崩壊論〜南アフリカ編5〜
投稿者: komash0427 投稿日時: 2004/06/19 20:31 投稿番号: [139162 / 232612]
再訪朝から4週間が過ぎ、いまだ北からは「再調査」の結果がでてきません。犯罪者が自分の所業を「再調査」するということ自体変な話で、そんなことを約束してきた総理も頭がおかしいとは思いますが、北に誠意が無いことはもうわかりきった話で、被害者の国である日本国が再調査を期待するのもまたおかしな話です。
書き込みの続きが遅くなりました。北朝鮮に対して、総理が制裁しませんとばかげた約束してきてしまったので、こちらとしては制裁せずに独裁体制を崩壊させることが出来るかどうかをテーマに南アフリカのアパルトヘイト体制の起源と終焉の歴史を振り返っています。
アパルトヘイト体制をめぐってはなんと微弱ながら日本政府も南アに対して経済制裁をしています。ですので制裁して圧制を崩壊に導いているのでテーマからずれてしまいました。ただ人権弾圧国家ソ連には厳しい対応を取ったレーガン政権は最後まで南アに対して経済制裁を反対していました。
レーガン政権は南ア白人政権には国際社会の批難とは逆行するくらい「援助」を繰り返しましたが、そこにはまた隠されたある意図もあったようです。このことに触れるのはまだ先になります。もうしばらく南アフリカの現代史にお付き合いください。
というわけで、今回はアフリカ人の抵抗について。
南アフリカの伝統社会は白人の侵入を拒み抵抗もしてきました。1870年代にはズールー王国が1,000人のイギリス軍を壊滅させていますが、所詮は歯が立ちませんでした。1906年の反乱を最後に伝統社会の抵抗は終わったとされています。
これ以降はキリスト教の影響を受けた新世代が、伝統社会の指導者達と時には協力し、時には競合しながら抵抗運動の中心を担っていったようです。
1894年に南アフリカにおいて人種差別に反対する初の団体が結成されます。ナタール州のインド人が中心となってナタール・インド人会議(NAIC)という団体です。NAICの結成には若き日のガンジーも参画しました。当時のナタールではインド系ビジネスマンに不満をもつ白人社会がインド系住民の諸権利を抑制する法律を次々と成立させ、インド系人の不満が高まっていました。
その抵抗運動は非暴力・不服従をうたい、当時インド系人に義務つけられていた指紋押捺の登録証の廃棄を行うものでした。1913年には2000人の大行進を敢行し、時の白人政府から一定の譲歩を引き出したそうです。
1912年にはアフリカ人を中心に法律家、教職員、聖職者、ジャーナリスト、部族の首長などが南アフリカ原住民民族会議(SANNC)を結成しました。この団体は1921年にアフリカ民族会議(ANC)へ改称します。ガンジーの非暴力主義の影響を受け、穏健な請願運動路線を行っていました。また同年には南アフリカ共産党が結成されています。
白人社会の動きはというと、1899年にオランダ系移民白人とイギリス系白人が対立をしてとうとう戦争を起します。結局イギリス本国の支援をうけたイギリス系白人が勝ち、1910年に南アフリカ連邦が成立します。これより数十年間、英国連邦に属することになります。
政治体制は連合党(UP)と労働党(LP)と国民党(NP)など主要3政党を中心とした議院内閣制でした。連合党・労働党は、イギリス系、国民党はオランダ系の白人が各々の支持基盤だったようです。オランダ系白人はイギリス系と比べて経済力も弱く、農場主、労働者が中心で、都市型産業の拡大に連れて多数のアフリカ人労働者と競争を強いられたため、国民党の政策は白人には暖かくアフリカ人には冷遇をするものでした。イギリス系白人はダイヤモンド、金、希少金属などの鉱山経営者が多く、彼らは良質で安かな労働者であれば人種の違いにはそれほどこだわりませんでした。
第二次世界大戦後1948年の総選挙では国民党が政権を奪取し、以後アパルトヘイト体制が終焉するまで政権与党として君臨し、人種差別・隔離政策を強化し、南ア国内の有色人種、国際社会から大きな批判と抵抗に晒されます。
(続く)
書き込みの続きが遅くなりました。北朝鮮に対して、総理が制裁しませんとばかげた約束してきてしまったので、こちらとしては制裁せずに独裁体制を崩壊させることが出来るかどうかをテーマに南アフリカのアパルトヘイト体制の起源と終焉の歴史を振り返っています。
アパルトヘイト体制をめぐってはなんと微弱ながら日本政府も南アに対して経済制裁をしています。ですので制裁して圧制を崩壊に導いているのでテーマからずれてしまいました。ただ人権弾圧国家ソ連には厳しい対応を取ったレーガン政権は最後まで南アに対して経済制裁を反対していました。
レーガン政権は南ア白人政権には国際社会の批難とは逆行するくらい「援助」を繰り返しましたが、そこにはまた隠されたある意図もあったようです。このことに触れるのはまだ先になります。もうしばらく南アフリカの現代史にお付き合いください。
というわけで、今回はアフリカ人の抵抗について。
南アフリカの伝統社会は白人の侵入を拒み抵抗もしてきました。1870年代にはズールー王国が1,000人のイギリス軍を壊滅させていますが、所詮は歯が立ちませんでした。1906年の反乱を最後に伝統社会の抵抗は終わったとされています。
これ以降はキリスト教の影響を受けた新世代が、伝統社会の指導者達と時には協力し、時には競合しながら抵抗運動の中心を担っていったようです。
1894年に南アフリカにおいて人種差別に反対する初の団体が結成されます。ナタール州のインド人が中心となってナタール・インド人会議(NAIC)という団体です。NAICの結成には若き日のガンジーも参画しました。当時のナタールではインド系ビジネスマンに不満をもつ白人社会がインド系住民の諸権利を抑制する法律を次々と成立させ、インド系人の不満が高まっていました。
その抵抗運動は非暴力・不服従をうたい、当時インド系人に義務つけられていた指紋押捺の登録証の廃棄を行うものでした。1913年には2000人の大行進を敢行し、時の白人政府から一定の譲歩を引き出したそうです。
1912年にはアフリカ人を中心に法律家、教職員、聖職者、ジャーナリスト、部族の首長などが南アフリカ原住民民族会議(SANNC)を結成しました。この団体は1921年にアフリカ民族会議(ANC)へ改称します。ガンジーの非暴力主義の影響を受け、穏健な請願運動路線を行っていました。また同年には南アフリカ共産党が結成されています。
白人社会の動きはというと、1899年にオランダ系移民白人とイギリス系白人が対立をしてとうとう戦争を起します。結局イギリス本国の支援をうけたイギリス系白人が勝ち、1910年に南アフリカ連邦が成立します。これより数十年間、英国連邦に属することになります。
政治体制は連合党(UP)と労働党(LP)と国民党(NP)など主要3政党を中心とした議院内閣制でした。連合党・労働党は、イギリス系、国民党はオランダ系の白人が各々の支持基盤だったようです。オランダ系白人はイギリス系と比べて経済力も弱く、農場主、労働者が中心で、都市型産業の拡大に連れて多数のアフリカ人労働者と競争を強いられたため、国民党の政策は白人には暖かくアフリカ人には冷遇をするものでした。イギリス系白人はダイヤモンド、金、希少金属などの鉱山経営者が多く、彼らは良質で安かな労働者であれば人種の違いにはそれほどこだわりませんでした。
第二次世界大戦後1948年の総選挙では国民党が政権を奪取し、以後アパルトヘイト体制が終焉するまで政権与党として君臨し、人種差別・隔離政策を強化し、南ア国内の有色人種、国際社会から大きな批判と抵抗に晒されます。
(続く)
これは メッセージ 137207 (komash0427 さん)への返信です.