きっと会える<大沢さん証言編>(上)
投稿者: aoinomama13 投稿日時: 2004/06/07 17:38 投稿番号: [136464 / 232612]
拉致された可能性が非常に高い特定失踪者「大沢孝司さん」のすぐ上のお兄さんは、いつも上野街頭署名活動に参加し、必死に真相解明・救出を訴えていらっしゃいます。上野では、新潟救う会関東県人会の皆さんと一緒に毎週日曜日に、もう74回も署名活動をしています。
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「不明の弟 北朝鮮に」証拠なし 揺れる家族 新潟日報連載
■突然の情報
「佐渡で行方不明になった人がいて、(当時現場に)ハングルで善かれたマッチが落ちていたという話を聞いた。弟さんは北朝鮮に拉致されたんじゃないか」
一九九八年、西蒲巻町の大沢昭一さん(六八)の家の電話が鳴った。県職員だった弟の孝司さん=当時(二七)=が旧佐渡新穂村で消息を絶って二十四年。孝司さんに関する情報が突然、横田めぐみさんの救出活動をする「新潟救う会」の小島晴則会長からもたらされた。新潟市内の主婦から話を聞いた小島会長が大沢家を探し、連絡してきたのだった。
聞き慣れない「北朝鮮」「拉致」。行方不明になって以来、自殺だと考え、思い出を胸にしまい込んでいた家族は心を揺さぶられたが、救出活動の誘いをきっぱり断った。
「証拠もないのに、そんなふうに言われても困る」
□ ■ □
七四年二月二十四日午後五時すぎ、県佐渡農地事務所(当時)の技師だった孝司さんは近くの焼き肉屋を一人で訪れ、同七時ころ店を出た。寮への帰宅途中、知人宅に寄った。寮まで約二百メートル。足取りはそこでプツリと消えた。
同日夜、巻町の実家では孝司さんの結婚相手を探す話が話題に上った。東京農大を卒業し、県職員五年目。佐渡勤務を終えた後、新居を建てるため実家近くに土地も買っていた。まさかこの夜、姿を消すとは思いもしなかった。
二十六日朝、実家に農地事務所から「無断欠勤」の連絡が入った。昭一さんは佐渡に駆け付けた。佐渡汽船の乗船名簿を調べたが、島から出た記録はない。寮の部屋は驚くはどきれいに整頓されていた。昭一さんは「嫁(探し)のことで悩んでいたのか」と考えた。
行方不明から約二週間、警察や消防、同僚ら大規模な捜索を行ったが、行方は分からない。家族は「自殺か」と考えたが、末っ子の孝司さんの帰省をいつも心待ちにしていた母房さん=故人=だけは否定した。「遺書も書かないような、無責任な男じゃない」
明治生まれの気丈な母だったが、一度だけ山で声を上げて泣いていたという。「その日は泣くつもりで行ったんじゃないか」。昭一さんは決して弱音を吐かなかった母の心を察した。
何の手がかりもないまま時間だけが過ぎていった。父福一郎さん(九四)は語る。「泣きたくても、涙を流す材料がなかった」
□ ■ □
小島会長の電話から二年後の二〇〇〇年三月、今度は思いがけない展開で「拉致」の情報が駆け巡った。小島会長が横田さんらに関する捜査要請のため県警を訪れ、同時に大沢さんについても申し入れた。県警は「拉致ではないか」という情報をつかみ、既に調べを始めたと明かした。マスコミは大沢さんの失踪事件を一斉に報じた。
「北朝鮮なのか」。昭一さんにも「もしかしたら」という思いはあったが、このときも小島会長に断った。「証拠もないのに北朝鮮のせいにできない」。まして、冬の日本海を越えて北朝鮮に連れていけるねけがない。家族は動かなかった。
救出活動を始めるのは〇二年九月、日朝首脳会談で北朝鮮が日本人拉致を認めてからだった。
◇
〇二年十月の拉致被害者五人の帰国後、行方不明者の家族が各地で「拉致ではないか」と声を上げた。それから一年半、真相は依然闇の中だ。「拉致かどうかは分からないが、会いたい」。今シリーズでは大沢さんを皮切りに、不安と焦りを募らせながら拉致問題の行方を見守り、「いつか、きっと会える」と信じて待つ県内関係未認定者家族たちの思いを描く。
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「不明の弟 北朝鮮に」証拠なし 揺れる家族 新潟日報連載
■突然の情報
「佐渡で行方不明になった人がいて、(当時現場に)ハングルで善かれたマッチが落ちていたという話を聞いた。弟さんは北朝鮮に拉致されたんじゃないか」
一九九八年、西蒲巻町の大沢昭一さん(六八)の家の電話が鳴った。県職員だった弟の孝司さん=当時(二七)=が旧佐渡新穂村で消息を絶って二十四年。孝司さんに関する情報が突然、横田めぐみさんの救出活動をする「新潟救う会」の小島晴則会長からもたらされた。新潟市内の主婦から話を聞いた小島会長が大沢家を探し、連絡してきたのだった。
聞き慣れない「北朝鮮」「拉致」。行方不明になって以来、自殺だと考え、思い出を胸にしまい込んでいた家族は心を揺さぶられたが、救出活動の誘いをきっぱり断った。
「証拠もないのに、そんなふうに言われても困る」
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七四年二月二十四日午後五時すぎ、県佐渡農地事務所(当時)の技師だった孝司さんは近くの焼き肉屋を一人で訪れ、同七時ころ店を出た。寮への帰宅途中、知人宅に寄った。寮まで約二百メートル。足取りはそこでプツリと消えた。
同日夜、巻町の実家では孝司さんの結婚相手を探す話が話題に上った。東京農大を卒業し、県職員五年目。佐渡勤務を終えた後、新居を建てるため実家近くに土地も買っていた。まさかこの夜、姿を消すとは思いもしなかった。
二十六日朝、実家に農地事務所から「無断欠勤」の連絡が入った。昭一さんは佐渡に駆け付けた。佐渡汽船の乗船名簿を調べたが、島から出た記録はない。寮の部屋は驚くはどきれいに整頓されていた。昭一さんは「嫁(探し)のことで悩んでいたのか」と考えた。
行方不明から約二週間、警察や消防、同僚ら大規模な捜索を行ったが、行方は分からない。家族は「自殺か」と考えたが、末っ子の孝司さんの帰省をいつも心待ちにしていた母房さん=故人=だけは否定した。「遺書も書かないような、無責任な男じゃない」
明治生まれの気丈な母だったが、一度だけ山で声を上げて泣いていたという。「その日は泣くつもりで行ったんじゃないか」。昭一さんは決して弱音を吐かなかった母の心を察した。
何の手がかりもないまま時間だけが過ぎていった。父福一郎さん(九四)は語る。「泣きたくても、涙を流す材料がなかった」
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小島会長の電話から二年後の二〇〇〇年三月、今度は思いがけない展開で「拉致」の情報が駆け巡った。小島会長が横田さんらに関する捜査要請のため県警を訪れ、同時に大沢さんについても申し入れた。県警は「拉致ではないか」という情報をつかみ、既に調べを始めたと明かした。マスコミは大沢さんの失踪事件を一斉に報じた。
「北朝鮮なのか」。昭一さんにも「もしかしたら」という思いはあったが、このときも小島会長に断った。「証拠もないのに北朝鮮のせいにできない」。まして、冬の日本海を越えて北朝鮮に連れていけるねけがない。家族は動かなかった。
救出活動を始めるのは〇二年九月、日朝首脳会談で北朝鮮が日本人拉致を認めてからだった。
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〇二年十月の拉致被害者五人の帰国後、行方不明者の家族が各地で「拉致ではないか」と声を上げた。それから一年半、真相は依然闇の中だ。「拉致かどうかは分からないが、会いたい」。今シリーズでは大沢さんを皮切りに、不安と焦りを募らせながら拉致問題の行方を見守り、「いつか、きっと会える」と信じて待つ県内関係未認定者家族たちの思いを描く。
これは メッセージ 136444 (aoinomama13 さん)への返信です.