小泉外交_17
投稿者: komash0427 投稿日時: 2005/08/31 00:33 投稿番号: [213606 / 232612]
「一家来日」激しい綱引き
曽我ひとみさん一家をいつ、どうやって日本へ連れ帰るか。1年9ヶ月ぶりの劇的な再会の後に待っていたのは、来日をめぐる日本と北朝鮮との激しい水面下の攻防だった。
7月9日夕、ジャカルタのスカルノ・ハッタ国際空港。曽我と夫のチャールズ・ジェンキンスが抱き合って再会を喜んだ直後、3人の男が同じチャーター機のタラップを降りた。北朝鮮からの同行者だった。
北朝鮮側は3人を、「一家の世話係」と説明し、表向きは「ジェンキンスさんらがいつまでインドネシアにいても構わない」としていた。だが、日本側は、平壌での曽我さん一家の監視員と、その上司、もう1人は不明。3人は状況次第では、一家を北朝鮮に連れ戻す役割も担っている」と分析した。
ジェンキンスが滞在中、中山恭子内閣官房参与らにこう打ち明けたからだ。
「北朝鮮当局から『曽我さんを北朝鮮に連れ戻したら、運転手つきの車一台をあげる』と言われた」
日本側は、曽我一家と3人の一切の接触を断った。一家の滞在先には、専用キーなしではエレベーターから降りられないホテル14階のスイートルームを選んだ。廊下に警備員を配し、部屋の電話機を外させた。
3人の男は同じホテルに滞在し、執拗に面会を迫った。在ジャカルタ北朝鮮大使を通じてインドネシア政府に「何とか会わせろ」と働きかけた。スイートルームに強引に潜入しようと試み、警備員と小競り合いになったこともあった。
北朝鮮側は事前に、脱走兵のジェンキンスと娘たちにこう吹きこんでいた。
「日本に行き、米軍に引き渡されれば、死刑になる」
ジェンキンスは不安に駆られた。ストレスから酒を飲んで、ホテルの備品を壊したり、外務省職員の首をネクタイで絞めたりしたこともあった。
来日までには時間を要すると見られた。ジャカルタに派遣された政府職員は後日、「長期出張を覚悟し、数ヶ月の旅行保険に入っていた」と話した。
だが、事態は急変した。
再会翌日の7月10日午後、日本から同行した医師がジェンキンスを診断し、腹部の手術跡の化膿を発見した。ジェンキンスは「癌の疑いがあるといわれた」と説明した。「精神を安定させるには、専門の治療が必要」とされた。
中山らは日本に連れて行く決意を固めた。しかし、外務省側は難色を示した。ジェンキンスが来日すれば、米側は身柄引渡しを求める構えだった。そこをどう切り抜けるのか、が決着していなかったからだ。
それでも中山は、深夜便の飛行機に飛び乗り、東京に向かった。7月12日午後、中山は首相官邸で小泉に直談判した。
「早急に日本で入院、治療を受けさせるべきです」
小泉はその場で「分かった」と了承した。
ジェンキンスは16日、初めて3人の男と面会した。北朝鮮の自宅に残した冷蔵庫やタンスなどの備品の受取人を指定したリストを手渡し、こう言った。
「一家で日本へ行く」
39年あまりも支配下に置かれた北朝鮮に対する「決別宣言」だった。
5月に平壌で小泉が「最善の努力」を約束した紙を、ジェンキンスは大事に折り畳み、お守りのように、片時も離さなかった。
(文中敬称略、肩書きは当時)
-------------------------------------------- -
●曽我ひとみさん一家の動き
1978年 8月12日 曽我さんが19歳で、新潟県・佐渡で母親のミヨシさんとともに北朝鮮に拉致される
80年 8月 8日 曽我さんがチャールズ・ジェンキンスさんと結婚
83年 6月 1日 長女美花さんが誕生
85年 7月23日 二女ブリンダさん誕生
86年 9月19日 曽我さんの失踪宣告が確定。5日後に戸籍抹消
2002年 9月17日 初の日朝首脳会談。曽我さんの拉致が判明。
10月15日 曽我さんが24年ぶりに帰国
11月 7日 曽我さんが戸籍回復
2004年 5月22日 2回目の日朝首脳会談。ジェンキンスさんと娘2人が来日を拒否。第三国での再会に同意。
7月 1日 日朝外相会談で、インドネシアでの再会を決定
9日 曽我さん一家4人が再会
18日 一家で日本に帰国。ジェンキンスさんは都内で入院
9月11日 ジェンキンスさんが在日米陸軍キャンプ座間に出頭
11月 3日 ジェンキンスさんが軍法会議で脱走罪などで「禁固30日、不名誉除隊」の実刑判決
27日 ジェンキンスさんが6日間の刑期短縮により釈放
12月 7日 一家4人が佐渡へ
曽我ひとみさん一家をいつ、どうやって日本へ連れ帰るか。1年9ヶ月ぶりの劇的な再会の後に待っていたのは、来日をめぐる日本と北朝鮮との激しい水面下の攻防だった。
7月9日夕、ジャカルタのスカルノ・ハッタ国際空港。曽我と夫のチャールズ・ジェンキンスが抱き合って再会を喜んだ直後、3人の男が同じチャーター機のタラップを降りた。北朝鮮からの同行者だった。
北朝鮮側は3人を、「一家の世話係」と説明し、表向きは「ジェンキンスさんらがいつまでインドネシアにいても構わない」としていた。だが、日本側は、平壌での曽我さん一家の監視員と、その上司、もう1人は不明。3人は状況次第では、一家を北朝鮮に連れ戻す役割も担っている」と分析した。
ジェンキンスが滞在中、中山恭子内閣官房参与らにこう打ち明けたからだ。
「北朝鮮当局から『曽我さんを北朝鮮に連れ戻したら、運転手つきの車一台をあげる』と言われた」
日本側は、曽我一家と3人の一切の接触を断った。一家の滞在先には、専用キーなしではエレベーターから降りられないホテル14階のスイートルームを選んだ。廊下に警備員を配し、部屋の電話機を外させた。
3人の男は同じホテルに滞在し、執拗に面会を迫った。在ジャカルタ北朝鮮大使を通じてインドネシア政府に「何とか会わせろ」と働きかけた。スイートルームに強引に潜入しようと試み、警備員と小競り合いになったこともあった。
北朝鮮側は事前に、脱走兵のジェンキンスと娘たちにこう吹きこんでいた。
「日本に行き、米軍に引き渡されれば、死刑になる」
ジェンキンスは不安に駆られた。ストレスから酒を飲んで、ホテルの備品を壊したり、外務省職員の首をネクタイで絞めたりしたこともあった。
来日までには時間を要すると見られた。ジャカルタに派遣された政府職員は後日、「長期出張を覚悟し、数ヶ月の旅行保険に入っていた」と話した。
だが、事態は急変した。
再会翌日の7月10日午後、日本から同行した医師がジェンキンスを診断し、腹部の手術跡の化膿を発見した。ジェンキンスは「癌の疑いがあるといわれた」と説明した。「精神を安定させるには、専門の治療が必要」とされた。
中山らは日本に連れて行く決意を固めた。しかし、外務省側は難色を示した。ジェンキンスが来日すれば、米側は身柄引渡しを求める構えだった。そこをどう切り抜けるのか、が決着していなかったからだ。
それでも中山は、深夜便の飛行機に飛び乗り、東京に向かった。7月12日午後、中山は首相官邸で小泉に直談判した。
「早急に日本で入院、治療を受けさせるべきです」
小泉はその場で「分かった」と了承した。
ジェンキンスは16日、初めて3人の男と面会した。北朝鮮の自宅に残した冷蔵庫やタンスなどの備品の受取人を指定したリストを手渡し、こう言った。
「一家で日本へ行く」
39年あまりも支配下に置かれた北朝鮮に対する「決別宣言」だった。
5月に平壌で小泉が「最善の努力」を約束した紙を、ジェンキンスは大事に折り畳み、お守りのように、片時も離さなかった。
(文中敬称略、肩書きは当時)
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●曽我ひとみさん一家の動き
1978年 8月12日 曽我さんが19歳で、新潟県・佐渡で母親のミヨシさんとともに北朝鮮に拉致される
80年 8月 8日 曽我さんがチャールズ・ジェンキンスさんと結婚
83年 6月 1日 長女美花さんが誕生
85年 7月23日 二女ブリンダさん誕生
86年 9月19日 曽我さんの失踪宣告が確定。5日後に戸籍抹消
2002年 9月17日 初の日朝首脳会談。曽我さんの拉致が判明。
10月15日 曽我さんが24年ぶりに帰国
11月 7日 曽我さんが戸籍回復
2004年 5月22日 2回目の日朝首脳会談。ジェンキンスさんと娘2人が来日を拒否。第三国での再会に同意。
7月 1日 日朝外相会談で、インドネシアでの再会を決定
9日 曽我さん一家4人が再会
18日 一家で日本に帰国。ジェンキンスさんは都内で入院
9月11日 ジェンキンスさんが在日米陸軍キャンプ座間に出頭
11月 3日 ジェンキンスさんが軍法会議で脱走罪などで「禁固30日、不名誉除隊」の実刑判決
27日 ジェンキンスさんが6日間の刑期短縮により釈放
12月 7日 一家4人が佐渡へ
これは メッセージ 213424 (komash0427 さん)への返信です.