北送事業1(転載)
投稿者: kitachousendeikirai 投稿日時: 2003/01/01 17:49 投稿番号: [37175 / 232612]
1959(昭和34)年12月、北朝鮮の清津港に、975名の日本からの帰国者を乗せた最初の船が到着した。その時の模様を、朝鮮中央通信社は「祖国同胞6万余が港に出迎う
歓迎のどよめき清津をうずめる」との大見出しで、こう伝えた。
市内から埠頭に致る通りの両側には、ながい歳月にわたるつらい異国での生活を打ち切って祖国に帰る父母や兄弟たちを歓迎するため5万余の歓迎群衆が長蛇の列をなしていた。埠頭には早朝から一万余名の歓迎群衆が立錐の余地なく雲集して、帰国同胞たちの到着を待ちわびていた。・・・ついに東海(JOG注:日本海)の青々とした水平線上に帰国船があらわれた。
・・・「金日成将軍の歌」と革命歌の大合唱がはじまった。帰国同胞たちの姿が船の甲板にみえだした。かれらも甲板にでて、共和国国旗をうちふりながらこの合唱に合流する
のであった。一瞬、あたり一面は歌声と万歳の声と天地をゆるがさんばかりの歓声でわきたった。
この船を最初に合計187便、93,339人が北朝鮮に帰国していった。朝鮮総連のスポークスマンとしてこの帰国運動を支えた張明秀は、著書「裏切られた楽土」[1]で、こう語っている。
「あれから40年近くになる今日、彼ら帰国者の安否を語ることは、総連では今でもタブーとされている。しかし、在日同胞のあいだでは、ずっと囁かれつづけてきた。彼ら
は「地上の楽園」の主人公としての、自由で生きがいのある生活を送るどころか、日本では想像もつかないような悲惨な状況に追い込まれているということを。[1,p72]
■2.帰国運動のお膳立て■
帰国運動の発端は、この年の8月11日、神奈川県川崎市の在日朝鮮人グループが祖国に集団帰国する事を決議し、受け入れを要請する手紙を金日成主席に送った所から始まる。翌日、この決議は東京で開かれた在日朝鮮人の中央大会で帰国実現決議として採択され、9月8日には金日成が平壌で開かれた共和国創建10周年記念慶祝大会で「共和国政府は、在日同胞が祖国に帰り、新しい生活がいとなめるようすべての条件を保障する」と演説した。
こうした矢継ぎ早の動きから、張明秀は帰国運動は北朝鮮から朝鮮総連への指示によるものと考えている。この時期、北朝鮮は日本以外にも帰国を呼びかけ、サハリンから約2千名、中国東北地方から数千名の帰国を実現させた。
当時の北朝鮮では、56年からのフルシチョフによるスターリン批判が波及し、金日成の個人崇拝に対する批判が党中央委員会で噴き出し、中ソも介入してきた。金日成は大規模な血の粛清でこの危機を乗り切ったのだが、その後で起死回生を狙って自分の個人的名声を内外にアピールするイベントとして、この帰国運動を仕立て上げた、というのが張秀明の推察である。
これは メッセージ 1 (mitokoumon_2002 さん)への返信です.
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