尖閣売国 対馬まで要求する半島2
投稿者: fabyondarone 投稿日時: 2004/04/17 13:51 投稿番号: [117675 / 232612]
今は二つに分かれてゐる島ももとは一つであつた。それを人工で開鑿(かいさく)して島を二つに割つたことこそ、対馬が昔から日本のものであり、且は又日鮮間に於ける外交交渉、ひいては一朝朝鮮と事ある場合に備へる措置であつたことを歴史は明確に証明して居る。即ち対馬における大事件は、東岸ではなくていつも西岸に起こるのであつた。前記倭寇の場合も、又その前の刀伊の賊や、慶尚道元師朴○の政略、李従茂の侵入等その他の諸事件も、大抵は朝鮮側の積極的攻撃が基本となつてゐるのである。そこで寛文十二年、時の対馬守宗義真が徳川幕府に申請許可をうけて志賀○広に工事監督を命じ、三万五千人の人夫を使つて、約二百日間に仕上げたのが浅海(浅茅)湾東端の「大船越の掘割」である。即ち首都のある東岸から西岸へ最も速やかに且能率的に出る近道を作つたのであつて、島を二つに割る目的ではなかつたのである。(○の漢字は表示できず)
首都は古来から東岸のみであつた。それは日本本土との連絡上必然的な結論であり、島としての地勢、環境を考へての選択ではなかつた。時の主権者によつて若干の奠都(てんと・都をさだめる)は行なはれてゐるが、いつもそれは日本に近い東岸のみである。初め今日の厳原(いづはら)附近が早くも首府となり、応永の頃宗貞茂は北方佐賀に都を移し、文明年間宗貞国は厳原附近の中村に還り、亨禄元年宗将盛は全石城(金石城?)に居た。寛文六年宗義真の時に棧原に居し、これを府中と云ひ、明治維新ののち厳原と改名したのであつて、いづれも日本への最短距離東海岸に存在すること申すまでもない。日清役ののち、日本海防衛の必要上、軍艦を通すべき水路開鑿の必要に迫られ、新しく「万関越の掘割」をつくつて、東西海岸間の軍事的交通の便ををひらき、これによつて日本本土との連絡は一層緊密を加へて行つたのである。
(中略)
さて対馬が日本を代表し乍(なが)ら日鮮間に於ける通交の媒(なかだち)をし、一方朝鮮海峡の利権を握つてゐたのは四百年の永きに及んだ。その間日鮮の間に取り交わした重大な条約が三つある。一つは嘉吉条約(癸亥)、二は永正条約(壬申)三は慶長(巳酉)条約である。(括弧内は朝鮮側の記録)これはみな日本人の朝鮮貿易と倭寇に関係が深いのである。由来日本人が彼の地に行つて貿易に従事したことは、ずつと昔からあつた。しかし高麗の晩年までは大したことはなかつたが、恭愍(きょうびん)王のとき(1352年)対馬の宗経茂に米一千石を贈つて来た。李承晩大統領が対馬へは、朝鮮より食糧の不足を送つてゐた――と云ふのはこのことである。これは対馬を根拠地とする倭寇が、朝鮮の本土至るところに上陸して、掠奪をやることにはほとほと手を焼き、宗経茂を通して何とかこれら辺民の宣撫工作をやりたいものとの高等政策の一つであつて決して領民への食糧補給ではなかつた。
李朝になつてからは、倭寇の鎮定に特別の懐柔策を用ひる様になつたので、我も我もと土産を持つては朝鮮に行き、どつさりと返礼を貰ふ。一種の情誼貿易である。爾来これらの方策が効果を挙げて来たのと、日本では豊臣秀吉の倭寇厳禁で、あれほど高麗朝を悩ました倭寇も、李朝に至つては中絶したのであつた。それは後日譚であるが、個々の民間情誼貿易がかくの如くして発展して行つたのでは、朝鮮側でも立ち行かぬことになるので、そこで国営貿易として、この情勢に制限を加へようとしたのが嘉吉條約(1443年)である。その条約で対馬の宗氏から、年々五十艘の船を朝鮮に送ることとし、朝鮮からは馬の飼料として米、大豆二百石を年々宗氏に贈ることとなつた。それを歳賜米と云つたので、李大統領が対馬を属国のやうに考へたのであらう。
首都は古来から東岸のみであつた。それは日本本土との連絡上必然的な結論であり、島としての地勢、環境を考へての選択ではなかつた。時の主権者によつて若干の奠都(てんと・都をさだめる)は行なはれてゐるが、いつもそれは日本に近い東岸のみである。初め今日の厳原(いづはら)附近が早くも首府となり、応永の頃宗貞茂は北方佐賀に都を移し、文明年間宗貞国は厳原附近の中村に還り、亨禄元年宗将盛は全石城(金石城?)に居た。寛文六年宗義真の時に棧原に居し、これを府中と云ひ、明治維新ののち厳原と改名したのであつて、いづれも日本への最短距離東海岸に存在すること申すまでもない。日清役ののち、日本海防衛の必要上、軍艦を通すべき水路開鑿の必要に迫られ、新しく「万関越の掘割」をつくつて、東西海岸間の軍事的交通の便ををひらき、これによつて日本本土との連絡は一層緊密を加へて行つたのである。
(中略)
さて対馬が日本を代表し乍(なが)ら日鮮間に於ける通交の媒(なかだち)をし、一方朝鮮海峡の利権を握つてゐたのは四百年の永きに及んだ。その間日鮮の間に取り交わした重大な条約が三つある。一つは嘉吉条約(癸亥)、二は永正条約(壬申)三は慶長(巳酉)条約である。(括弧内は朝鮮側の記録)これはみな日本人の朝鮮貿易と倭寇に関係が深いのである。由来日本人が彼の地に行つて貿易に従事したことは、ずつと昔からあつた。しかし高麗の晩年までは大したことはなかつたが、恭愍(きょうびん)王のとき(1352年)対馬の宗経茂に米一千石を贈つて来た。李承晩大統領が対馬へは、朝鮮より食糧の不足を送つてゐた――と云ふのはこのことである。これは対馬を根拠地とする倭寇が、朝鮮の本土至るところに上陸して、掠奪をやることにはほとほと手を焼き、宗経茂を通して何とかこれら辺民の宣撫工作をやりたいものとの高等政策の一つであつて決して領民への食糧補給ではなかつた。
李朝になつてからは、倭寇の鎮定に特別の懐柔策を用ひる様になつたので、我も我もと土産を持つては朝鮮に行き、どつさりと返礼を貰ふ。一種の情誼貿易である。爾来これらの方策が効果を挙げて来たのと、日本では豊臣秀吉の倭寇厳禁で、あれほど高麗朝を悩ました倭寇も、李朝に至つては中絶したのであつた。それは後日譚であるが、個々の民間情誼貿易がかくの如くして発展して行つたのでは、朝鮮側でも立ち行かぬことになるので、そこで国営貿易として、この情勢に制限を加へようとしたのが嘉吉條約(1443年)である。その条約で対馬の宗氏から、年々五十艘の船を朝鮮に送ることとし、朝鮮からは馬の飼料として米、大豆二百石を年々宗氏に贈ることとなつた。それを歳賜米と云つたので、李大統領が対馬を属国のやうに考へたのであらう。
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