朝日新聞の論調、そして「偏見」ということ
投稿者: omotenouranourawaomote 投稿日時: 2003/02/03 05:34 投稿番号: [47212 / 232612]
偏見を持つ者は、事柄の一面に対して過度に鋭敏になり、他方、事柄の他の側面には盲目的になるものである。
とりわけて、その偏見が体系性を備えた「イデオロギー」である場合は、救いがたい。
たとえば、朝日新聞。 (ことわっておくけれど、私は三十年以上にわたって朝日新聞を購読している。)
この新聞社は、かつて文化大革命の嵐が吹き荒れた中国に対して、「これは人類の壮大な実験」だとして
手放しに礼賛したが、文革の他の側面、つまり中国の社会秩序の崩壊、それにともなう生産の停滞、さらには
中国の国民生活の窮乏化といった側面には、眼を向けず、それらの現象を意図的に無視し続けた。
毛沢東思想や文化大革命に期待を寄せているうちは、朝日の偏見に満ちた論調は快い。けれども、事実が見えてくると、
朝日の一方的な報道は、哀れなほどに馬鹿馬鹿しくなってくる。(西園寺公一の北京レポートがその典型であった。)
閑話休題。さてさて、たとえば、「ある国の国民が強制的に連行され、自由を奪われて、連行した国の
国家目的や利益のために利用される」という一般情況を考えてみよう。
その「強制連行」が、戦前の日本による「朝鮮人の強制連行」である場合、朝日のようなイデオロギーに凝り固まった者は、
「人権擁護」や「反国家主義」の立場から、日本の「軍国主義」もしくは「植民地主義」の「蛮行」を、過度に批判する。
たぶん、その「批判」は、その側面にかぎっては正しいであろう。しかし、その論調が理性的な分析と判断にもとづかず、
教条的なイデオロギーにもとづくものである場合、同質の他の現象が見えてこない。そして、批判の対象と ちょうど
対極に在る者が「イドラ=偶像」となってしまうのである。
だから、朝日のようにイデオロギーに凝り固まった者の眼には、「日本軍国主義を打倒した」中国共産党やその頭目・毛沢東、
あるいは北朝鮮の「抗日パルチザン」やその頭目・金日成が、欠点ひとつ無い「偶像」に映るのだ。
そしてその結果として、毛沢東が指導する文化大革命は「人類の壮大な実験」に映り、金日成が君臨する専制国家は
「地上の楽園」に映るのだ。(あるいは、「映ったのだ」というべきか。)
また、その結果として、毛沢東支配下の中国の狂気じみた群集の武闘が見えてこず、金日成支配下の
北朝鮮の国家犯罪が見えてこないのだ。
かつて、『イデオロギーとユートピア』を書いたカール・マンハイムは、最も体系性を備えた偏見(=イデオロギー)である
マルクス主義について、「自分たちの階級的視点の基底に在る非合理的な集団的無意識に囚われており、
自己自身の立場の相対化はもとより、多種多様な視座の中に入り込み、批判的選択を通じて、事柄の本質的・連続的な
側面を自己の認識にするという、知的なコントロールの契機を欠いている。・・・」といった趣旨の分析を下した。
さかのぼって、かの『ノーヴム・オルガノン』を書いたフランシス・ベーコンは、「イデオロギー」の語源たる
「イドラ(idola=偶像)」とは、正しい認識を妨げる偏見・先入主であると述べた。
私は、朝日の論調を見るにつけ、イデオロギーの科学的な分析を行った先人の著述を思い出す。 とともに、
「早野透をはじめとする朝日の論説委員の諸君、市民の眼を惑わす駄文を書いている暇が有るなら、マンハイムの著述でも、
じっくり読んでみたまえ・・・」と、言いたい。
とりわけて、その偏見が体系性を備えた「イデオロギー」である場合は、救いがたい。
たとえば、朝日新聞。 (ことわっておくけれど、私は三十年以上にわたって朝日新聞を購読している。)
この新聞社は、かつて文化大革命の嵐が吹き荒れた中国に対して、「これは人類の壮大な実験」だとして
手放しに礼賛したが、文革の他の側面、つまり中国の社会秩序の崩壊、それにともなう生産の停滞、さらには
中国の国民生活の窮乏化といった側面には、眼を向けず、それらの現象を意図的に無視し続けた。
毛沢東思想や文化大革命に期待を寄せているうちは、朝日の偏見に満ちた論調は快い。けれども、事実が見えてくると、
朝日の一方的な報道は、哀れなほどに馬鹿馬鹿しくなってくる。(西園寺公一の北京レポートがその典型であった。)
閑話休題。さてさて、たとえば、「ある国の国民が強制的に連行され、自由を奪われて、連行した国の
国家目的や利益のために利用される」という一般情況を考えてみよう。
その「強制連行」が、戦前の日本による「朝鮮人の強制連行」である場合、朝日のようなイデオロギーに凝り固まった者は、
「人権擁護」や「反国家主義」の立場から、日本の「軍国主義」もしくは「植民地主義」の「蛮行」を、過度に批判する。
たぶん、その「批判」は、その側面にかぎっては正しいであろう。しかし、その論調が理性的な分析と判断にもとづかず、
教条的なイデオロギーにもとづくものである場合、同質の他の現象が見えてこない。そして、批判の対象と ちょうど
対極に在る者が「イドラ=偶像」となってしまうのである。
だから、朝日のようにイデオロギーに凝り固まった者の眼には、「日本軍国主義を打倒した」中国共産党やその頭目・毛沢東、
あるいは北朝鮮の「抗日パルチザン」やその頭目・金日成が、欠点ひとつ無い「偶像」に映るのだ。
そしてその結果として、毛沢東が指導する文化大革命は「人類の壮大な実験」に映り、金日成が君臨する専制国家は
「地上の楽園」に映るのだ。(あるいは、「映ったのだ」というべきか。)
また、その結果として、毛沢東支配下の中国の狂気じみた群集の武闘が見えてこず、金日成支配下の
北朝鮮の国家犯罪が見えてこないのだ。
かつて、『イデオロギーとユートピア』を書いたカール・マンハイムは、最も体系性を備えた偏見(=イデオロギー)である
マルクス主義について、「自分たちの階級的視点の基底に在る非合理的な集団的無意識に囚われており、
自己自身の立場の相対化はもとより、多種多様な視座の中に入り込み、批判的選択を通じて、事柄の本質的・連続的な
側面を自己の認識にするという、知的なコントロールの契機を欠いている。・・・」といった趣旨の分析を下した。
さかのぼって、かの『ノーヴム・オルガノン』を書いたフランシス・ベーコンは、「イデオロギー」の語源たる
「イドラ(idola=偶像)」とは、正しい認識を妨げる偏見・先入主であると述べた。
私は、朝日の論調を見るにつけ、イデオロギーの科学的な分析を行った先人の著述を思い出す。 とともに、
「早野透をはじめとする朝日の論説委員の諸君、市民の眼を惑わす駄文を書いている暇が有るなら、マンハイムの著述でも、
じっくり読んでみたまえ・・・」と、言いたい。
これは メッセージ 44875 (omotenouranourawaomote さん)への返信です.