>tyotto_sankou100 さん
投稿者: b_8_sp 投稿日時: 2005/02/16 19:26 投稿番号: [179595 / 232612]
こんばんわ、レスありがとうございます。
今朝山から帰ってきましたが遊びほうけて、ぼろぼろです。
さて、
美国の衰退について
あるサミットの折、米国の大学生の研究発表があって、今後の世界各国の成長性にかんする論文発表があったように思いますが、それによると、
かの美国の成長性は「64番目?」となっていたように、おもいました。
田中宇大先生も、美国の衰退に関心を寄せているようです。
ローマの道をたどることになれば、東アジアはしゃきっとせねば!
美国がおかしくなったら多量に買い入れた美国国債は紙くず、同じように多量に買い込んでいる中国もやばい。
小泉にその責任を負ってもらうだけではすまないようで、困ったことでございます。
さて、
<霊友会>に少しばかり気を配りたいですね
本部は東京都港区麻布飯倉町2丁目6番地にある日本宗教史上最初ともいうべき在家仏教教団である。教祖としては,久保角太郎と小谷喜美の2人が考えられるが,教団では久保を創立者,小谷を初代会長と呼んでいる。今日,霊友会と呼ばれるようになった宗教団体は,第一次世界大戦中に,貧困で不遇ななかにも法華信仰とその特異な実践に生きた西田俊蔵の影響を受けている。霊友会の名称は,「三世の万霊につながりをもつ友」という西田の考えを反映しており,無縁の墓を大切にし,その戒名を写して自宅でまつった彼の実践は,初代会長小谷喜美によっても,初期から行われたものであった。
教団史として霊友会は,1919年(大正8)に,久保角太郎,大工の妻若月チセなどによって始められた「霊の友の会」にさかのぼることができよう。久保角太郎は,1890年(明治23),千葉県小湊の船宿松鷹家の3男として生まれたが,小学校卒業後上京して,大工に弟子入りして苦労を重ねるうちに,認められて親方の伝手(つて)で,旧仙石藩の家老格の久保家に養子となり,厳格な義母につかえ,法華信仰にもかかわるようになった。やがて才能を評価されて宮内省営繕課に就職するが,信心にも一層拍車がかかり,1924年(大正14)には,教団名を「大日本霊友会」と改名する。
−略−
教団は,1930年(昭和5)に,本部を赤坂田町に移し,「霊友会」と改名する。以来の布教活動はめざましく,喜美は素足で布教活動を行うほどであった。1937年に,本部を現在の麻布飯倉町に移したが,第二次世界大戦となり,布教活動は大きくさまたげられた。創立者久保角太郎は,1944年に没するが,終戦後の社会的大混乱の時機に,教団は飛躍的な成長をとげ,小谷喜美の名前がしばしば話題となる事件も発生した。霊友会の特色の一つは,教団の巨大なエネルギーが数多くの分派を生み,今日の妙道会,思親会,立正佼成会,仏所護念会,妙智会など有力教団に成長していることである。
1971年,喜美は71歳で他界するが,その後,創立者久保角太郎の実子・久保継成が35歳の若さで第2代会長となり,教団は大きく若返り,近代化された。翌1972年4月には,斬新な月刊誌「いんなーとりっぷ」が,教団の文書布教の一端を荷って出版され,宗教界の大きな話題となった。
霊友会の教義と実践の中心は,先祖供養で,伝統的先祖供養とはかなり違った特色がある。すなわち,夫と妻の両家に連なるすべての先祖をまつり,それに「総戒名」という独特の戒名をつけるのみでなく,親族,友人,知人の戒名もできるだけ集め,それに霊友会の法名をつけ,過去帳に記載して読経し,供養を欠かさないことである。このことによって,自分はあらゆる人々によって守られ,生かされているという幸福感をもち,感謝・報恩・奉仕の人生を送ることができるように指導する。先祖供養の概念を,このように拡大解釈し,実践する点に霊友会の他教団と大きく違った特徴がある。
また会員の実践的規範として,早くも1934年に「正行」(せいぎょう)をつくっている。そのなかでは,在家菩薩行の実践,他人によらず,自ら在家の手にする先祖供養の大切さ,会員間の清潔な交流,悪しき因縁,生起の戒めなど庶民の倫理的生活が強調されている。
教団の修行道場として伊豆に「昭和の戒壇・弥勒山」があるほか,本部内に「釈迦殿」が1975年に初代会長の遺訓により建立された。1984年11月現在で,会員数300万人・支部60・会館7をもつ第一級の新宗教教団である。
今朝山から帰ってきましたが遊びほうけて、ぼろぼろです。
さて、
美国の衰退について
あるサミットの折、米国の大学生の研究発表があって、今後の世界各国の成長性にかんする論文発表があったように思いますが、それによると、
かの美国の成長性は「64番目?」となっていたように、おもいました。
田中宇大先生も、美国の衰退に関心を寄せているようです。
ローマの道をたどることになれば、東アジアはしゃきっとせねば!
美国がおかしくなったら多量に買い入れた美国国債は紙くず、同じように多量に買い込んでいる中国もやばい。
小泉にその責任を負ってもらうだけではすまないようで、困ったことでございます。
さて、
<霊友会>に少しばかり気を配りたいですね
本部は東京都港区麻布飯倉町2丁目6番地にある日本宗教史上最初ともいうべき在家仏教教団である。教祖としては,久保角太郎と小谷喜美の2人が考えられるが,教団では久保を創立者,小谷を初代会長と呼んでいる。今日,霊友会と呼ばれるようになった宗教団体は,第一次世界大戦中に,貧困で不遇ななかにも法華信仰とその特異な実践に生きた西田俊蔵の影響を受けている。霊友会の名称は,「三世の万霊につながりをもつ友」という西田の考えを反映しており,無縁の墓を大切にし,その戒名を写して自宅でまつった彼の実践は,初代会長小谷喜美によっても,初期から行われたものであった。
教団史として霊友会は,1919年(大正8)に,久保角太郎,大工の妻若月チセなどによって始められた「霊の友の会」にさかのぼることができよう。久保角太郎は,1890年(明治23),千葉県小湊の船宿松鷹家の3男として生まれたが,小学校卒業後上京して,大工に弟子入りして苦労を重ねるうちに,認められて親方の伝手(つて)で,旧仙石藩の家老格の久保家に養子となり,厳格な義母につかえ,法華信仰にもかかわるようになった。やがて才能を評価されて宮内省営繕課に就職するが,信心にも一層拍車がかかり,1924年(大正14)には,教団名を「大日本霊友会」と改名する。
−略−
教団は,1930年(昭和5)に,本部を赤坂田町に移し,「霊友会」と改名する。以来の布教活動はめざましく,喜美は素足で布教活動を行うほどであった。1937年に,本部を現在の麻布飯倉町に移したが,第二次世界大戦となり,布教活動は大きくさまたげられた。創立者久保角太郎は,1944年に没するが,終戦後の社会的大混乱の時機に,教団は飛躍的な成長をとげ,小谷喜美の名前がしばしば話題となる事件も発生した。霊友会の特色の一つは,教団の巨大なエネルギーが数多くの分派を生み,今日の妙道会,思親会,立正佼成会,仏所護念会,妙智会など有力教団に成長していることである。
1971年,喜美は71歳で他界するが,その後,創立者久保角太郎の実子・久保継成が35歳の若さで第2代会長となり,教団は大きく若返り,近代化された。翌1972年4月には,斬新な月刊誌「いんなーとりっぷ」が,教団の文書布教の一端を荷って出版され,宗教界の大きな話題となった。
霊友会の教義と実践の中心は,先祖供養で,伝統的先祖供養とはかなり違った特色がある。すなわち,夫と妻の両家に連なるすべての先祖をまつり,それに「総戒名」という独特の戒名をつけるのみでなく,親族,友人,知人の戒名もできるだけ集め,それに霊友会の法名をつけ,過去帳に記載して読経し,供養を欠かさないことである。このことによって,自分はあらゆる人々によって守られ,生かされているという幸福感をもち,感謝・報恩・奉仕の人生を送ることができるように指導する。先祖供養の概念を,このように拡大解釈し,実践する点に霊友会の他教団と大きく違った特徴がある。
また会員の実践的規範として,早くも1934年に「正行」(せいぎょう)をつくっている。そのなかでは,在家菩薩行の実践,他人によらず,自ら在家の手にする先祖供養の大切さ,会員間の清潔な交流,悪しき因縁,生起の戒めなど庶民の倫理的生活が強調されている。
教団の修行道場として伊豆に「昭和の戒壇・弥勒山」があるほか,本部内に「釈迦殿」が1975年に初代会長の遺訓により建立された。1984年11月現在で,会員数300万人・支部60・会館7をもつ第一級の新宗教教団である。
これは メッセージ 179444 (tyotto_sankou100 さん)への返信です.