9月17日を忘れる勿れ⑦
投稿者: komash0427 投稿日時: 2007/01/02 08:38 投稿番号: [230045 / 232612]
15日の朝、照明は覚悟を決めて鹿児島を飛び立った。帰国する5人を家族会全体として向かえる予定の羽田へ、危篤状態の父親のもとを離れるのは心残りだが、5人から何かひとつでもるみ子に関するいい情報が聞けるかもしれない。それを親父に届けてあげたい。
タラップを5人が降りてきた。感動した。でも、正直言って、悔しさのほうが大きかった。抱き合って涙を流す家族の輪を見ながら、何でここに姉貴がいないんだと、強い悔しさがこみ上げてきた。翌日の、5人との懇談会では、“るみ姉”に関する情報は何も得られなかった。鹿児島に向かう飛行機の中で、照明は考えた。病床のオヤジに、ウソでもいいから、「姉貴は生きてるとわかったよ」と言おうか。でも、結局ウソはつけなかった。正一が息を引き取ったのは、照明が病院に戻った当日の深夜。17日、午前1時46分だった。臨終のベッドには、家族がみな集まった。枕元にはるみ子の振袖姿の、いつもの写真を置いた。
●暴かれた「死亡年月日」
「しめたァー!」
その瞬間、市川健一は、携帯電話に向かって、思わず大声を出した。うれしさで心のそこから湧き上がってきた叫びだった。
電話の中身は、外務省が知らせてきた、弟・修一の「死亡年月日」だ。’79(昭54)年9月4日だと言う。それを聞いたとたん、健一は、とっさにそう叫んだのだ。
弟の修一については、安明進さんの明確な目撃証言がある。「金正日政治軍事大学で、言葉を交わし、タバコももらった」というのだ。「この男性については、何回も見ました。間違いありません」とも語っている。健一にも、直接会って話してくれた。
「最後に見たのは’91年8月」だ。それ以前に死んでいるなんて、ありえない。それなのに、死亡したのは’79年だという。北朝鮮が知らせてきた日付はデタラメだ。ということは、修一が死亡したという「安否情報」自体が真っ赤なウソなんだ。弟は生きている。
‘02(平14)年9月19日。小泉訪朝の2日後。その日は、外務省から修一の死亡年月日」について、鹿児島の自宅に連絡が入る予定になっていた。健一は午前中から車で外出する幼児が新野で、長男に何度も念を押した。「電話の前にいなさいよ。外務省から電話が入ったら、お父さんの携帯にすぐ連絡してよ」。そう言い置いて家を出た。
しばらくすると、長男から電話が入った。「いまきたよ」。健一は真っ先にたずねた。「死亡年月日は、いつ?」大声を出していた。「お父さん、’79年だよ」。
「しめたーァッ!」・・・・・渾身の叫びが、健一の口を衝いて出た。その後は、フロントガラスの先に広がる風景が、ハンドルを握りながら、何度か涙で歪んだ。
外務省に対しては長男が「父が戻ったら折り返し電話させます」と伝えてあったので、昼過ぎに帰宅した健一は、すぐに担当者に電話を入れた。
「もう一度お尋ねしますけど、’79年9月4日、ですね」「はい、そうです」
外務省がそう応えるのを聞いて、健一はすぐさま「わかりました」と、それだけ言ってぱっと電話を切ってしまった。それさえわかればいいんだ、それさえ。その「日付」さえ。間違いない。’91年より前だ。弟は生きている。
この2日間、「日付」が健一を支えてきた。それが、健一の念じていたとおりの結果をもたらしてくれたのだ。
2日前の小泉訪朝の日、市川健一は外務省飯倉公館で弟の「死亡」を宣告されてきた。その瞬間、健一の頭の中は文字通り真っ白になった。
一瞬、そうだ鹿児島の両親に黙っておこうと思った。もう90歳近い両親には内緒にしよう。そんなばかげたことを考えてしまうほど、気が動転した。鹿児島にだってテレビを通じてこの情報はすぐに流れるのに。
まさか、死亡といわれるなんて思っても見なかった。おそらく今回も北朝鮮の回答は「調査したが不明」のままだろう。そんな危惧は持っていた。呼ばれて部屋に入ると、出迎えた植竹繁雄外務副大臣の顔が沈んでいる。やはり「消息不明」のままなんだ。そう思った。ところが、次に耳にした言葉は思いもよらないものだった。「残念ながら、弟さんは死亡されています」。
健一、妻の龍子、長男・・・・・3人とも言葉を失った。植竹副大臣も、「人の生命に関わることですから、慎重に確認しましたところ、弟さんは死亡されています」と言ったきり、押し黙ったままだ。シーンと重苦しい空気が、何分間も部屋じゅうを支配した。
(→)
タラップを5人が降りてきた。感動した。でも、正直言って、悔しさのほうが大きかった。抱き合って涙を流す家族の輪を見ながら、何でここに姉貴がいないんだと、強い悔しさがこみ上げてきた。翌日の、5人との懇談会では、“るみ姉”に関する情報は何も得られなかった。鹿児島に向かう飛行機の中で、照明は考えた。病床のオヤジに、ウソでもいいから、「姉貴は生きてるとわかったよ」と言おうか。でも、結局ウソはつけなかった。正一が息を引き取ったのは、照明が病院に戻った当日の深夜。17日、午前1時46分だった。臨終のベッドには、家族がみな集まった。枕元にはるみ子の振袖姿の、いつもの写真を置いた。
●暴かれた「死亡年月日」
「しめたァー!」
その瞬間、市川健一は、携帯電話に向かって、思わず大声を出した。うれしさで心のそこから湧き上がってきた叫びだった。
電話の中身は、外務省が知らせてきた、弟・修一の「死亡年月日」だ。’79(昭54)年9月4日だと言う。それを聞いたとたん、健一は、とっさにそう叫んだのだ。
弟の修一については、安明進さんの明確な目撃証言がある。「金正日政治軍事大学で、言葉を交わし、タバコももらった」というのだ。「この男性については、何回も見ました。間違いありません」とも語っている。健一にも、直接会って話してくれた。
「最後に見たのは’91年8月」だ。それ以前に死んでいるなんて、ありえない。それなのに、死亡したのは’79年だという。北朝鮮が知らせてきた日付はデタラメだ。ということは、修一が死亡したという「安否情報」自体が真っ赤なウソなんだ。弟は生きている。
‘02(平14)年9月19日。小泉訪朝の2日後。その日は、外務省から修一の死亡年月日」について、鹿児島の自宅に連絡が入る予定になっていた。健一は午前中から車で外出する幼児が新野で、長男に何度も念を押した。「電話の前にいなさいよ。外務省から電話が入ったら、お父さんの携帯にすぐ連絡してよ」。そう言い置いて家を出た。
しばらくすると、長男から電話が入った。「いまきたよ」。健一は真っ先にたずねた。「死亡年月日は、いつ?」大声を出していた。「お父さん、’79年だよ」。
「しめたーァッ!」・・・・・渾身の叫びが、健一の口を衝いて出た。その後は、フロントガラスの先に広がる風景が、ハンドルを握りながら、何度か涙で歪んだ。
外務省に対しては長男が「父が戻ったら折り返し電話させます」と伝えてあったので、昼過ぎに帰宅した健一は、すぐに担当者に電話を入れた。
「もう一度お尋ねしますけど、’79年9月4日、ですね」「はい、そうです」
外務省がそう応えるのを聞いて、健一はすぐさま「わかりました」と、それだけ言ってぱっと電話を切ってしまった。それさえわかればいいんだ、それさえ。その「日付」さえ。間違いない。’91年より前だ。弟は生きている。
この2日間、「日付」が健一を支えてきた。それが、健一の念じていたとおりの結果をもたらしてくれたのだ。
2日前の小泉訪朝の日、市川健一は外務省飯倉公館で弟の「死亡」を宣告されてきた。その瞬間、健一の頭の中は文字通り真っ白になった。
一瞬、そうだ鹿児島の両親に黙っておこうと思った。もう90歳近い両親には内緒にしよう。そんなばかげたことを考えてしまうほど、気が動転した。鹿児島にだってテレビを通じてこの情報はすぐに流れるのに。
まさか、死亡といわれるなんて思っても見なかった。おそらく今回も北朝鮮の回答は「調査したが不明」のままだろう。そんな危惧は持っていた。呼ばれて部屋に入ると、出迎えた植竹繁雄外務副大臣の顔が沈んでいる。やはり「消息不明」のままなんだ。そう思った。ところが、次に耳にした言葉は思いもよらないものだった。「残念ながら、弟さんは死亡されています」。
健一、妻の龍子、長男・・・・・3人とも言葉を失った。植竹副大臣も、「人の生命に関わることですから、慎重に確認しましたところ、弟さんは死亡されています」と言ったきり、押し黙ったままだ。シーンと重苦しい空気が、何分間も部屋じゅうを支配した。
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これは メッセージ 230021 (komash0427 さん)への返信です.