言霊ではないでしょうけど
投稿者: lettuceclubnet 投稿日時: 2003/01/30 02:49 投稿番号: [45582 / 232612]
ある本からの一部
たとえば、「私はAのように考える」という意見がある。これに対して「私はBのように考える」という別の意見があるとする。この場合、Aが正しいかBが正しいか、双方がそう信ずる論拠を出し合って検証すれば、より正確な(というよりは、より妥当な)結論が出る。その結果Aが正しいとなるかもしれないし、Bが正しいということになるかも知れない。あるいはまったく別のCという考え方に、双方が落ち着くという可能性もある。意見というのは言ってみれば一つのタタキ台(仮説)であるから、討論をすればそうなるのが本当である。
ところがコトダマの世界ではそうならない。客観的資料に基づいて下された見解でも、それを資料ないしタタキ台(仮説)とは、決して受け取ってくれないのである。
(中略)
戦時中ならAがそんな意見を述べることすらむずかしいし、仮に勇を奮って述べても、「そんなことを言うとは何事だ」と、発言したこと自体が非難される。当然その見解を検討してみようという態度はありえない。
しかしそれぞれ意見を出し合い、見解の相違は討論によって調整していくというのが、言論の自由であり民主主義の基本でもある。意見を自由に出すことが不可能なところに民主主義など存在できるはずがない。
注意してほしいのは、これは、けっして「軍部の圧力」のせいではないということだ。もちろんかつての軍部が、強烈な言論統制をしたことは事実である。しかし軍部が消滅した今も「自由に意見を述べる自由」は、相変わらず失われたままである。
「意見」を「一つの見解」ではなく「その事実を望む祈り」ととらえる限り、そこには必ず「言っていいこと」と「いけないこと」の区別が生じる。必ず「口にはしてはいけない意見」と言うものが生じる。しかし、そうなったらもう言論の自由はないのである。
これは メッセージ 1 (mitokoumon_2002 さん)への返信です.
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