捏造!対馬は韓国の領土??
投稿者: fabyondarone 投稿日時: 2004/03/28 10:58 投稿番号: [113185 / 232612]
かば韓国女??日本に論評する????
さて対馬が日本を代表し乍(なが)ら日鮮間に於ける通交の媒(なかだち)をし、一方朝鮮海峡の利権を握つてゐたのは四百年の永きに及んだ。その間日鮮の間に取り交わした重大な条約が三つある。一つは嘉吉条約(癸亥)、二は永正条約(壬申)三は慶長(巳酉)条約である。(括弧内は朝鮮側の記録)これはみな日本人の朝鮮貿易と倭寇に関係が深いのである。由来日本人が彼の地に行つて貿易に従事したことは、ずつと昔からあつた。しかし高麗の晩年までは大したことはなかつたが、恭愍(きょうびん)王のとき(1352年)対馬の宗経茂に米一千石を贈つて来た。李承晩大統領が対馬へは、朝鮮より食糧の不足を送つてゐた――と云ふのはこのことである。これは対馬を根拠地とする倭寇が、朝鮮の本土至るところに上陸して、掠奪をやることにはほとほと手を焼き、宗経茂を通して何とかこれら辺民の宣撫工作をやりたいものとの高等政策の一つであつて決して領民への食糧補給ではなかつた。
李朝になつてからは、倭寇の鎮定に特別の懐柔策を用ひる様になつたので、我も我もと土産を持つては朝鮮に行き、どつさりと返礼を貰ふ。一種の情誼貿易である。爾来これらの方策が効果を挙げて来たのと、日本では豊臣秀吉の倭寇厳禁で、あれほど高麗朝を悩ました倭寇も、李朝に至つては中絶したのであつた。それは後日譚であるが、個々の民間情誼貿易がかくの如くして発展して行つたのでは、朝鮮側でも立ち行かぬことになるので、そこで国営貿易として、この情勢に制限を加へようとしたのが嘉吉條約(1443年)である。その条約で対馬の宗氏から、年々五十艘の船を朝鮮に送ることとし、朝鮮からは馬の飼料として米、大豆二百石を年々宗氏に贈ることとなつた。それを歳賜米と云つたので、李大統領が対馬を属国のやうに考へたのであらう。
(中略)
元来対馬は山岳地帯が多く、平野が少なく耕作地に恵まれない為、昔から人口と食糧のバランスがとれないのである。…米が極めて少ない為、全体のカロリーから云つて漸(ようや)く一万八千人を支へるに過ぎない。然るにそのときの人口はその倍で三万二千人であつた。四百年の永きに亘り朝鮮貿易に全力を注いで来たのはもつともなのである。貿易の方法はその時々の条約や、習慣等によつていろいろであつたが、進上品にしても、求請品にしても回賜別福と云ふ先方の返礼品や歳賜米にしても、交換率まで決めた官営貿易であつた。又物々交換を前提とする民間貿易も、日本人の朝鮮滞在中の糧米供給にしても、皆それらの貿易代金決済済みの枠と比率のうちで行はれて居る。そこで如何なるものがその輸出入品であつたかと言へば、対馬から銅鉄、鑞鉄(錫と鉛の合金・はんだ)、丹木、明礬(みょうばん)、日本朱、紋紙、黒角(黒い水牛の角)工芸品等で、朝鮮側から主として木綿、米、大豆、小豆、人参等であつた。然るに時代の降るに随つて、木綿の質が下がり、寸法をごまかし、又米の中に砂や石を交へたり、水を加へて桝目をふやしたり、甚だしいのは渡すべき米を渡さないので、享保十三年に書かれた対馬側の文献をみると「二十ケ年程の間、未収二万俵に及び、埒(らち)明き申さず」などと書いてある。是等の取引はすべて朝鮮に於ける和館で行はれた。それは単に商売の形式でなく、外交的儀礼と秩序の上に行はれてゐたのは面白く、官営貿易の面目躍如たるものがある。(中略)しかし如何なる角度から研究しても対馬が朝鮮の所属であつたと言ふ結論は出ないのである。
対馬の件で李承晩大統領には、自国民が呆れるほどの粗雑な歴史知識しかないということが露呈したわけだが、竹島の領有を強硬に主張したのもこの大統領だ。これまた怪しげな歴史知識から言い出したのではないだろうか。
さて対馬が日本を代表し乍(なが)ら日鮮間に於ける通交の媒(なかだち)をし、一方朝鮮海峡の利権を握つてゐたのは四百年の永きに及んだ。その間日鮮の間に取り交わした重大な条約が三つある。一つは嘉吉条約(癸亥)、二は永正条約(壬申)三は慶長(巳酉)条約である。(括弧内は朝鮮側の記録)これはみな日本人の朝鮮貿易と倭寇に関係が深いのである。由来日本人が彼の地に行つて貿易に従事したことは、ずつと昔からあつた。しかし高麗の晩年までは大したことはなかつたが、恭愍(きょうびん)王のとき(1352年)対馬の宗経茂に米一千石を贈つて来た。李承晩大統領が対馬へは、朝鮮より食糧の不足を送つてゐた――と云ふのはこのことである。これは対馬を根拠地とする倭寇が、朝鮮の本土至るところに上陸して、掠奪をやることにはほとほと手を焼き、宗経茂を通して何とかこれら辺民の宣撫工作をやりたいものとの高等政策の一つであつて決して領民への食糧補給ではなかつた。
李朝になつてからは、倭寇の鎮定に特別の懐柔策を用ひる様になつたので、我も我もと土産を持つては朝鮮に行き、どつさりと返礼を貰ふ。一種の情誼貿易である。爾来これらの方策が効果を挙げて来たのと、日本では豊臣秀吉の倭寇厳禁で、あれほど高麗朝を悩ました倭寇も、李朝に至つては中絶したのであつた。それは後日譚であるが、個々の民間情誼貿易がかくの如くして発展して行つたのでは、朝鮮側でも立ち行かぬことになるので、そこで国営貿易として、この情勢に制限を加へようとしたのが嘉吉條約(1443年)である。その条約で対馬の宗氏から、年々五十艘の船を朝鮮に送ることとし、朝鮮からは馬の飼料として米、大豆二百石を年々宗氏に贈ることとなつた。それを歳賜米と云つたので、李大統領が対馬を属国のやうに考へたのであらう。
(中略)
元来対馬は山岳地帯が多く、平野が少なく耕作地に恵まれない為、昔から人口と食糧のバランスがとれないのである。…米が極めて少ない為、全体のカロリーから云つて漸(ようや)く一万八千人を支へるに過ぎない。然るにそのときの人口はその倍で三万二千人であつた。四百年の永きに亘り朝鮮貿易に全力を注いで来たのはもつともなのである。貿易の方法はその時々の条約や、習慣等によつていろいろであつたが、進上品にしても、求請品にしても回賜別福と云ふ先方の返礼品や歳賜米にしても、交換率まで決めた官営貿易であつた。又物々交換を前提とする民間貿易も、日本人の朝鮮滞在中の糧米供給にしても、皆それらの貿易代金決済済みの枠と比率のうちで行はれて居る。そこで如何なるものがその輸出入品であつたかと言へば、対馬から銅鉄、鑞鉄(錫と鉛の合金・はんだ)、丹木、明礬(みょうばん)、日本朱、紋紙、黒角(黒い水牛の角)工芸品等で、朝鮮側から主として木綿、米、大豆、小豆、人参等であつた。然るに時代の降るに随つて、木綿の質が下がり、寸法をごまかし、又米の中に砂や石を交へたり、水を加へて桝目をふやしたり、甚だしいのは渡すべき米を渡さないので、享保十三年に書かれた対馬側の文献をみると「二十ケ年程の間、未収二万俵に及び、埒(らち)明き申さず」などと書いてある。是等の取引はすべて朝鮮に於ける和館で行はれた。それは単に商売の形式でなく、外交的儀礼と秩序の上に行はれてゐたのは面白く、官営貿易の面目躍如たるものがある。(中略)しかし如何なる角度から研究しても対馬が朝鮮の所属であつたと言ふ結論は出ないのである。
対馬の件で李承晩大統領には、自国民が呆れるほどの粗雑な歴史知識しかないということが露呈したわけだが、竹島の領有を強硬に主張したのもこの大統領だ。これまた怪しげな歴史知識から言い出したのではないだろうか。
これは メッセージ 113179 (kurakurashichau さん)への返信です.