レバノン女性拉致事件1
投稿者: sofiansky2003 投稿日時: 2005/07/18 21:58 投稿番号: [208719 / 232612]
(金賛汀「拉致−国家犯罪の構図」から)
(1)事件は1978年7月、レバノンの首都ベイルートで起きた。
その地にある職業訓練学校YWCA秘書学院に、日本の大企業日立の社員を名乗る東洋人男性2人がレバノン人案内者とともに訪れた。
彼らは東京の日立事務所で働く女性4人の募集に来たとのことであった。
当時は内戦状態で、平和な日本の大企業で働けるとあって20人近い女性が応募したが、採用されたのは4人。
彼女たちは採用の条件である①フランス語ができる②容姿端麗③独身、の条件を満たしていた。
1978年8月、4人のレバノン女性は東京に向かうべく東洋人男性に引率され、ベイルートをたった。
ベイルート−アテネ−ベオグラード−モスクワ−ピョンヤンの空路であるが、ピョンヤンにつくまで彼女たちは空路が東京までの経由だと考えていた。
しかしピョンヤンに着くと、ピョンヤン近郊の外部と完全に連絡を絶たれた地域の宿舎にばらばらに送り込まれた。
そこは彼女たちの話の様子から、ピョンヤン市郊外にある、金正日政治軍事大学の工作員養成の「招待所」のようである。
その招待所で生活しながら、彼女たちは朝鮮語の学習、北朝鮮の金日成賛美のテレビ映像による視聴覚教育、アラビア語の堪能な教官から共産主義教育がほどこされた。
彼女たちがベイルートをたってしばらくしても、家族たちに届くはずの「無事東京に到着」の連絡がない。
心配した家族が事情を聞くため、就職の斡旋に立ちあったレバノン人男性を捜し始めた。
そしてその男性が、北朝鮮の通商代表部に勤めているを突きとめた。
家族がその男シャウキ・アジャミンを追及すると、アジャミンは苦しまぎれに日本のある住所を告げた。
家族が日本大使館でその住所を照会すると、日本はそのような住所がないことが判明した。
家族は北朝鮮通商代表部とアジャミンに、娘を返せと抗議を起こした。
宗教家や政治家も動きだし、現地の新聞も報道されるようになった。
慌てた北朝鮮通商代表部は、女性たちが無事で自発的に東京で働いていると偽装するため、女性たち2人をベオグラードに連れて行き、そこから家族に電話をかけさせた。
ピョンヤンから電話をしなかったのは、ピョンヤンの国際電話はすべてオペレータを通してなされたいるため、彼女たちがいる場所が特定されることを恐れたのである。
そこで北朝鮮の工作機関あるベオグラードに連行し、そこから電話をかけさせた。
電話をかける間、女性たちには北朝鮮工作員の拳銃が向けられていた。
彼女たちはそのような脅迫を受けながら、東京で無事働いているという虚偽の報告をさせられた。
その後、2人はホテルのヘアーサロンでパーマをかけているとき、北朝鮮工作員の監視の隙を見てホテル前からタクシーに乗り、クウェート大使館に駆け込んだ。
そこから、連絡を受けて迎えに来たレバノン大使館員に助けだされた。
クウェート大使館に逃げ込んだのは、ベオグラードのレバノン大使館は北朝鮮の味方で、逃げても無駄だと北朝鮮の工作員から聞かされ、それを真に受けてクウェート大使館に逃げ込んだという。
2人の脱出により、事件が発覚したのが1979年8月である。
レバノン政府は北朝鮮政府に強く抗議し、残っている2人の身柄の返還を要求した。
しかし、北朝鮮政府はさまざまな口実を設け、交渉が続いた。
その交渉には、PLOの最左翼に位置するPFLPが北朝鮮との間にパイプがあったてめに、仲介役として動いた。
レバノン政府、PFLPの幹部などが交渉を繰り返した末、ようやく3ヶ月後に解決した。
北朝鮮は解決に当り、レバノン政府が以降この問題を取り上げないことと、「友好関係」を保つことを条件にしたといわれている。
その結果であろう、レバノンにある北朝鮮の通商代表部はこの事件の解決後、大使館に格上げされた。
拉致女性たちに対する補償はなかった。
北朝鮮がレバノンで4人の女性を拉致した目的は、どこにあったのか、それは当時の北朝鮮政府が繰り広げていた、非同盟諸国会議での発言権の拡大と勢力の増加をもくろんで行っていた外交工作と関連がある。
アラブ諸国のフランス語圏−非同盟諸国会議の雄アルジェリアなどに拠点を置く北朝鮮工作員の増強を目指した、工作拠点の拡大計画の一環であったのだろう。
ただ、工作員の獲得が目的ならば男性でもかまわないことになるが、拉致者が女性でなければならない別の理由があった。
(→next)
(1)事件は1978年7月、レバノンの首都ベイルートで起きた。
その地にある職業訓練学校YWCA秘書学院に、日本の大企業日立の社員を名乗る東洋人男性2人がレバノン人案内者とともに訪れた。
彼らは東京の日立事務所で働く女性4人の募集に来たとのことであった。
当時は内戦状態で、平和な日本の大企業で働けるとあって20人近い女性が応募したが、採用されたのは4人。
彼女たちは採用の条件である①フランス語ができる②容姿端麗③独身、の条件を満たしていた。
1978年8月、4人のレバノン女性は東京に向かうべく東洋人男性に引率され、ベイルートをたった。
ベイルート−アテネ−ベオグラード−モスクワ−ピョンヤンの空路であるが、ピョンヤンにつくまで彼女たちは空路が東京までの経由だと考えていた。
しかしピョンヤンに着くと、ピョンヤン近郊の外部と完全に連絡を絶たれた地域の宿舎にばらばらに送り込まれた。
そこは彼女たちの話の様子から、ピョンヤン市郊外にある、金正日政治軍事大学の工作員養成の「招待所」のようである。
その招待所で生活しながら、彼女たちは朝鮮語の学習、北朝鮮の金日成賛美のテレビ映像による視聴覚教育、アラビア語の堪能な教官から共産主義教育がほどこされた。
彼女たちがベイルートをたってしばらくしても、家族たちに届くはずの「無事東京に到着」の連絡がない。
心配した家族が事情を聞くため、就職の斡旋に立ちあったレバノン人男性を捜し始めた。
そしてその男性が、北朝鮮の通商代表部に勤めているを突きとめた。
家族がその男シャウキ・アジャミンを追及すると、アジャミンは苦しまぎれに日本のある住所を告げた。
家族が日本大使館でその住所を照会すると、日本はそのような住所がないことが判明した。
家族は北朝鮮通商代表部とアジャミンに、娘を返せと抗議を起こした。
宗教家や政治家も動きだし、現地の新聞も報道されるようになった。
慌てた北朝鮮通商代表部は、女性たちが無事で自発的に東京で働いていると偽装するため、女性たち2人をベオグラードに連れて行き、そこから家族に電話をかけさせた。
ピョンヤンから電話をしなかったのは、ピョンヤンの国際電話はすべてオペレータを通してなされたいるため、彼女たちがいる場所が特定されることを恐れたのである。
そこで北朝鮮の工作機関あるベオグラードに連行し、そこから電話をかけさせた。
電話をかける間、女性たちには北朝鮮工作員の拳銃が向けられていた。
彼女たちはそのような脅迫を受けながら、東京で無事働いているという虚偽の報告をさせられた。
その後、2人はホテルのヘアーサロンでパーマをかけているとき、北朝鮮工作員の監視の隙を見てホテル前からタクシーに乗り、クウェート大使館に駆け込んだ。
そこから、連絡を受けて迎えに来たレバノン大使館員に助けだされた。
クウェート大使館に逃げ込んだのは、ベオグラードのレバノン大使館は北朝鮮の味方で、逃げても無駄だと北朝鮮の工作員から聞かされ、それを真に受けてクウェート大使館に逃げ込んだという。
2人の脱出により、事件が発覚したのが1979年8月である。
レバノン政府は北朝鮮政府に強く抗議し、残っている2人の身柄の返還を要求した。
しかし、北朝鮮政府はさまざまな口実を設け、交渉が続いた。
その交渉には、PLOの最左翼に位置するPFLPが北朝鮮との間にパイプがあったてめに、仲介役として動いた。
レバノン政府、PFLPの幹部などが交渉を繰り返した末、ようやく3ヶ月後に解決した。
北朝鮮は解決に当り、レバノン政府が以降この問題を取り上げないことと、「友好関係」を保つことを条件にしたといわれている。
その結果であろう、レバノンにある北朝鮮の通商代表部はこの事件の解決後、大使館に格上げされた。
拉致女性たちに対する補償はなかった。
北朝鮮がレバノンで4人の女性を拉致した目的は、どこにあったのか、それは当時の北朝鮮政府が繰り広げていた、非同盟諸国会議での発言権の拡大と勢力の増加をもくろんで行っていた外交工作と関連がある。
アラブ諸国のフランス語圏−非同盟諸国会議の雄アルジェリアなどに拠点を置く北朝鮮工作員の増強を目指した、工作拠点の拡大計画の一環であったのだろう。
ただ、工作員の獲得が目的ならば男性でもかまわないことになるが、拉致者が女性でなければならない別の理由があった。
(→next)
これは メッセージ 1 (mitokoumon_2002 さん)への返信です.