北送事業5(転載)
投稿者: kitachousendeikirai 投稿日時: 2003/01/01 17:54 投稿番号: [37180 / 232612]
■9.10年目の出所■
収容所は、いずれは外に出られる「革命化区域」と、終身刑に相当する「完全統制化区域」に分かれていた。姜哲煥の一家が収容されていた革命化区域では、毎年2月16日金正日の誕生日に、入所者を集めて、釈放される人の名簿が発表される。
入所10年目の1987年、ついに姜哲煥の一家の名前が呼ばれた。皆で喜びと悔しさが入り交じった涙を流す。全員で金日成、金正日万歳を叫んだ後、所長が「お前たちの未来は燦然と開けている」と述べたが、これはまったくの嘘だった。一度政治犯収容所に入ったものは、一生、そのレッテルを貼られ、国家保衛部の監視のもとで暮らす。
一家は、収容所からそう遠くない地域に家を持ち、農業をしながら暮らし始めた。しかし、10年の苦労がたたったのか、父親は89年12月胃潰瘍で死ぬ。その半年後には祖母も病死した。祖母は20数年前の党大会で、金日成と並んで写真をとっ たことがあるほどの信奉者だった。その祖母は亡くなる前にこう言った。
「死ぬ前に一度、済州島に帰りたい。お前たちを死なせるために、ここに連れてきたようなものだ。金日成、金正日に騙された。韓徳銖をこの手で殺してやりたい」
祖父と生き別れ、今また父や祖母を失って、姜哲煥の心に自由になりたいという思いが芽生えていった。
ある日、韓国のラジオ放送で録音したヒット曲「釜山港に帰れ」を聞いていることを密告され、国家保衛部から呼び出しを受けた。
残された道はただ一つ、中国から韓国に脱出することだけだった。
無事脱出できた姜哲煥は、ソウルで[1]の著者・張明秀の取材に「日本には今でも総連はありますか?」と尋ねて、あると張が答えると、「あるのなら、手榴弾を投げつけ、絶対、復讐してやる」と怒りをあらわにした。
張明秀は語る。
「この私が犯した罪はあまりにも大きく、計り知れない。
これは私の今後の生を貫いて贖わなければならないものと考えている」
しかし張明秀のように自己の責任を追及する人はごく例外でしかない。朝鮮総連ばかりでなく、「楽園」への帰還事業を翼賛した日本の共産党・社会党も、マスコミも、進歩的文化人らも、自己の責任を頬被りし続けている。
これは メッセージ 37179 (kitachousendeikirai さん)への返信です.
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