J氏の証言−3
投稿者: sofiansky2003 投稿日時: 2004/11/04 22:48 投稿番号: [157235 / 232612]
(電脳補完録から)
http://nyt.trycomp.com:8080/modules/news/article.php?storyid=3244
ジェンキンスさん発言要旨 軍法会議
軍法会議でのジェンキンスさんの発言要旨は次の通り。(敬称略)
▽脱走前
1964年11月、朝鮮半島の非武装地帯のパトロール任務に就いた。間もなくベトナム戦線に送られるとうわさを聞き、怖くなった。酒を飲むようになり、北朝鮮に行くことを考えた。軍隊が嫌になり、ただ故郷に帰りたかった。北朝鮮からロシアに渡り、現地の米国大使館に行けば、帰国できると考えていた。
▽脱走当日
65年1月4日はとても寒い夜で、ビール10缶を飲んでいた。コンパスを見ながら、地雷原の真っただ中を歩いた。しらふと酔っぱらっている状態の中間だった。
日が昇り始めると、敵意がないことを示すため白いTシャツを取り出した。電気さくの向こうにいた北朝鮮の兵士に声を掛けると、ゲートを開けてくれた。
▽北朝鮮での生活
日本から拉致された曽我ひとみを妻に迎え、北朝鮮への嫌悪と互いの愛を共有しながら24年間寄り添った。2人の娘にも恵まれた。
81−85年に平壌市の将校らの大学で英語を教えた。生徒はスパイの卵だった。北朝鮮を利すると知っていたが、拒否すれば家族が危ういと思った。一度、拒否したら北朝鮮の男たちに殴られ、20日間も大学に行けなかった。あの国では「ノー」と言ってはいけないことを学んだ。
▽現在の心境
北朝鮮で一生を終えることになると思っていた。1日10時間、主体思想を学ばされる日々だったが、私の心は変わらなかった。米国を今でも愛していることを世界中の人に知ってほしい。
曽我ひとみさん証言要旨
ジェンキンスさんの軍法会議で妻曽我ひとみさんが証言した内容の要旨は次の通り。
▽出会い
夫と会ったのは1980年6月30日ごろ。英語を教えてもらうためだった。指導員から結婚した方がいいと言われた。その後、お互いの過去を話し始め、愛し合うようになった。一番感じたのはお互い親せきもなく孤独だということ。2人とも北朝鮮が好きではなかった。夫は私たち3人を心から愛してくれた。今もそうです。
子供が熱を出した時は夜も寝ずにベッドの横で看病した。おもちゃがあまりなく、夫がおもちゃといすを作った。子供のおむつも替えてくれた。最初はへただったが、だんだん上手になった。
▽北朝鮮の生活
子供が小さいときは私を助けてくれ、学齢になると畑で野菜を作り、動物を飼い、生活の足しにした。食糧が足りないこともあり、子供がおなかをすかせたまま寝たこともあった。小麦と米は月1回配給。子供が大きくなるにつれ、どうしても足りないことがあった。
冬には電気が月に10日以上つかず、寒かった。暖房はボイラーだったが、電気がないので使えなかった。家にある服を全部着て、布団に入った。冬は毎日そうしていた。温かいお湯が出ることはなかった。シャワーや風呂は難しかった。電気がなく暗いため、ろうそくを使った。溶けて固まったろうを、夫がもう一度溶かして缶に入れまた使った。
指導員は約20年間、私たちが外に出るときは必ず横にいた。許可なしに外出できず、暮らしていた招待所は鉄条網で囲われていた。北朝鮮では私が日本語を、夫が英語を教えた。嫌だと言ったら、私たち家族の生活ができなくなったかもしれない。どこか遠い山に行って生活する羽目になると思っていた。
▽願い
(離れて暮らしていた約1年9カ月は)ただ1日も早く4人が一緒に静かに暮らすことを願っていた。きょうは本当にありがとうございました。私たち家族の小さな幸せをもっともっと大きな幸せにできるように。今、私はそれだけを願っています。
http://nyt.trycomp.com:8080/modules/news/article.php?storyid=3244
ジェンキンスさん発言要旨 軍法会議
軍法会議でのジェンキンスさんの発言要旨は次の通り。(敬称略)
▽脱走前
1964年11月、朝鮮半島の非武装地帯のパトロール任務に就いた。間もなくベトナム戦線に送られるとうわさを聞き、怖くなった。酒を飲むようになり、北朝鮮に行くことを考えた。軍隊が嫌になり、ただ故郷に帰りたかった。北朝鮮からロシアに渡り、現地の米国大使館に行けば、帰国できると考えていた。
▽脱走当日
65年1月4日はとても寒い夜で、ビール10缶を飲んでいた。コンパスを見ながら、地雷原の真っただ中を歩いた。しらふと酔っぱらっている状態の中間だった。
日が昇り始めると、敵意がないことを示すため白いTシャツを取り出した。電気さくの向こうにいた北朝鮮の兵士に声を掛けると、ゲートを開けてくれた。
▽北朝鮮での生活
日本から拉致された曽我ひとみを妻に迎え、北朝鮮への嫌悪と互いの愛を共有しながら24年間寄り添った。2人の娘にも恵まれた。
81−85年に平壌市の将校らの大学で英語を教えた。生徒はスパイの卵だった。北朝鮮を利すると知っていたが、拒否すれば家族が危ういと思った。一度、拒否したら北朝鮮の男たちに殴られ、20日間も大学に行けなかった。あの国では「ノー」と言ってはいけないことを学んだ。
▽現在の心境
北朝鮮で一生を終えることになると思っていた。1日10時間、主体思想を学ばされる日々だったが、私の心は変わらなかった。米国を今でも愛していることを世界中の人に知ってほしい。
曽我ひとみさん証言要旨
ジェンキンスさんの軍法会議で妻曽我ひとみさんが証言した内容の要旨は次の通り。
▽出会い
夫と会ったのは1980年6月30日ごろ。英語を教えてもらうためだった。指導員から結婚した方がいいと言われた。その後、お互いの過去を話し始め、愛し合うようになった。一番感じたのはお互い親せきもなく孤独だということ。2人とも北朝鮮が好きではなかった。夫は私たち3人を心から愛してくれた。今もそうです。
子供が熱を出した時は夜も寝ずにベッドの横で看病した。おもちゃがあまりなく、夫がおもちゃといすを作った。子供のおむつも替えてくれた。最初はへただったが、だんだん上手になった。
▽北朝鮮の生活
子供が小さいときは私を助けてくれ、学齢になると畑で野菜を作り、動物を飼い、生活の足しにした。食糧が足りないこともあり、子供がおなかをすかせたまま寝たこともあった。小麦と米は月1回配給。子供が大きくなるにつれ、どうしても足りないことがあった。
冬には電気が月に10日以上つかず、寒かった。暖房はボイラーだったが、電気がないので使えなかった。家にある服を全部着て、布団に入った。冬は毎日そうしていた。温かいお湯が出ることはなかった。シャワーや風呂は難しかった。電気がなく暗いため、ろうそくを使った。溶けて固まったろうを、夫がもう一度溶かして缶に入れまた使った。
指導員は約20年間、私たちが外に出るときは必ず横にいた。許可なしに外出できず、暮らしていた招待所は鉄条網で囲われていた。北朝鮮では私が日本語を、夫が英語を教えた。嫌だと言ったら、私たち家族の生活ができなくなったかもしれない。どこか遠い山に行って生活する羽目になると思っていた。
▽願い
(離れて暮らしていた約1年9カ月は)ただ1日も早く4人が一緒に静かに暮らすことを願っていた。きょうは本当にありがとうございました。私たち家族の小さな幸せをもっともっと大きな幸せにできるように。今、私はそれだけを願っています。
これは メッセージ 157145 (rachi_yamero さん)への返信です.