現在の核武装議論(3)
投稿者: eeeeeee452 投稿日時: 2003/02/18 23:06 投稿番号: [50985 / 232612]
日本本土の核兵器配備
【ワシントン20日共同】米核軍縮団体である天然資源保護協会のノリス上級研究員らは22日、米国防総省の機密解除文書を分析し、返還前の沖縄に合計1200発以上の核爆弾・弾頭が配備され、本土にも1950、60年代に核物質部分を除いた核爆弾の容器が配備されていた、とする論文を発表した。
返還前の沖縄の核配備はこれまでも知られていたが、論文は合計18種の配備核兵器など初めて具体的に明示。核物質を積み込むだけで爆弾となる半製核爆弾が日本に配備されていたと指摘し、対共産圏の最前線として日本列島が米核戦略の重要拠点だったことを裏付けた。米政府は日本への半製爆弾の配備について日米関係への影響を懸念し明らかにしなかったという。
国防総省の文書は「核兵器の管理・配備の歴史」(1978年2月)。同氏らの情報公開請求を受けて同省がこのほど一部を公開した。
同省文書は一部の国名を安全保障上の理由で黒塗りで消し「日本」「沖縄」とは明記していないが、国名がアルファベット順の配列となっていることや他の公開情報を基に、論文は特定している。
沖縄には台湾海峡の緊張を受けて、まず核爆弾の容器を54年7月に初配備し、完全な核爆弾(54年12月)、対潜水艦核爆弾(57年12月)、地対地ミサイル、マタドール(57年11月)などを順次配備、ベトナム戦争が激化した最多期の67年にはアジア太平洋の合計3200発のうち、1200発以上が沖縄にあった。50年代末には嘉手納空軍基地だけで800発あった。
沖縄の核はグアム島、韓国よりも大量に配備されていたが、返還が実現した72年にすべて撤去された。日本の核爆弾の容器部分の配備はアイゼンハワー政権が54年12月に命じ、最終的な撤去は65年6月となっている。(共同通信 1999/10/20)
米の核搭載艦 定期寄港 日本政府は黙認 冷戦時代の米公文書公開
【ワシントン22日時事】米軍が1960−70年代の冷戦期を通じ、日本の非核3原則を無視して定期的に核兵器を日本に持ち込み、日本政府も事前協議なしに寄港を容認してきたことを示す米機密文書が多数解禁され、21日公開された。沖縄の嘉手納基地や東京の横田、府中両基地が米軍の核戦略任務の一端を担っていたことも初めて判明した。
核兵器搭載の米艦船は寄港・通過していないとする戦後の日本政府の主張は、今回の文書公開で覆される可能性がある。
解禁された文書は、米国家安全保障会議(NSC)や太平洋軍司令部(ハワイ)の報告など計23点。
米シンクタンク、ノーチラス研究所が情報公開法(FOIA)に沿って入手、「核の傘の下の日本」のテーマで公表した。
それによれば、沖縄返還交渉の行われていた69年4月29日付でNSCが作成した対日政策文書は、「日本は核兵器を装備した海軍艦船の一時通過(トランジット)を黙認しており、この権利は自動的に沖縄にも適用される。核搭載航空機の沖縄通過は作戦の柔軟性を高める」と指摘、日本政府が事前協議なしの通過権を了承したことを明記している。
太平洋軍が73年に作成した司令部記録も、「日本政府はこれまで核搭載艦船の寄港を黙って受け入れてきた」とし、「国務省は日本への寄港前に核兵器を外すよう求めたが、海軍作戦部は戦術上受け入れられないとして拒否した」ことを明らかにした。
また、佐藤栄作元首相が非核3原則を表明していた67年、太平洋軍司令部は日本に空対空核ミサイルを配備する緊急計画を策定。62年には、米軍と自衛隊が核使用を想定した空軍演習を行っていた。
一方、米軍は60年代半ばから70年代にかけて在日米軍基地に核戦略任務を負わせ、府中基地に核計画を担当する太平洋軍作戦連絡事務所を置いたほか、嘉手納基地は沖縄返還後の74年、核戦略に関する単一統合作戦計画(SIOP)への関与が強化された。嘉手納、横田両基地は65年、核指令・統制用航空機の寄航地になったという。
核搭載艦船の日本への寄港・通過容認については、ライシャワー元駐日大使が81年、「日米間に口頭了解があり、実際に核を積んだまま寄港している」と発言、63年に大平正芳元外相が同大使に「了解」したことを示す米側文書も最近発見されている。(中日新聞 1999/07/23)
【ワシントン20日共同】米核軍縮団体である天然資源保護協会のノリス上級研究員らは22日、米国防総省の機密解除文書を分析し、返還前の沖縄に合計1200発以上の核爆弾・弾頭が配備され、本土にも1950、60年代に核物質部分を除いた核爆弾の容器が配備されていた、とする論文を発表した。
返還前の沖縄の核配備はこれまでも知られていたが、論文は合計18種の配備核兵器など初めて具体的に明示。核物質を積み込むだけで爆弾となる半製核爆弾が日本に配備されていたと指摘し、対共産圏の最前線として日本列島が米核戦略の重要拠点だったことを裏付けた。米政府は日本への半製爆弾の配備について日米関係への影響を懸念し明らかにしなかったという。
国防総省の文書は「核兵器の管理・配備の歴史」(1978年2月)。同氏らの情報公開請求を受けて同省がこのほど一部を公開した。
同省文書は一部の国名を安全保障上の理由で黒塗りで消し「日本」「沖縄」とは明記していないが、国名がアルファベット順の配列となっていることや他の公開情報を基に、論文は特定している。
沖縄には台湾海峡の緊張を受けて、まず核爆弾の容器を54年7月に初配備し、完全な核爆弾(54年12月)、対潜水艦核爆弾(57年12月)、地対地ミサイル、マタドール(57年11月)などを順次配備、ベトナム戦争が激化した最多期の67年にはアジア太平洋の合計3200発のうち、1200発以上が沖縄にあった。50年代末には嘉手納空軍基地だけで800発あった。
沖縄の核はグアム島、韓国よりも大量に配備されていたが、返還が実現した72年にすべて撤去された。日本の核爆弾の容器部分の配備はアイゼンハワー政権が54年12月に命じ、最終的な撤去は65年6月となっている。(共同通信 1999/10/20)
米の核搭載艦 定期寄港 日本政府は黙認 冷戦時代の米公文書公開
【ワシントン22日時事】米軍が1960−70年代の冷戦期を通じ、日本の非核3原則を無視して定期的に核兵器を日本に持ち込み、日本政府も事前協議なしに寄港を容認してきたことを示す米機密文書が多数解禁され、21日公開された。沖縄の嘉手納基地や東京の横田、府中両基地が米軍の核戦略任務の一端を担っていたことも初めて判明した。
核兵器搭載の米艦船は寄港・通過していないとする戦後の日本政府の主張は、今回の文書公開で覆される可能性がある。
解禁された文書は、米国家安全保障会議(NSC)や太平洋軍司令部(ハワイ)の報告など計23点。
米シンクタンク、ノーチラス研究所が情報公開法(FOIA)に沿って入手、「核の傘の下の日本」のテーマで公表した。
それによれば、沖縄返還交渉の行われていた69年4月29日付でNSCが作成した対日政策文書は、「日本は核兵器を装備した海軍艦船の一時通過(トランジット)を黙認しており、この権利は自動的に沖縄にも適用される。核搭載航空機の沖縄通過は作戦の柔軟性を高める」と指摘、日本政府が事前協議なしの通過権を了承したことを明記している。
太平洋軍が73年に作成した司令部記録も、「日本政府はこれまで核搭載艦船の寄港を黙って受け入れてきた」とし、「国務省は日本への寄港前に核兵器を外すよう求めたが、海軍作戦部は戦術上受け入れられないとして拒否した」ことを明らかにした。
また、佐藤栄作元首相が非核3原則を表明していた67年、太平洋軍司令部は日本に空対空核ミサイルを配備する緊急計画を策定。62年には、米軍と自衛隊が核使用を想定した空軍演習を行っていた。
一方、米軍は60年代半ばから70年代にかけて在日米軍基地に核戦略任務を負わせ、府中基地に核計画を担当する太平洋軍作戦連絡事務所を置いたほか、嘉手納基地は沖縄返還後の74年、核戦略に関する単一統合作戦計画(SIOP)への関与が強化された。嘉手納、横田両基地は65年、核指令・統制用航空機の寄航地になったという。
核搭載艦船の日本への寄港・通過容認については、ライシャワー元駐日大使が81年、「日米間に口頭了解があり、実際に核を積んだまま寄港している」と発言、63年に大平正芳元外相が同大使に「了解」したことを示す米側文書も最近発見されている。(中日新聞 1999/07/23)
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