北送事業2(転載)
投稿者: kitachousendeikirai 投稿日時: 2003/01/01 17:51 投稿番号: [37177 / 232612]
■3.「地上の楽園」■
帰国実現決議を採択した中央大会では、朝鮮総連議長の韓徳銖が、記念講演で次のように述べた。
1961年度には電力、石灰、セメント、化学肥料、漁獲高など重要産業の人口一人当たりの生産量で、発展した日本を凌駕することになり、穀物生産では人口一人あたり2石、服地は20m以上、住宅は440平米、先進的工業・農業国家として発展する。
総連の宣伝部が作成した「帰国者のための資料」では、次のような記述がある。
その昔、絹の着物を着て、白米に肉のスープを食べてくらしていたのは一部少数の千石君(大地主)の金持ちであったが、今日ではすべての人民が万石君に劣らない生活を
しているので、北朝鮮を「地上の楽園」と呼ぶのも決して偶然ではない。
このようなパンフレットを用いて、一年たらずの間に日本各地で2万余の大小集会が開かれ、帰国運動の大キャンペーンが展開された。
「楽園」幻想を広める上では、日本人も加担した。日朝協会理事の寺尾五郎は、北朝鮮に招かれて、賓客として大切にもてなした。寺尾はそれを「三十八度線の北」という訪問記として出版し、それを総連が「日本人が書いた客観的な本」として、帰国運動に最大限に利用したのである。
また社会党や共産党も帰国運動を積極的に支援した。共産党の機関誌アカハタは「この運動を支持し、協力することは日本人民の義務であり、人道上の立場から速やかに解決すべき問題である」(58年11月29日)とぶちあげた。大江健三郎は、帰国者のテレビドラマを見て涙を流し、「自分には帰るべき朝鮮がない」と嘆いた。[a]
このように金日成の指示のもと、総連を中心に、社会党・共産党、マスコミ、進歩的文化人が一体となって、9万3千人以上もの人々を帰国船に乗せたのだった。
■4.「オペラを通じて両国民の理解と友好を深めたい」■
帰国者の中には、日本で成功して、自分の技術や財産で祖国の建設に尽くしたいと志す人々も少なくなかった。
その中に当時日本一の美声と言われたテナー歌手金永吉(永田絃次郎)がいた。金永吉は昭和35(1960)年1月、日本人の夫人と4人の子供を連れて、帰国船のタラップからお別れに「オーソレミオ」を歌って、祖国に捧げた。出発直前に、「新潟日報」の記者によるインタビューでは金永吉はこう語った。
「妻は日本人ですが、4人の子供とともに同行してくれることになりました。一番上の子は、上野学園大のピアノ科3年生ですが、平壌に国立音楽大学があるから心配ありません。
両国のオペラが自由に交流できる時期は1,2年後に来ると思います。・・・オペラを通じて両国民の理解と友好を深めたいと思います」
金永吉の帰国は総連が直接、説得したものだったという。オペラ歌手まで帰国するという宣伝効果を狙ったのだろう。
これは メッセージ 37175 (kitachousendeikirai さん)への返信です.
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