☆ 小説・李承晩の野暮 ☆(五)
投稿者: bmmkx155 投稿日時: 2006/04/23 08:43 投稿番号: [227815 / 232612]
平成12年3月1日付の産経新聞によれば、
新任の韓国大使が韓国人記者団と懇談したおり、竹島問題にも触れ、
次のように語ったと報じている。
「韓国民は竹島問題に非常な関心を持っているが、日本人はさほどの関心を持ってはいない。もしこの問題を刺激し、日本人が我々と同じような関心を持つようになれば、両国間に予想もできない事態が発生する可能性もある」
……と、これを読む限り、
どうやら、竹島問題については日本人に無関心のままでいて欲しい、
と云うのが韓国側の本音のようである。
(五)
竹島近海における操業の停止は、西日本漁民にとって死活問題である。自然、危険を承知で出漁していく漁船もあとを断たなかった。無理もない。自らの労働に頼る以外、生活の補償は何処からも得られないのである。
彼らの、尚も危険海域へと向かおうと云う覚悟は、生半可な覚悟ではない。男であればこそ、家族の生活はなんとしても護らねばならぬ、と云う<崇高なる責任>からくるものなのである。
が、そんな中、ついに最悪の事件が発生した。
1953年(昭和28年)4月2日、日本の漁船、第一大邦丸の海労長が、韓国艦艇の銃撃によって射殺されてしまったのである。
日本列島を激震が襲った。
通常ならば、これは戦争にも発展しかねぬ大事件である。強い態度で臨むのが普通の国家であろう。しかし新しい日本国憲法には、あらゆる国際紛争も武力による解決などは許していない。しかも施行されてまだ6年しか経っていないのである。それになにより朝鮮戦争を経験した韓国軍に比べ、日本は武装解除してからのち、まともな武力を備えてはいない。
「航海上において日本人を射殺するとは何ごとか」
このようにただ日本政府は抗議をするしかなかった。李承晩はこの日本の弱腰を承知のうえで日本に対峙している。ゆえに謝罪するどころか逆に日本側を恫喝し、
「撃ち殺されたくなくば李承晩ラインを侵犯するでない」
と自らの理不尽を正当化したのである。
見かねた日本政府はその6月25日、ついに竹島への上陸を決行、そこに、
<島根県隠岐郡五箇村字竹島>
と云う領土標柱が存在することを確認した。
それを知った李承晩は、
「おのれ、チョッパリ(日本人)が!」
たちまち激怒し、直ちに竹島を奪取するよう命じた。
が、韓国の上陸部隊が竹島へと到着したときには、すでに日本側は標柱を確認し終え、引き揚げたあとであった。
「チョッパリどもめが、恐れをなして逃げおったわい」
韓国の上陸部隊はそのまま日本側と入れ替わるように竹島へと居座り、7月12日、付近を巡回に来た日本の巡視船に対し、発砲を繰り返すと云う行動に出た。
(この時以来、韓国は竹島に警備隊員を常駐させ、宿舎、監視所、アンテナ等を設置、平成9年には500㌧もの船舶が利用できる接岸施設を建設、さらに翌年、日本側の再三の抗議にも拘わらず有人灯台も完工させている)
こうした状況のなかで、1954年9月、李承晩は、竹島の武力占領と李承晩ラインの正当性を主張するため、竹島を描く切手を発行した。
さらに李承晩は、卑怯にも日本への国際郵便にはすべてこの竹島切手を使用するよう指示。日本政府も、この切手を認めずとして発見次第に韓国に送り返すと云う処置で対抗したのだが、なにしろ膨大な量の為、それも完璧には遂行できなかった。
島根県漁業協同組合連合会
代表理事会長 岸 宏氏 談
「隠岐の漁業者十名が竹島へ最後に出漁したのは、
李承晩ラインが引かれて二年後の昭和二十九年の五月です。
それから、隠岐島の漁業者のぜひ出漁したいという悲痛な願いも空しく、
五十年が経ったわけでございます。
今では韓国船の無謀な操業によって日本近海も占拠され
資源の枯渇をも来しており、
本県漁船はほとんどが操業できないという中で、
海は死の海と化していると言っても過言ではありません。
これはとりもなおさず、
竹島の領土権が確立されていないために生ずる問題であります。
竹島の領土権の確立なくして魚の宝庫である竹島、
及び竹島周辺の漁場の回復も、
島根県の水産の振興もあり得ないというのが実状なのであります」
−つづく−
竹島の所在は<島根県隠岐郡五箇村字竹島無番地>である。
新任の韓国大使が韓国人記者団と懇談したおり、竹島問題にも触れ、
次のように語ったと報じている。
「韓国民は竹島問題に非常な関心を持っているが、日本人はさほどの関心を持ってはいない。もしこの問題を刺激し、日本人が我々と同じような関心を持つようになれば、両国間に予想もできない事態が発生する可能性もある」
……と、これを読む限り、
どうやら、竹島問題については日本人に無関心のままでいて欲しい、
と云うのが韓国側の本音のようである。
(五)
竹島近海における操業の停止は、西日本漁民にとって死活問題である。自然、危険を承知で出漁していく漁船もあとを断たなかった。無理もない。自らの労働に頼る以外、生活の補償は何処からも得られないのである。
彼らの、尚も危険海域へと向かおうと云う覚悟は、生半可な覚悟ではない。男であればこそ、家族の生活はなんとしても護らねばならぬ、と云う<崇高なる責任>からくるものなのである。
が、そんな中、ついに最悪の事件が発生した。
1953年(昭和28年)4月2日、日本の漁船、第一大邦丸の海労長が、韓国艦艇の銃撃によって射殺されてしまったのである。
日本列島を激震が襲った。
通常ならば、これは戦争にも発展しかねぬ大事件である。強い態度で臨むのが普通の国家であろう。しかし新しい日本国憲法には、あらゆる国際紛争も武力による解決などは許していない。しかも施行されてまだ6年しか経っていないのである。それになにより朝鮮戦争を経験した韓国軍に比べ、日本は武装解除してからのち、まともな武力を備えてはいない。
「航海上において日本人を射殺するとは何ごとか」
このようにただ日本政府は抗議をするしかなかった。李承晩はこの日本の弱腰を承知のうえで日本に対峙している。ゆえに謝罪するどころか逆に日本側を恫喝し、
「撃ち殺されたくなくば李承晩ラインを侵犯するでない」
と自らの理不尽を正当化したのである。
見かねた日本政府はその6月25日、ついに竹島への上陸を決行、そこに、
<島根県隠岐郡五箇村字竹島>
と云う領土標柱が存在することを確認した。
それを知った李承晩は、
「おのれ、チョッパリ(日本人)が!」
たちまち激怒し、直ちに竹島を奪取するよう命じた。
が、韓国の上陸部隊が竹島へと到着したときには、すでに日本側は標柱を確認し終え、引き揚げたあとであった。
「チョッパリどもめが、恐れをなして逃げおったわい」
韓国の上陸部隊はそのまま日本側と入れ替わるように竹島へと居座り、7月12日、付近を巡回に来た日本の巡視船に対し、発砲を繰り返すと云う行動に出た。
(この時以来、韓国は竹島に警備隊員を常駐させ、宿舎、監視所、アンテナ等を設置、平成9年には500㌧もの船舶が利用できる接岸施設を建設、さらに翌年、日本側の再三の抗議にも拘わらず有人灯台も完工させている)
こうした状況のなかで、1954年9月、李承晩は、竹島の武力占領と李承晩ラインの正当性を主張するため、竹島を描く切手を発行した。
さらに李承晩は、卑怯にも日本への国際郵便にはすべてこの竹島切手を使用するよう指示。日本政府も、この切手を認めずとして発見次第に韓国に送り返すと云う処置で対抗したのだが、なにしろ膨大な量の為、それも完璧には遂行できなかった。
島根県漁業協同組合連合会
代表理事会長 岸 宏氏 談
「隠岐の漁業者十名が竹島へ最後に出漁したのは、
李承晩ラインが引かれて二年後の昭和二十九年の五月です。
それから、隠岐島の漁業者のぜひ出漁したいという悲痛な願いも空しく、
五十年が経ったわけでございます。
今では韓国船の無謀な操業によって日本近海も占拠され
資源の枯渇をも来しており、
本県漁船はほとんどが操業できないという中で、
海は死の海と化していると言っても過言ではありません。
これはとりもなおさず、
竹島の領土権が確立されていないために生ずる問題であります。
竹島の領土権の確立なくして魚の宝庫である竹島、
及び竹島周辺の漁場の回復も、
島根県の水産の振興もあり得ないというのが実状なのであります」
−つづく−
竹島の所在は<島根県隠岐郡五箇村字竹島無番地>である。
これは メッセージ 227814 (bmmkx155 さん)への返信です.