを叩く、正当防衛の軍事力を早く構築しよう。
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金 龍 明さん 6月10日
3月7日の石原発言について
「三国人」という発言が極めて非常識な発言として痛烈な批判を浴びるのは当然である。この発言の報道を聞いたとき私は殆ど驚かなかった。それよりも私の感性に響いてきたのは、それ以前の3月7日の「北鮮なんて、ばかなことを始めたら一撃で壊滅する」という発言に対してであった。この発言の報道を聞いたとき、あ!こいつはガキだな、と思ったのである。それは、私が北朝鮮の肩を持っているからでも石原が「北鮮」という言葉を使ったからでもない。私の感性は、石原の言葉にではなく心理に反応したのだ。
私は現在韓国籍だが、子供のころは朝鮮学校に通っていたことがある。朝鮮学校というところは、特別に反日教育などはしないが、やはり、日本の学校では教えないような事も教えてくれた。或いは自然に耳に入ってきた。それは例えば、日本の学校で教えるのとは違う歴史観などであった。とりわけその代表は関東大震災のときの出来事に付いてである。
朴 慶南(パク キョンナム)さんが、「わたしのお爺さんは下水道に逃げ込んで助かった。」と話していたが、その類のことである。私が朝鮮学校で聞いたのは「イチエンゴジュッセン(一円五十銭)」と言わされて、正しく発音できなかったら殺された、と言うものだった。当時、まだ朝鮮人は日本語に慣れておらず、訛りがあって「一円五十銭」を正しく発音できなかったということがあったのだろう。また、朝鮮人が井戸に毒を入れる、と言うデマによって朝鮮人は殺されたとも聞いた。デマを流す方も流す方だが真に受ける方も受ける方だと思った。両方とも人間のやることじゃない。
このとき、私は子供心に、日本人は人間とはいえない。朝鮮人を虐殺しておきながら、反省もしないし、謝りもしない。こんな日本人は俺が大きくなったら原爆を作って皆殺しにしてやろうと思った。原爆を作ったら日本に落とすのだが、反省している日本人もいるし、私たちの同胞も日本にはまだ沢山いる。それらの人が死ぬことになるが、「そんなことは問題ではない!とにかく日本人を殺すことが先決なのだ。問題は外国へ行っている日本人をどうやって殺すかだ。」と心の奥底で思っていた。たとえ、朝鮮人や罪のない日本人が多少死んでも、とにかく日本人を皆殺しにしてやる、という常軌を逸した激しい怒りの感情を十歳前後の私は持っていたのである。
しかし、それは実行されなかった。その理由は簡単で、私に根性がなかった為でもなく、日本人のやったことを許したわけでもない。それは、たとえば、隣に座っている日本人が皆殺しの対象にはどうしても思えなかったからだ。私は次第に「罪を憎んで人を憎まず。」の言葉通り、日本人があの時ああいう行動をとったのには原因があり、その原因には、また、その原因があるのだ、と言う風に考えるようになっていった。しかし、「日本人を皆殺しにしてやる。」という激しい怒りの感情は私のアイデンティティーの一部として現在も残っていることも事実である。日本人の常軌を逸した行動が常軌を逸した怒りの感情を私に生じさせたのだが、この「同胞を犠牲にしてまでも日本人を皆殺しにしてやる。」という感情こそはあらゆる戦争の本質ではないかと私は考えるようになった。私の幼少期を襲った、この感情は私に特有のものではなく、人間ならば誰でも抱き得る感情ではないだろうか。世界各地の紛争地帯にはこのような感情を持っている人が少なからずいるはずである。現地へ行って聞いてみたわけではないが私の心がそう言っているのである。だから、平和を欲するならば、たとえアイデンティティーの一部であっても、このような感情はコントロールし、もしくは、心の中から削除さえできる勇気を持たねばならないのだと今は考えている。私は戦争を、心の中で体験してきたような気がしてならない。
だから言いたい。石原慎太郎の3月7日の発言は、私が子供のころ抱いていた、「同胞を犠牲にしてでも日本人を皆殺しにしてやる。」という感情と、激しさは異なるかもしれないが、類似の感情であって、それを公の場でストレートに言ってしまったということなのだ。だから、石原は精神的に幼いと思われてならない。おそらく石原は戦争の『せ』の字も理解していないし、ましてや、不戦の誓いを掲げた憲法第9条の精神など到底理解できていないだろう、と想像するのは考え過ぎだろうか。
http://ishihara.yamero.net/opin.htm
これは メッセージ 1 (mitokoumon_2002 さん)への返信です.