『落下は枝に還らずとも』
投稿者: hangyosyufu 投稿日時: 2005/01/10 17:33 投稿番号: [169697 / 232612]
中村彰彦(中央公論社)
これは長い間、『中央公論』に連載されていた小説で、じつに890枚。さらに追加で340枚書き足したので合計1230枚、中村の作品のなかでも最も長いものになった。
落涙数カ所。久しぶりに「小説」を読んだという深い感銘を受けた。
主人公の秋月悌次郎(胤永)は会津藩のなかでも、初代の保科正之が引き連れてきた「高遠以来」の家系に生まれ(本家は丸山家)、学問を志す。教養がたかく、藩の文官として活躍。会津京都守護職時代の公用方(外交係り)となって各藩の志士とまじわる。
故郷において、その活躍を怨む者があり、京都から三年近く蝦夷地へ左遷された経験もある。
会津の飛び地だった蝦夷地でのクマ退治や流氷の場面も感動的に描かれている。
戊辰戦争で官軍の恨みを一人で背負うことになる会津藩は「官軍」という「賊軍」の大軍を迎え撃ってよく戦ったが、ついに降伏を決断。戦死者は述べ三千数百の夥しさとなった(何回か中村彰彦氏と会津各地を歩いているが、官軍を「西軍」と会津人はいまも呼ぶ)。
落城後の降伏式を主宰。朝敵とされた会津の戦後処理、名誉回復に奔走する。ラフカディオ・ハーンは、秋月を「神のような人」と書き残した。
一度、離れた落花(旧会津藩士)は、枝には還らないが、翌年咲く花の種になることが出来る、と秋月は言い残した。本書の題名の由縁である。
あらすじは上記のごとく秋月の一生を追う波瀾万丈の物語。チャンバラも恋愛も殆どない、これほどエンターティンメント要素がすくないのに、しかも英雄譚でもないのに、中村の選択する主人公は、結果的には魅力に溢れた、硬派で誠を貫く人物をえがく。
秋月悌次郎(胤永)は江戸のエリート中のエリート学校・昌平校に留学すること14年、塾頭格となり、大秀才と言われ、漢詩を即興でかくのが得意だった。
このときの学友人脈が京都守護職の公用方時代におおいに役に立ち、秋月は「薩会同盟」成立への影の立て役者となる。
薩摩、長州、土佐、肥前に知り合いが多く、また藩命により秋月は若き日々、これらの地をくまなく歩いて見聞記を書き残した。旅先では河井継之助らとも知り合って昵懇となっている。
秋月は希有の「戦後」を送った。
会津敗戦ののち、囚われていた猪苗代の宿舎を抜け出して奥平謙輔のもとに山川健次郎ら前途有為の会津の若者らを届ける。山川はその後、米国へ留学して大学者となり、のちには「白虎隊総長」と言われながら東大総長(二回)、九州帝大総長、京都大学総長(兼務)となるだろう。
官軍にあって秋月に深い同情をしめした奥平は維新後、顕官(新潟権判事)となったが新政府の腐敗に立腹して帰郷し、やがて前原一誠とともに「萩の乱」を起こす。西南戦争一年前の出来事である。
秋月は会津藩責任者のひとりとして捕縛され、東京へ護送、四年間各地で獄に繋がれたが、明治四年に赦免された。爾後は教育者として熊本五校で倫理、儒学を教えた。教授の同僚がラフカディオ・ハーンだったのである。
佐川官兵衛、近藤勇、町野主永など多くの勤王派の物語を書き続ける筆者の業績に触れる必要はないだろう。
この作品で舞台となる幕末の、評者(宮崎)がとりわけ感心したのは、各藩と朝廷、長州、薩摩、そして主な論客と公家、いうなればロビィスト、テロリスト、ソルジャー、ポリス入り乱れての政治の裏舞台の駆け引き、その猛烈な交渉と裏切りと、嫉妬と怨念と日和見と暴走と陰謀が織りなした壮大なドラマである。
歴史は夜作られる。政治は昼ではなく夜の陰謀とロビィ工作できまる。この日本的政治の本質は、いつの時代も同じである。
本作品は、そうした京都における朝廷、幕府、雄藩あいみだれてのロビィストらの舞台裏をみごとに活写している珍しい作品になった。
さるにても「至誠」は天に通じなかった。会津は木訥すぎて、陰謀に不向き。ロビィ工作が不得手である。現代政治も似ている。会津は伊宮をたよりすぎ、慶喜は移り気で無定見すぎた。筆者の慶喜への低い評価は随所にさりげなく挿入されている。
これを現代への寓話ととらえると教科書問題、ジェンダーフリー、北朝鮮問題の解決でも、中国への買弁派の暗躍する諸問題でも、自民党への分裂工作、保守論壇の内こう、マスコミの買収など、陰謀とロビィの巧妙さを展開する「敵」に対して、わが保守陣営はまさに会津藩のごとく至誠一本槍。巧名も効果も考えないで突っ走るようにも見えたのだった。
これは長い間、『中央公論』に連載されていた小説で、じつに890枚。さらに追加で340枚書き足したので合計1230枚、中村の作品のなかでも最も長いものになった。
落涙数カ所。久しぶりに「小説」を読んだという深い感銘を受けた。
主人公の秋月悌次郎(胤永)は会津藩のなかでも、初代の保科正之が引き連れてきた「高遠以来」の家系に生まれ(本家は丸山家)、学問を志す。教養がたかく、藩の文官として活躍。会津京都守護職時代の公用方(外交係り)となって各藩の志士とまじわる。
故郷において、その活躍を怨む者があり、京都から三年近く蝦夷地へ左遷された経験もある。
会津の飛び地だった蝦夷地でのクマ退治や流氷の場面も感動的に描かれている。
戊辰戦争で官軍の恨みを一人で背負うことになる会津藩は「官軍」という「賊軍」の大軍を迎え撃ってよく戦ったが、ついに降伏を決断。戦死者は述べ三千数百の夥しさとなった(何回か中村彰彦氏と会津各地を歩いているが、官軍を「西軍」と会津人はいまも呼ぶ)。
落城後の降伏式を主宰。朝敵とされた会津の戦後処理、名誉回復に奔走する。ラフカディオ・ハーンは、秋月を「神のような人」と書き残した。
一度、離れた落花(旧会津藩士)は、枝には還らないが、翌年咲く花の種になることが出来る、と秋月は言い残した。本書の題名の由縁である。
あらすじは上記のごとく秋月の一生を追う波瀾万丈の物語。チャンバラも恋愛も殆どない、これほどエンターティンメント要素がすくないのに、しかも英雄譚でもないのに、中村の選択する主人公は、結果的には魅力に溢れた、硬派で誠を貫く人物をえがく。
秋月悌次郎(胤永)は江戸のエリート中のエリート学校・昌平校に留学すること14年、塾頭格となり、大秀才と言われ、漢詩を即興でかくのが得意だった。
このときの学友人脈が京都守護職の公用方時代におおいに役に立ち、秋月は「薩会同盟」成立への影の立て役者となる。
薩摩、長州、土佐、肥前に知り合いが多く、また藩命により秋月は若き日々、これらの地をくまなく歩いて見聞記を書き残した。旅先では河井継之助らとも知り合って昵懇となっている。
秋月は希有の「戦後」を送った。
会津敗戦ののち、囚われていた猪苗代の宿舎を抜け出して奥平謙輔のもとに山川健次郎ら前途有為の会津の若者らを届ける。山川はその後、米国へ留学して大学者となり、のちには「白虎隊総長」と言われながら東大総長(二回)、九州帝大総長、京都大学総長(兼務)となるだろう。
官軍にあって秋月に深い同情をしめした奥平は維新後、顕官(新潟権判事)となったが新政府の腐敗に立腹して帰郷し、やがて前原一誠とともに「萩の乱」を起こす。西南戦争一年前の出来事である。
秋月は会津藩責任者のひとりとして捕縛され、東京へ護送、四年間各地で獄に繋がれたが、明治四年に赦免された。爾後は教育者として熊本五校で倫理、儒学を教えた。教授の同僚がラフカディオ・ハーンだったのである。
佐川官兵衛、近藤勇、町野主永など多くの勤王派の物語を書き続ける筆者の業績に触れる必要はないだろう。
この作品で舞台となる幕末の、評者(宮崎)がとりわけ感心したのは、各藩と朝廷、長州、薩摩、そして主な論客と公家、いうなればロビィスト、テロリスト、ソルジャー、ポリス入り乱れての政治の裏舞台の駆け引き、その猛烈な交渉と裏切りと、嫉妬と怨念と日和見と暴走と陰謀が織りなした壮大なドラマである。
歴史は夜作られる。政治は昼ではなく夜の陰謀とロビィ工作できまる。この日本的政治の本質は、いつの時代も同じである。
本作品は、そうした京都における朝廷、幕府、雄藩あいみだれてのロビィストらの舞台裏をみごとに活写している珍しい作品になった。
さるにても「至誠」は天に通じなかった。会津は木訥すぎて、陰謀に不向き。ロビィ工作が不得手である。現代政治も似ている。会津は伊宮をたよりすぎ、慶喜は移り気で無定見すぎた。筆者の慶喜への低い評価は随所にさりげなく挿入されている。
これを現代への寓話ととらえると教科書問題、ジェンダーフリー、北朝鮮問題の解決でも、中国への買弁派の暗躍する諸問題でも、自民党への分裂工作、保守論壇の内こう、マスコミの買収など、陰謀とロビィの巧妙さを展開する「敵」に対して、わが保守陣営はまさに会津藩のごとく至誠一本槍。巧名も効果も考えないで突っ走るようにも見えたのだった。
これは メッセージ 1 (mitokoumon_2002 さん)への返信です.