小泉外交_3
投稿者: komash0427 投稿日時: 2005/08/21 21:51 投稿番号: [212470 / 232612]
帰国を阻んだ北の呪縛
小泉訪朝は、日本人拉致が北朝鮮の国家犯罪だったことを明らかにした。隣国が抱える「深い闇」は、日本国民に衝撃を与えた。
2002年9月17日昼。初の日朝首脳会談の最中、先遣隊長の梅本和義駐英公使は平壌市内のアパートに駈けつけた。拉致された蓮池薫、地村保志両夫妻との面会が許されたのだ。
梅本は「日本にきたいですか」と尋ねた。4人の答えは極めて慎重だった。
「子供の学校もある。夫婦でよく相談したい」
面会前に北朝鮮当局者が部屋を退出した際、空調を切った。蓮池らは「盗聴される」と直感し、自由に発言できなくなったのだ。
拉致被害者一人ひとりが、北朝鮮による「呪縛」にとらわれていた。
両家族はこの年(2002年)6月、高い塀で囲まれ、監視も厳しい「招待所」から一般住民も住む高層アパートに引越しさせられた。
「日朝国交正常化を側面支援する『広告塔』に使うための準備だったのだろう」と、政府筋は指摘する。
蓮池ら5人は帰国前、北朝鮮当局に「子供を連れて行くか」と聞かれた。5人は「すぐ戻るので、その必要はない」と答えた。北朝鮮への忠誠心を試されている、と感じたからだった。
蓮池らの帰国後、北朝鮮は、5人に子供たちを迎えにくるよう持ちかけた。「平壌でなく、北京でもいい」とも誘った。蓮池らは悩みながらも拒否した。「第三国に行けば、子供たちに泣かれ、北朝鮮に連れ戻されかねない」と恐れたからだ。
親子が離散して1年半余。5月の小泉再訪朝により、蓮池らの子供5人が帰国した。曽我ひとみの夫チャールズ・ジェンキンスは来日を拒否し、第三国で再開することになった。
再会場所をどこにするか。
外務省は当初、北京にするつもりだった。だが、曽我は「北朝鮮に連れ戻される」と難色を示した。この時、曽我を支えたの蓮池、地村夫妻だった。
「曽我さんを北京に行かせては絶対にいけない」
4人は中山恭子内閣官房参与に電話し、再会場所の変更を訴えた。
4人の助言を受け、曽我も「北京以外で再会したい」と表明した。これが決め手となり、北京案は消え、7月にジャカルタ再会が実現した。
しかし、まだ問題があった。脱走兵のジェンキンスは訴追を恐れていた。長女の美花も「日本に行けば、パパは死刑になる」と信じていた。
転機は、1本の国際電話だった。7月11日、飯村豊インドネシア大氏公邸での夕食会。飯村の計らいで、ジェンキンスは米国にいる妹夫婦に電話した。
「30年ぶりだ。どうしようか。泣いちゃうよ」
涙を流しつつ、約30分間の電話を終えたジェンキンスは「よくやってくれた」と飯村らに感謝した。日本政府への信頼感が芽生えた瞬間だった。1週間後、ジェンキンスは、北朝鮮の随行者と決別し、日本行きチャーター機に乗った。
拉致被害者の帰国までの足取りは、独裁国家と向き合うことの困難さを改めて浮き彫りにしている。
(敬称略、肩書きは当時)
小泉訪朝は、日本人拉致が北朝鮮の国家犯罪だったことを明らかにした。隣国が抱える「深い闇」は、日本国民に衝撃を与えた。
2002年9月17日昼。初の日朝首脳会談の最中、先遣隊長の梅本和義駐英公使は平壌市内のアパートに駈けつけた。拉致された蓮池薫、地村保志両夫妻との面会が許されたのだ。
梅本は「日本にきたいですか」と尋ねた。4人の答えは極めて慎重だった。
「子供の学校もある。夫婦でよく相談したい」
面会前に北朝鮮当局者が部屋を退出した際、空調を切った。蓮池らは「盗聴される」と直感し、自由に発言できなくなったのだ。
拉致被害者一人ひとりが、北朝鮮による「呪縛」にとらわれていた。
両家族はこの年(2002年)6月、高い塀で囲まれ、監視も厳しい「招待所」から一般住民も住む高層アパートに引越しさせられた。
「日朝国交正常化を側面支援する『広告塔』に使うための準備だったのだろう」と、政府筋は指摘する。
蓮池ら5人は帰国前、北朝鮮当局に「子供を連れて行くか」と聞かれた。5人は「すぐ戻るので、その必要はない」と答えた。北朝鮮への忠誠心を試されている、と感じたからだった。
蓮池らの帰国後、北朝鮮は、5人に子供たちを迎えにくるよう持ちかけた。「平壌でなく、北京でもいい」とも誘った。蓮池らは悩みながらも拒否した。「第三国に行けば、子供たちに泣かれ、北朝鮮に連れ戻されかねない」と恐れたからだ。
親子が離散して1年半余。5月の小泉再訪朝により、蓮池らの子供5人が帰国した。曽我ひとみの夫チャールズ・ジェンキンスは来日を拒否し、第三国で再開することになった。
再会場所をどこにするか。
外務省は当初、北京にするつもりだった。だが、曽我は「北朝鮮に連れ戻される」と難色を示した。この時、曽我を支えたの蓮池、地村夫妻だった。
「曽我さんを北京に行かせては絶対にいけない」
4人は中山恭子内閣官房参与に電話し、再会場所の変更を訴えた。
4人の助言を受け、曽我も「北京以外で再会したい」と表明した。これが決め手となり、北京案は消え、7月にジャカルタ再会が実現した。
しかし、まだ問題があった。脱走兵のジェンキンスは訴追を恐れていた。長女の美花も「日本に行けば、パパは死刑になる」と信じていた。
転機は、1本の国際電話だった。7月11日、飯村豊インドネシア大氏公邸での夕食会。飯村の計らいで、ジェンキンスは米国にいる妹夫婦に電話した。
「30年ぶりだ。どうしようか。泣いちゃうよ」
涙を流しつつ、約30分間の電話を終えたジェンキンスは「よくやってくれた」と飯村らに感謝した。日本政府への信頼感が芽生えた瞬間だった。1週間後、ジェンキンスは、北朝鮮の随行者と決別し、日本行きチャーター機に乗った。
拉致被害者の帰国までの足取りは、独裁国家と向き合うことの困難さを改めて浮き彫りにしている。
(敬称略、肩書きは当時)
これは メッセージ 212423 (komash0427 さん)への返信です.