核問題への関与④
投稿者: komash0427 投稿日時: 2005/03/20 01:05 投稿番号: [193674 / 232612]
IAEA査察の性格と能力に関する北朝鮮側の予測は、おそらくある北朝鮮当局者の限られた経験によって形作られていたと思われる。この人物は湾岸戦争前にIAEA査察官として働き、92年に北朝鮮原子力エネルギー省の保障措置(核査察のこと)連絡事務所長となって姿をあらわした。「彼がこんなものを見たことがあるとは思えない」とハイノネンは言う。放射性物質のごくわずかなサンプルから詳細な試験結果を出せるほど大きく進歩した科学の素晴らしさを指しているのだ。
最初、IAEAの北朝鮮査察団長を務めたウィリー・テイスはこう言う。
「北朝鮮はIAEAの測定能力を甚だしく過小評価していた。・・…我々が同位元素分析をできるとは予測していなかったのだ。彼らはこれを理解できず、「(テスト結果の)食い違いを説明できなかった。事態がわかってくればくるほど、捏造した回答をしてくる。こちらとしては一層厳しく対応しなければならなかった。それで彼らも我々が彼らの悪事を暴こうとしているのだと悟ったわけだ」
<このシチュエーション、2004年12月に偽の遺骨を出してきた出来事とまったく同じ。1度嘘つくヤツは2度も3度も嘘つく。誰もあんな国のいう事を信用しない。 By komash0427>
調 停 か ら 危 機 へ
北朝鮮の核計画が国際的査察の前に明らかになったことによる歓喜も束の間、92年後半から93年初めの数ヶ月にかけて、この喜びは、疑惑、敵意、そして結局は危機へと変わっていく。核査察への同意により北朝鮮が期待した見返りは一向に得られそうになかった。それどころか、査察官の登場によって、不正行為への非難や新たな国際圧力が集中する羽目になった。この行き詰まりに拍車をかけたのが、南北間の政治環境の悪化である。それはある面では92年12月の韓国大統領選の準備によってもたらされたものだ。米国でも92年11月の大統領選の投票があり、ブッシュ政権はそちらに気を奪われ、身動きが取れなくなった。そのため米朝間の対話も中断し、不穏状態はさらに強まったのである。
<米国と韓国の大統領選挙は20年に1回、同じ年に行われる。次回は2012年がその年になる。ただし、2007年は韓国で、2008年は米国で大統領選挙が実施される。また来年は日本でも自民党総裁が交代する予定。そうすると来年から小泉首相の求心力は落ち、日本の外交が空白期に入るのを皮きりに、韓国、米国の大統領選が続き、日米韓の対北朝鮮外交は影響力が落ちてしまうのかもしれない。 By komash0427>
* * * * * *
1991年12月に前例のない一連の南北間協定が調印されてから、それらの履行をめぐる交渉は遅々として進まなかった。南北核統制共同委員会では、協定に基づいて、相互の核査察の準備にあたることになっていたが、平壌側ではソウル側の要求に反発した。ソウル側が現在実施されているIAEAの査察に加え「強制力のある査察」を直前に通告して行えるように要求したからだ。この行き詰まりは、北朝鮮と国際査察官の間で、食い違いが重なり、対立が大きくなるに連れて、ますます厄介なことになってくる。この事態は、北朝鮮は決して核兵器開発の決定的証拠を明らかにすることはないだろうとずっと信じてきた人々に新たな攻撃材料を提供したのだ。
外交実績を上げた韓国の廬泰愚大統領は割合ゆったりと構えていた。ニューヨーク・タイムズには92年9月に、北朝鮮の「核兵器推進の決意は弱まっている」と思う、と語っている。廬泰愚は今でも金日成との会談を希望していた。92年春には、金日成の80歳の誕生日に平壌を訪れないかと予期せぬひそかな招待を受けたのだが、それは断らざるを得なかった。この機会に相手と会見するのは、金日成の誕生パーティを祝いに行ったかのようにとられてしまうからである。それでも廬泰愚はひそかに情報機関の長を平壌に送り、金日成の誕生日を祝い、引き続き首脳会談への関心を表明した。
かつて野党党首を務めていた金泳三は、1990年に与党に入り、92年5月に大統領候補となった。彼は南北関係の明るい面には危惧を抱いていた。金泳三とその政治スタッフは、数ヶ月前の南北友好ムードが続けば昔からの政治ライバル金大中を利することになるのではないかと懸念した。その金大中はまたもや大きな競争相手として立ち現れ、今回は対立する大統領候補となっていたのである。政権末期が近づいて盧泰愚の政治的権威が衰え始め、さらに92年夏の終わりには自ら選んだ後継者、金泳三の勢いが強くなるにつれ、韓国は北朝鮮との正常化のペースを遅らせ、韓国政府当局者も米国に同一歩調をとるよう要請するようになった。
最初、IAEAの北朝鮮査察団長を務めたウィリー・テイスはこう言う。
「北朝鮮はIAEAの測定能力を甚だしく過小評価していた。・・…我々が同位元素分析をできるとは予測していなかったのだ。彼らはこれを理解できず、「(テスト結果の)食い違いを説明できなかった。事態がわかってくればくるほど、捏造した回答をしてくる。こちらとしては一層厳しく対応しなければならなかった。それで彼らも我々が彼らの悪事を暴こうとしているのだと悟ったわけだ」
<このシチュエーション、2004年12月に偽の遺骨を出してきた出来事とまったく同じ。1度嘘つくヤツは2度も3度も嘘つく。誰もあんな国のいう事を信用しない。 By komash0427>
調 停 か ら 危 機 へ
北朝鮮の核計画が国際的査察の前に明らかになったことによる歓喜も束の間、92年後半から93年初めの数ヶ月にかけて、この喜びは、疑惑、敵意、そして結局は危機へと変わっていく。核査察への同意により北朝鮮が期待した見返りは一向に得られそうになかった。それどころか、査察官の登場によって、不正行為への非難や新たな国際圧力が集中する羽目になった。この行き詰まりに拍車をかけたのが、南北間の政治環境の悪化である。それはある面では92年12月の韓国大統領選の準備によってもたらされたものだ。米国でも92年11月の大統領選の投票があり、ブッシュ政権はそちらに気を奪われ、身動きが取れなくなった。そのため米朝間の対話も中断し、不穏状態はさらに強まったのである。
<米国と韓国の大統領選挙は20年に1回、同じ年に行われる。次回は2012年がその年になる。ただし、2007年は韓国で、2008年は米国で大統領選挙が実施される。また来年は日本でも自民党総裁が交代する予定。そうすると来年から小泉首相の求心力は落ち、日本の外交が空白期に入るのを皮きりに、韓国、米国の大統領選が続き、日米韓の対北朝鮮外交は影響力が落ちてしまうのかもしれない。 By komash0427>
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1991年12月に前例のない一連の南北間協定が調印されてから、それらの履行をめぐる交渉は遅々として進まなかった。南北核統制共同委員会では、協定に基づいて、相互の核査察の準備にあたることになっていたが、平壌側ではソウル側の要求に反発した。ソウル側が現在実施されているIAEAの査察に加え「強制力のある査察」を直前に通告して行えるように要求したからだ。この行き詰まりは、北朝鮮と国際査察官の間で、食い違いが重なり、対立が大きくなるに連れて、ますます厄介なことになってくる。この事態は、北朝鮮は決して核兵器開発の決定的証拠を明らかにすることはないだろうとずっと信じてきた人々に新たな攻撃材料を提供したのだ。
外交実績を上げた韓国の廬泰愚大統領は割合ゆったりと構えていた。ニューヨーク・タイムズには92年9月に、北朝鮮の「核兵器推進の決意は弱まっている」と思う、と語っている。廬泰愚は今でも金日成との会談を希望していた。92年春には、金日成の80歳の誕生日に平壌を訪れないかと予期せぬひそかな招待を受けたのだが、それは断らざるを得なかった。この機会に相手と会見するのは、金日成の誕生パーティを祝いに行ったかのようにとられてしまうからである。それでも廬泰愚はひそかに情報機関の長を平壌に送り、金日成の誕生日を祝い、引き続き首脳会談への関心を表明した。
かつて野党党首を務めていた金泳三は、1990年に与党に入り、92年5月に大統領候補となった。彼は南北関係の明るい面には危惧を抱いていた。金泳三とその政治スタッフは、数ヶ月前の南北友好ムードが続けば昔からの政治ライバル金大中を利することになるのではないかと懸念した。その金大中はまたもや大きな競争相手として立ち現れ、今回は対立する大統領候補となっていたのである。政権末期が近づいて盧泰愚の政治的権威が衰え始め、さらに92年夏の終わりには自ら選んだ後継者、金泳三の勢いが強くなるにつれ、韓国は北朝鮮との正常化のペースを遅らせ、韓国政府当局者も米国に同一歩調をとるよう要請するようになった。
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