ゴッド ブレス ヒム ②
投稿者: mutekinozerosen 投稿日時: 2004/09/05 21:56 投稿番号: [149975 / 232612]
松本道介(文芸評論家)
・・・『イチロー・インタビュー』(新潮社)を読んで驚いたのは、二度目の首位打者となった一九九五年から四シーズンは苦しみ抜いていたことである。<もう、ボロボロでしたよ。苦しくて何度も崩れ落ちそうになっていた><言葉にすることが出来ない、身体を焦がすような苦しみでした。どんなときにも憤りでいっぱいだった>
だが、その苦しみは<精神的な苦痛や心の落ち込み>ではなかった。<僕が苦しんでいたのは打撃における技術でしたから、気持ちを切り替えるようには解決策が見つからない。迷うなかでベストを尽くし、持てる力を絞り出すようにして戦っていました>
この個所に私は強く惹(ひ)かれた。それとともに大河内昭爾さんが『五輪書』の本質を<実技書>だと言い切っているのを思い出した。武蔵は武道を<大いなるたくみ>つまり<大工>にたとえつつ、精神的なもの、気分的なものを潔癖に排除している。その点はまさにイチローも同じで、ともに技だけに心を集中させている。だからこそ二人は考えに考えることができたのだと思う。
だが、考えてなんぞいては技は磨けないというのが一般の常識であろう。考えることは技の妨げであり、”下手の考え休むに似たり”という言葉もある。”下手の考え”とは、つかみどころがない観念を相手のつかみあいのことであり、学者や評論家のおこなう思考のほとんどがそれにあたる。観念を相手にいくら考えても考えは複雑になるだけで、深まりも高まりもしない。その一方、武蔵やイチローは技だけを相手にしている。刀やバットや腕の振りといった具体的なものだけを相手にしている。だからこそどこまでも考えを深めることができた。そして深めれば深めるほど考えることは目で見ること腕を振ることに近づき、果てはほとんど一体のものになっていく。
こうして眼差や技と一体になった思考は最早言葉には出来ない。苦しみに苦しんだあげくにイチローは、九九年のシーズン開始後間もない西武戦でその日四本目の凡打であるセカンドゴロを打った瞬間にある悟りに達したという。それが二年後の大リーグ入りにもつながるのだが、この時の発見はまったく言葉では説明出来ないと語る。かりに言葉で説明出来たところで何の意味もないだろう。地の巻、水の巻、火の巻、風の巻と続いた『五輪書』が最後の空の巻に至ってわずか一頁ページ程で終わることも思いあわせて私にはたいへん興味深い。
http://srd.yahoo.co.jp/PAGE=P/LOC=P/R=2/*-http://www.kumanichi.com/etc/rekishi/musashi/kou/musa01.html
『日本の仏教で最も親しまれている教えは「般若心経」で、そこで説いているのは「空(くう)」、つまり「自由」ということなんです。世界に対して、何ものにもとらわれず、自由に対応せよ、と。』
九十九年の西武戦での悟りとはこのようなものだったのでしょうか。
・・・『イチロー・インタビュー』(新潮社)を読んで驚いたのは、二度目の首位打者となった一九九五年から四シーズンは苦しみ抜いていたことである。<もう、ボロボロでしたよ。苦しくて何度も崩れ落ちそうになっていた><言葉にすることが出来ない、身体を焦がすような苦しみでした。どんなときにも憤りでいっぱいだった>
だが、その苦しみは<精神的な苦痛や心の落ち込み>ではなかった。<僕が苦しんでいたのは打撃における技術でしたから、気持ちを切り替えるようには解決策が見つからない。迷うなかでベストを尽くし、持てる力を絞り出すようにして戦っていました>
この個所に私は強く惹(ひ)かれた。それとともに大河内昭爾さんが『五輪書』の本質を<実技書>だと言い切っているのを思い出した。武蔵は武道を<大いなるたくみ>つまり<大工>にたとえつつ、精神的なもの、気分的なものを潔癖に排除している。その点はまさにイチローも同じで、ともに技だけに心を集中させている。だからこそ二人は考えに考えることができたのだと思う。
だが、考えてなんぞいては技は磨けないというのが一般の常識であろう。考えることは技の妨げであり、”下手の考え休むに似たり”という言葉もある。”下手の考え”とは、つかみどころがない観念を相手のつかみあいのことであり、学者や評論家のおこなう思考のほとんどがそれにあたる。観念を相手にいくら考えても考えは複雑になるだけで、深まりも高まりもしない。その一方、武蔵やイチローは技だけを相手にしている。刀やバットや腕の振りといった具体的なものだけを相手にしている。だからこそどこまでも考えを深めることができた。そして深めれば深めるほど考えることは目で見ること腕を振ることに近づき、果てはほとんど一体のものになっていく。
こうして眼差や技と一体になった思考は最早言葉には出来ない。苦しみに苦しんだあげくにイチローは、九九年のシーズン開始後間もない西武戦でその日四本目の凡打であるセカンドゴロを打った瞬間にある悟りに達したという。それが二年後の大リーグ入りにもつながるのだが、この時の発見はまったく言葉では説明出来ないと語る。かりに言葉で説明出来たところで何の意味もないだろう。地の巻、水の巻、火の巻、風の巻と続いた『五輪書』が最後の空の巻に至ってわずか一頁ページ程で終わることも思いあわせて私にはたいへん興味深い。
http://srd.yahoo.co.jp/PAGE=P/LOC=P/R=2/*-http://www.kumanichi.com/etc/rekishi/musashi/kou/musa01.html
『日本の仏教で最も親しまれている教えは「般若心経」で、そこで説いているのは「空(くう)」、つまり「自由」ということなんです。世界に対して、何ものにもとらわれず、自由に対応せよ、と。』
九十九年の西武戦での悟りとはこのようなものだったのでしょうか。
これは メッセージ 1 (mitokoumon_2002 さん)への返信です.