崩壊論〜南アフリカ編6〜
投稿者: komash0427 投稿日時: 2004/06/19 21:52 投稿番号: [139177 / 232612]
1949年にANCの指導者は代替わりし、ネルソン・マンデラ(のちのアフリカ人初代大統領)をはじめ当時青年だった人達がリーダーとなり、それまでの穏健な請願・陳情路線から非暴力主義に基づいて政府へのボイコット・ストライキ・不服従運動を開始しました。これにはガンジーの薫陶が強くあったそうです。そのため翌年には国民党政府は「共産主義弾圧法」を制定し、アパルトヘイトに反対する運動は共産主義者の仕業としてこの運動の取締りを強化しました。
1952年、ANCはSAIC(南アフリカインド人会議)と合同で、人種差別政策への抗議行動を繰り広げ、政府は弾圧に乗りだし、およそ8000名が逮捕されたそうです。しかしこの抗議行動を通じてANCの支持は南ア全土に広がりました。党員が10万名を超えたそうです。
1955年ANCの呼びかけで人種差別政策に反対する全人種(白人、カラード、インド人、アフリカ人)が3000名ほど参加し「自由憲章」を採択します。この憲章は肌の色、性別、信仰に関わらず、平等な参政権、富の平等な分配、法のもとの平等、他国の主権を尊重し友好関係を結ぶ、国民の意志に基づいた民主国家を建設することを謳っています。
しかし翌年に自由憲章が国家転覆罪にあたり、共産主義者の陰謀と決め付けANCの関係者156人は国家反逆罪で一斉に逮捕されました。このことは裁判で争われ結局61年に全員に無罪判決がでています。
この間も抵抗運動は続いていて、アフリカ人が携行を義務つけられていた身分証明証(パス)の不携行、廃棄などを行い58年には60万人がパス法違反で検挙されたそうです。また59年にはより過激な運動を目指すグループがANCと袂を分かちPAC(Pan Africanist Congress)を結成します。
1960年にはヨハネスブルグ近郊のシャープビル警察署前にパス法に抗議して集まったPACを支持する群集に対して警官隊が一斉に無差別発砲して死亡者69名、負傷者180名の凶事となり、抗議運動が南ア全土に広まり、政府も非常事態宣言を発令し、ANC、PACが非合法化されます。翌年ANCはゲリラ組織を作り、地下活動を開始しました。PACも同じ動きをします。
1961年に英連邦に属していた南アはこうした非人道的な対応を批難され、英連邦からの脱退を余儀なくされ、南ア連邦共和国から南ア共和国へ移行します。
1962年にはマンデラが逮捕、さらに翌年にANCの主要幹部7人も逮捕され、ANC、PACとも海外へ亡命します。
これ以降抵抗運動は冬の時代を迎え、運動の主役は労働組合や学生組織が担っていくことになりました。
1973年にダーバンの工場で賃上げ要求をしてストライキが起こり、これ以後3ヶ月間で六万人の労働者が160件以上のストライキを起こしました。
またスティーブ・ビコという青年が黒人の意識改革を訴えた運動が盛りあがりを見せます。これはアパルトヘイトの根本の問題は白人の圧制にあるのではなく、黒人が自分達の肌の色や文化に誇りを持てず白人に劣等感を抱いていることが原因であるとし、多くのアフリカ人がこの考え方に共鳴します。
そんな中、白人政権は火に油を注ぐような真似をします。アフリカ人の学校教育にオランダ系白人が使用している言語を強制します。
1976年6月にヨハネスブルグにほど近いアフリカ人居住区、ソウェトで抵抗する13歳の少年が警察官に殺害されると、抗議運動は全国に広がり翌年2月までに600名近くの命が奪われました。その多くは子供達だったそうです。スティーブ・ビコ自身も逮捕され1977年9月に拷問により殺されました。彼に関しては「遠い夜明け」という映画でも描かれています。
国連もこうした白人政権の非人道的な対応に対して批難をし、77年に安全保障理事会が全会一致して南アへの武器の禁輸を決議しました。白人政府は常に最新鋭の武器を使って抵抗運動を弾圧していたため、武器禁輸措置がとられたようです。
このような国内外の批判に対して国民党政府は一定程度の譲歩を行います。
1)アフリカ人労働組合結成の許可
2)職種制限の廃止
3)白人居住地域への流入の規制緩和
4)カラード・インド人への参政権の拡大(アフリカ人へは従来通り認めない)
国民党内の強硬派は、脱党し南アフリカ保守党を結成しました。
しかし、4)のカラード・インド人への参政権の拡大は、さらに有色人種を怒らせてしまい、またもや火に油を注ぐこととなりました。
(続く)
1952年、ANCはSAIC(南アフリカインド人会議)と合同で、人種差別政策への抗議行動を繰り広げ、政府は弾圧に乗りだし、およそ8000名が逮捕されたそうです。しかしこの抗議行動を通じてANCの支持は南ア全土に広がりました。党員が10万名を超えたそうです。
1955年ANCの呼びかけで人種差別政策に反対する全人種(白人、カラード、インド人、アフリカ人)が3000名ほど参加し「自由憲章」を採択します。この憲章は肌の色、性別、信仰に関わらず、平等な参政権、富の平等な分配、法のもとの平等、他国の主権を尊重し友好関係を結ぶ、国民の意志に基づいた民主国家を建設することを謳っています。
しかし翌年に自由憲章が国家転覆罪にあたり、共産主義者の陰謀と決め付けANCの関係者156人は国家反逆罪で一斉に逮捕されました。このことは裁判で争われ結局61年に全員に無罪判決がでています。
この間も抵抗運動は続いていて、アフリカ人が携行を義務つけられていた身分証明証(パス)の不携行、廃棄などを行い58年には60万人がパス法違反で検挙されたそうです。また59年にはより過激な運動を目指すグループがANCと袂を分かちPAC(Pan Africanist Congress)を結成します。
1960年にはヨハネスブルグ近郊のシャープビル警察署前にパス法に抗議して集まったPACを支持する群集に対して警官隊が一斉に無差別発砲して死亡者69名、負傷者180名の凶事となり、抗議運動が南ア全土に広まり、政府も非常事態宣言を発令し、ANC、PACが非合法化されます。翌年ANCはゲリラ組織を作り、地下活動を開始しました。PACも同じ動きをします。
1961年に英連邦に属していた南アはこうした非人道的な対応を批難され、英連邦からの脱退を余儀なくされ、南ア連邦共和国から南ア共和国へ移行します。
1962年にはマンデラが逮捕、さらに翌年にANCの主要幹部7人も逮捕され、ANC、PACとも海外へ亡命します。
これ以降抵抗運動は冬の時代を迎え、運動の主役は労働組合や学生組織が担っていくことになりました。
1973年にダーバンの工場で賃上げ要求をしてストライキが起こり、これ以後3ヶ月間で六万人の労働者が160件以上のストライキを起こしました。
またスティーブ・ビコという青年が黒人の意識改革を訴えた運動が盛りあがりを見せます。これはアパルトヘイトの根本の問題は白人の圧制にあるのではなく、黒人が自分達の肌の色や文化に誇りを持てず白人に劣等感を抱いていることが原因であるとし、多くのアフリカ人がこの考え方に共鳴します。
そんな中、白人政権は火に油を注ぐような真似をします。アフリカ人の学校教育にオランダ系白人が使用している言語を強制します。
1976年6月にヨハネスブルグにほど近いアフリカ人居住区、ソウェトで抵抗する13歳の少年が警察官に殺害されると、抗議運動は全国に広がり翌年2月までに600名近くの命が奪われました。その多くは子供達だったそうです。スティーブ・ビコ自身も逮捕され1977年9月に拷問により殺されました。彼に関しては「遠い夜明け」という映画でも描かれています。
国連もこうした白人政権の非人道的な対応に対して批難をし、77年に安全保障理事会が全会一致して南アへの武器の禁輸を決議しました。白人政府は常に最新鋭の武器を使って抵抗運動を弾圧していたため、武器禁輸措置がとられたようです。
このような国内外の批判に対して国民党政府は一定程度の譲歩を行います。
1)アフリカ人労働組合結成の許可
2)職種制限の廃止
3)白人居住地域への流入の規制緩和
4)カラード・インド人への参政権の拡大(アフリカ人へは従来通り認めない)
国民党内の強硬派は、脱党し南アフリカ保守党を結成しました。
しかし、4)のカラード・インド人への参政権の拡大は、さらに有色人種を怒らせてしまい、またもや火に油を注ぐこととなりました。
(続く)
これは メッセージ 139162 (komash0427 さん)への返信です.