>北内部の対立説
投稿者: komash0427 投稿日時: 2005/05/12 00:20 投稿番号: [203167 / 232612]
(中略)金日成の健康を維持するためにすべてを動員するためにすべてを動員してきた北朝鮮で、なぜ簡単に金日成が死んでしまったのか。その時一人しか医師がいなかったのはなぜなのか。さらにその医師以外の,金日成の健康に責任のあるはずの医師たちが処罰されなかったのはなぜか。また妙香山の別荘に向かったヘリコプターや車両が悪天候を理由にひき返したのはなぜか(神ともいえる金日成を救うためなら死んでも行かなければならなかったはずなのに)。ここの事実関係は出てくる情報によって若干の違いがあるが,それを捨像しても金日成の死が不審なものであると考えるには十分である。
金日成と金正日の葛藤がいつから深刻化したのかは明らかではない。私(荒木和博)は少なくとも93年12月8日の党中央委員会総会(これが現在までに開かれた最後の中央委員会である)及び翌9日の最高人民会議の頃には表面化していたと思う。因みに最高人民会議では姜成山首相(当時)が報告し、第3時7ヵ年計画の失敗を認める緩衝期を設定している。失敗を認めたのは極めて異例のことである。ある意味では金正日に対する批判とも言えるからだ。
金正日は少なくとも外向けには卑屈なほど丁重に金日成に対していた。料理人として極近くで金正日を見ていた藤本健二氏の著書『金正日の私生活』には金正日が金日成と電話で話しているとき、「イエ(はい)、アラスミダ(わかりました)。クロッケハゲスミダ(そのようにいたします)』と、まったく頭が上がらない状態であったことが描かれている。
奇妙なことに,この関係は自らが関わった金日成の死亡の後も変わらなかった。結局金日成のカリスマに頼らなければ、金正日は自らの正当性を確立することができなかったということだ。事実上殺害したに近い父親のカリスマにすがりながら、金正日は同じにその金日成の亡霊−父のカリスマと自らの父に対するコンプレックス、そして金日成の周辺の人々と闘わなければならなかったのである。
金日成は死の直前の7月6日に開催した「経済部門責任活動家協議会」で,後に「7.6遺訓」と呼ばれる指示を打った(7月8日午前2時に死亡)。それは一言で言えばこれまでの閉鎖政策を開放政策に転換することである。
当時,北朝鮮の権力中枢は大雑把にいえば訒小平の中国・金日成・政務院(行政府)及び老幹部などの開放派 VS 金正日・軍などの孤立派が対立するという構図だった。ただし、金正日自身も前述のように金日成に対して抗弁できるような状況ではなく、その前提の上で金日成と金正日それぞれのしたについた人間が忠誠競争をしていたとも考えられる。
金正日は7月20日の中央追悼大会以降、10月16日に開催された中央追慕会まで,3ヶ月近くにわたって姿を現さなかった。この間、王朝の中では激しい権力闘争が繰り広げられていた。金日成に近い勢力、革命第一世代やテクノクラートなどが金日成の遺訓を引き継いで開放政策をとろうとしたのに対し,金正日に近い勢力、特に軍がこれに対立し,権力を奪おうとしたという構図だろう。高齢者が開放政策で若手が閉鎖政策という、一見矛盾するような対立軸だった。因みに中国(訒小平)は明らかに前者に肩入れをしていた。
8月21日には中央放送が論説で「継承者問題を解決できなければ党と革命が危うくなる」と訴えた。これがどちらの立場に立つものかは不明だが、いずれにしても金正日への継承を巡って内部に葛藤があったことを示すものだ。このとき、開放政策を思考した勢力が権力を掌握していれば、歴史はかなり違った方向に動いていたろう。
形勢が金正日側に傾いたと思えるのは、前述の金日成死去百日中央追慕会の頃からだろう。11月1日、金正日の論文「社会主義は科学である」が発表される。これは「社会主義背信者」に対して激しい攻撃を加えたもので、標的となったのは金日成周辺グループである。韓国では、ある人物の取り巻きを「○○サラム」という。「サラム」は「人」を意味するが、その意味では金日成サラム VS 金正日サラムの対決は極めて熾烈だった。(以下略)
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「社会主義は科学である」を、荒木流ではこのように解釈しています。ちょっとあとづけっぽい気がしますが。
金日成と金正日の葛藤がいつから深刻化したのかは明らかではない。私(荒木和博)は少なくとも93年12月8日の党中央委員会総会(これが現在までに開かれた最後の中央委員会である)及び翌9日の最高人民会議の頃には表面化していたと思う。因みに最高人民会議では姜成山首相(当時)が報告し、第3時7ヵ年計画の失敗を認める緩衝期を設定している。失敗を認めたのは極めて異例のことである。ある意味では金正日に対する批判とも言えるからだ。
金正日は少なくとも外向けには卑屈なほど丁重に金日成に対していた。料理人として極近くで金正日を見ていた藤本健二氏の著書『金正日の私生活』には金正日が金日成と電話で話しているとき、「イエ(はい)、アラスミダ(わかりました)。クロッケハゲスミダ(そのようにいたします)』と、まったく頭が上がらない状態であったことが描かれている。
奇妙なことに,この関係は自らが関わった金日成の死亡の後も変わらなかった。結局金日成のカリスマに頼らなければ、金正日は自らの正当性を確立することができなかったということだ。事実上殺害したに近い父親のカリスマにすがりながら、金正日は同じにその金日成の亡霊−父のカリスマと自らの父に対するコンプレックス、そして金日成の周辺の人々と闘わなければならなかったのである。
金日成は死の直前の7月6日に開催した「経済部門責任活動家協議会」で,後に「7.6遺訓」と呼ばれる指示を打った(7月8日午前2時に死亡)。それは一言で言えばこれまでの閉鎖政策を開放政策に転換することである。
当時,北朝鮮の権力中枢は大雑把にいえば訒小平の中国・金日成・政務院(行政府)及び老幹部などの開放派 VS 金正日・軍などの孤立派が対立するという構図だった。ただし、金正日自身も前述のように金日成に対して抗弁できるような状況ではなく、その前提の上で金日成と金正日それぞれのしたについた人間が忠誠競争をしていたとも考えられる。
金正日は7月20日の中央追悼大会以降、10月16日に開催された中央追慕会まで,3ヶ月近くにわたって姿を現さなかった。この間、王朝の中では激しい権力闘争が繰り広げられていた。金日成に近い勢力、革命第一世代やテクノクラートなどが金日成の遺訓を引き継いで開放政策をとろうとしたのに対し,金正日に近い勢力、特に軍がこれに対立し,権力を奪おうとしたという構図だろう。高齢者が開放政策で若手が閉鎖政策という、一見矛盾するような対立軸だった。因みに中国(訒小平)は明らかに前者に肩入れをしていた。
8月21日には中央放送が論説で「継承者問題を解決できなければ党と革命が危うくなる」と訴えた。これがどちらの立場に立つものかは不明だが、いずれにしても金正日への継承を巡って内部に葛藤があったことを示すものだ。このとき、開放政策を思考した勢力が権力を掌握していれば、歴史はかなり違った方向に動いていたろう。
形勢が金正日側に傾いたと思えるのは、前述の金日成死去百日中央追慕会の頃からだろう。11月1日、金正日の論文「社会主義は科学である」が発表される。これは「社会主義背信者」に対して激しい攻撃を加えたもので、標的となったのは金日成周辺グループである。韓国では、ある人物の取り巻きを「○○サラム」という。「サラム」は「人」を意味するが、その意味では金日成サラム VS 金正日サラムの対決は極めて熾烈だった。(以下略)
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「社会主義は科学である」を、荒木流ではこのように解釈しています。ちょっとあとづけっぽい気がしますが。
これは メッセージ 202307 (sofiansky2003 さん)への返信です.