「不敬」であるのは誰か?①
投稿者: shinzerosen 投稿日時: 2005/05/26 20:46 投稿番号: [204660 / 232612]
昭和天皇が靖国への参拝をしなくなった理由を知っているだろうか。ちなみに僕が知っていたのは、A級戦犯が合祀された事がきっかけだということだけだ。
僕のそのことについての理解は、天皇による、国内、諸外国に政治問題を引き起こすことを怖れての、自主規制、或いは宮内庁など周囲の人間が進言を行った上での自粛なのではないか、ということだった。ところがどうもそうではなく、天皇自身がA級戦犯合祀に反発した為に参拝が中止された、という話らしい。
ちなみに「昭和天皇独白録」なるものをさらっと読んでみたのだけれども、意外にも「天皇は単なる神輿ではなかった」というのが僕の印象だ。少なくとも天皇が戦時指導者たちの主張にただ振り回されていただけの人物、というようには思えなかった。彼は時に戦時指導者、後にA級戦犯とされる人たちに対して、国の行く末を誤らせたと厳しい批判を行っている(もちろん彼らの暴走を止められなかったことについても、全ての責任は自分にあるとして終戦直後はそれを免れるつもりもなかったようだ)。彼はある意味でナショナリストだったのだ。
従って天皇は基本的にA級戦犯合祀には反対だった、というわけだ。では合祀を強力に後押ししたのは誰なのか。歴史学者の秦郁彦は「厚生省引揚援護局」の旧軍人グループと、靖国神社宮司松平永芳の役割が大きかった、と主張している。
「引揚援護局」は形式上は厚生省の一部局であったのだけれども、局長のみがキャリアで(しかも腰掛け的存在)、実質面を旧軍人グループ、しかも東京裁判史観否定派のイデオロギーを代弁する勢力に牛耳られているような部署であったそうだ。彼らは1959年のBC級戦犯の合祀がすんなりと通ってしまったことに味を占め、A級戦犯も、と意気込んだのだ。
一応ここで靖国への合祀までの事務的な流れを簡単に説明しておく。(1)厚生省(引揚援護局)が、保管されている戦没者カードと靖国神社による「合祀基準」と照合・選別して所定の「祭神名票」に書きこみを行い、(2)それを靖国神社へ送付する。(3)神社側は「霊璽簿」にそれを写し、さらに「索引簿」を作成した上で遺族に通知する。(4)年2回の例大祭の前夜に合祀の儀式を行う…という流れだ。
注目すべきなのはこの中の「合祀基準」だ。これは、戦前では陸軍が、戦後は靖国神社が審査し、天皇に裁可を貰い決定に至る、という形を取っていた。要するにA級戦犯合祀を行うには天皇の了解を取り付けなければならなかったということだ。
1966年引揚援護局はA級戦犯の「祭神票」を靖国神社に送り付けた。しかしこの当時の宮司、筑波藤麿は、天皇家や宮内庁内の空気を知っていたが為にそれに配慮し合祀を差し止めた。事態が急変したのは、その筑波宮司が急逝し、後任の宮司に東京裁判否定派の松平永芳が就いてからだった。1978年松平は宮司預かりとなっていたA級戦犯合祀を行うことを決意し、合祀者名簿を天皇のもとへ持って行く。それを受け取った徳川侍従次長は、天皇の意向に基づき相当の憂慮を表明したが、松平はそれを無視し、独断で合祀を強行してしまう。結果、昭和天皇はこれに反発し、以降靖国参拝は取り止めとなってしまい、今に至るというわけだ。
僕のそのことについての理解は、天皇による、国内、諸外国に政治問題を引き起こすことを怖れての、自主規制、或いは宮内庁など周囲の人間が進言を行った上での自粛なのではないか、ということだった。ところがどうもそうではなく、天皇自身がA級戦犯合祀に反発した為に参拝が中止された、という話らしい。
ちなみに「昭和天皇独白録」なるものをさらっと読んでみたのだけれども、意外にも「天皇は単なる神輿ではなかった」というのが僕の印象だ。少なくとも天皇が戦時指導者たちの主張にただ振り回されていただけの人物、というようには思えなかった。彼は時に戦時指導者、後にA級戦犯とされる人たちに対して、国の行く末を誤らせたと厳しい批判を行っている(もちろん彼らの暴走を止められなかったことについても、全ての責任は自分にあるとして終戦直後はそれを免れるつもりもなかったようだ)。彼はある意味でナショナリストだったのだ。
従って天皇は基本的にA級戦犯合祀には反対だった、というわけだ。では合祀を強力に後押ししたのは誰なのか。歴史学者の秦郁彦は「厚生省引揚援護局」の旧軍人グループと、靖国神社宮司松平永芳の役割が大きかった、と主張している。
「引揚援護局」は形式上は厚生省の一部局であったのだけれども、局長のみがキャリアで(しかも腰掛け的存在)、実質面を旧軍人グループ、しかも東京裁判史観否定派のイデオロギーを代弁する勢力に牛耳られているような部署であったそうだ。彼らは1959年のBC級戦犯の合祀がすんなりと通ってしまったことに味を占め、A級戦犯も、と意気込んだのだ。
一応ここで靖国への合祀までの事務的な流れを簡単に説明しておく。(1)厚生省(引揚援護局)が、保管されている戦没者カードと靖国神社による「合祀基準」と照合・選別して所定の「祭神名票」に書きこみを行い、(2)それを靖国神社へ送付する。(3)神社側は「霊璽簿」にそれを写し、さらに「索引簿」を作成した上で遺族に通知する。(4)年2回の例大祭の前夜に合祀の儀式を行う…という流れだ。
注目すべきなのはこの中の「合祀基準」だ。これは、戦前では陸軍が、戦後は靖国神社が審査し、天皇に裁可を貰い決定に至る、という形を取っていた。要するにA級戦犯合祀を行うには天皇の了解を取り付けなければならなかったということだ。
1966年引揚援護局はA級戦犯の「祭神票」を靖国神社に送り付けた。しかしこの当時の宮司、筑波藤麿は、天皇家や宮内庁内の空気を知っていたが為にそれに配慮し合祀を差し止めた。事態が急変したのは、その筑波宮司が急逝し、後任の宮司に東京裁判否定派の松平永芳が就いてからだった。1978年松平は宮司預かりとなっていたA級戦犯合祀を行うことを決意し、合祀者名簿を天皇のもとへ持って行く。それを受け取った徳川侍従次長は、天皇の意向に基づき相当の憂慮を表明したが、松平はそれを無視し、独断で合祀を強行してしまう。結果、昭和天皇はこれに反発し、以降靖国参拝は取り止めとなってしまい、今に至るというわけだ。
これは メッセージ 1 (mitokoumon_2002 さん)への返信です.