小泉首相の訪朝と課題について☆☆☆☆☆

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> >オッスです(1/2)

投稿者: komash0427 投稿日時: 2005/03/26 23:49 投稿番号: [195806 / 232612]
平和主義とか護憲思想というのは、先の大戦を反省したところから生まれてはいますが、それだけではないようです。

どうもこの思想は、日本人が古来から持ち合わせている精神の、いわば遺伝子だと言えなくもないようです。

  平安時代の中期(1019年)、日本は16日間だけ異民族の侵略を受けたことがありました。これを刀伊の入冦(といのにゅうこう)といいます。

  刀伊の入冦(侵略)とは、概略次ぎのような事件です。

  「刀伊の襲来は3月末、賊船50隻による対馬・壱岐の襲撃にはじまった。対馬では3月28日付で急を大宰府に報じているから、恐らくこの日に突然の攻撃が加えられたのであろう。被害は甚大で、壱岐守理忠は死に、対馬守遠晴は難を逃れたが、対馬からの急報は4月7日、大宰府に到着した。(中略)その日、賊船は筑前怡土郡(福岡県糸島郡)に襲来し、志麻郡・早良郡などを掠め、あばれまわった。
(中略)上陸に際しては100人ばかりで一隊をなし、みな盾をもち、前陣2、30人は鉾や太刀をきらめかせ、これに弓矢を持った7、80人が従い、この類のものが10隊、あるいは20隊と荒れまわり、山野を駆け巡って馬や牛を切っては食い、犬も殺して食う。手当たり次第に人を捕らえて老人子供はすべて惨殺し、壮年男女はすべて船に追いこみ、穀物を奪い、民家を焼くという、悪鬼のような乱暴を働いた。壱岐島のごときは、400人の島民が殺されたり捕らえられたりして、残るものわずかに35人に過ぎなかったという。」
(『日本の歴史⑤   王朝の貴族』土田直鎮著   中央公論社刊)

  刀伊とは侵略者の部族名で、女真族という大陸はツングース系の勇猛な民族のことです。のちには中国本土に金という国を建国しています。

  この危機に敢然と立ちあがったのが、大宰府の権帥(ごんのそつ=副長官)を務めていた藤原隆家でした。隆家は地元の豪族の多治久明(たじのひさあき)、大神守宮(おおがみのもりみや)、源知(みなものとしる)らに招集をかけ、刀伊と激戦を繰り返し、ようやく撃退しました。

  このような功績をあげた藤原隆家に対して、時の藤原摂関政府はどのような対応をしたかといいますと、実はなにも恩賞を与えませんでした。なぜかといいますと、

  「大きな被害はあったにせよ、異賊はとにかくこれを撃退することができた。これは当然、隆家以下、大宰府管下の諸勇士の健闘によるものである。4月18日、刀伊襲来の第一報を得て開かれた陣定(じんのさだめ=公卿会議。閣議にあたるもの)の結果、戦功抜群の者には褒賞を与える旨が大宰府に伝えられ、そののち、大宰府からは12名の戦功を記して上申してきた。この問題が大納言藤原実資(ふじわらのさねすけ)の主催する会議にかけられたのは6月29日のことである。

  論点は、そもそも賞を与えるべきか、与える必要がないかということにしぼられた。時に大納言公任(きんとう)・中納言行成の二人は、賞を授ける必要はないとした。その理由は、なるほど、賞を与えるということは大宰府に伝えたけれども、それは4月18日付の命令であって、実際にはそれ以前、4月13日を最後に戦闘は終わっている。したがって、合戦の功にあったものがあっても、それは賞を約束されての行為ではないから、賞する必要はない、というのであった。(中略)

  そして大宰府権帥として総指揮をとった隆家には、とくになんの賞も授けられなかったようである。

  彼の指揮は最後まで適切であり、兵船が賊の追撃に移った際、その追撃を壱岐・対馬の日本領内にとどめ、高麗領に入らぬよう命じたあたりもみごとな判断であった。」
(『日本の歴史⑤   王朝の貴族』土田直鎮著   中央公論社刊)
(続く)
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