歴史捏造はこのようにしてなされた
投稿者: fabyondarone 投稿日時: 2004/03/28 10:55 投稿番号: [113184 / 232612]
かば韓国女????
韓国人が「対馬は韓国の領土である」と主張し始めたのは戦後の李承晩大統領からで、その時は自国民からも否定されていたのだ。
「朝鮮新話」 鎌田沢一郎 昭和25年 創元社
(灰色文字は管理人注)
対馬と朝鮮
玄界灘のこの一孤島が、韓国の独立とその動乱のため、最近改めて世界の注目を浴びるに至り、日本の国境としての役割も、また仲々重大になつて来た。それには左の四つの要因がある。
1、大韓民国建国早々、李承晩大統領は、対馬はもと韓国の領土だから、日本から返還して貰ふつもりだと言ふ突如たる声明。
2、北鮮軍の軍隊訓練スローガンに「朝鮮を制するものはアジアを制す」「次に対馬から日本へ」などとあることが伝へられ、南北いづれの政権も独立後の海外発展策として、対馬を窺ふやに感ぜられたこと。
(中略)
李承晩大統領が、賠償金とともに対馬を要求したことは、いたく日本人を刺戟して今日に及んで居る。(中略)しかしこれらの戦争犠牲を差引きしても、朝鮮と日本との場合はその方針はあくまで搾取ではなくて培養であつただけに朝鮮側のプラスは大きい。併合前と最近の写真を比較してみれば、あらゆる面に於いて一見明瞭である。それが戦勝国と同じに賠償とは何だ――と云ふのが日本側の主張である。
さらに対馬が韓国の領土であつたなどとの証跡が歴史的にも全然ない。このことは李承晩大統領の突然の声明に、まづ韓国側が驚き、韓国新聞界の論調も、軽率なる大統領の声明を責めること頗る急であつて議会では問題となり、委員会を作つてこれを調査することとなつた。そこで議員数名と、野の学者崔南善などを加へて、対馬が韓国の領土たりしことありしや、否やを慎重捜査したが、全然かかる証跡はないのみか、日本の倭寇に先んじて彼の地より刀伊の賊がしばしば対馬に侵入し…(中略・元寇に言及)…かかる大事件とともに、対馬は古来より、日鮮間の連鎖となつて外交上に重要な位置をずつと占めてゐたのである。
今は二つに分かれてゐる島ももとは一つであつた。それを人工で開鑿(かいさく)して島を二つに割つたことこそ、対馬が昔から日本のものであり、且は又日鮮間に於ける外交交渉、ひいては一朝朝鮮と事ある場合に備へる措置であつたことを歴史は明確に証明して居る。即ち対馬における大事件は、東岸ではなくていつも西岸に起こるのであつた。前記倭寇の場合も、又その前の刀伊の賊や、慶尚道元師朴○の政略、李従茂の侵入等その他の諸事件も、大抵は朝鮮側の積極的攻撃が基本となつてゐるのである。そこで寛文十二年、時の対馬守宗義真が徳川幕府に申請許可をうけて志賀○広に工事監督を命じ、三万五千人の人夫を使つて、約二百日間に仕上げたのが浅海(浅茅)湾東端の「大船越の掘割」である。即ち首都のある東岸から西岸へ最も速やかに且能率的に出る近道を作つたのであつて、島を二つに割る目的ではなかつたのである。(○の漢字は表示できず)
首都は古来から東岸のみであつた。それは日本本土との連絡上必然的な結論であり、島としての地勢、環境を考へての選択ではなかつた。時の主権者によつて若干の奠都(てんと・都をさだめる)は行なはれてゐるが、いつもそれは日本に近い東岸のみである。初め今日の厳原(いづはら)附近が早くも首府となり、応永の頃宗貞茂は北方佐賀に都を移し、文明年間宗貞国は厳原附近の中村に還り、亨禄元年宗将盛は全石城(金石城?)に居た。寛文六年宗義真の時に棧原に居し、これを府中と云ひ、明治維新ののち厳原と改名したのであつて、いづれも日本への最短距離東海岸に存在すること申すまでもない。日清役ののち、日本海防衛の必要上、軍艦を通すべき水路開鑿の必要に迫られ、新しく「万関越の掘割」をつくつて、東西海岸間の軍事的交通の便ををひらき、これによつて日本本土との連絡は一層緊密を加へて行つたのである。
(中略)
韓国人が「対馬は韓国の領土である」と主張し始めたのは戦後の李承晩大統領からで、その時は自国民からも否定されていたのだ。
「朝鮮新話」 鎌田沢一郎 昭和25年 創元社
(灰色文字は管理人注)
対馬と朝鮮
玄界灘のこの一孤島が、韓国の独立とその動乱のため、最近改めて世界の注目を浴びるに至り、日本の国境としての役割も、また仲々重大になつて来た。それには左の四つの要因がある。
1、大韓民国建国早々、李承晩大統領は、対馬はもと韓国の領土だから、日本から返還して貰ふつもりだと言ふ突如たる声明。
2、北鮮軍の軍隊訓練スローガンに「朝鮮を制するものはアジアを制す」「次に対馬から日本へ」などとあることが伝へられ、南北いづれの政権も独立後の海外発展策として、対馬を窺ふやに感ぜられたこと。
(中略)
李承晩大統領が、賠償金とともに対馬を要求したことは、いたく日本人を刺戟して今日に及んで居る。(中略)しかしこれらの戦争犠牲を差引きしても、朝鮮と日本との場合はその方針はあくまで搾取ではなくて培養であつただけに朝鮮側のプラスは大きい。併合前と最近の写真を比較してみれば、あらゆる面に於いて一見明瞭である。それが戦勝国と同じに賠償とは何だ――と云ふのが日本側の主張である。
さらに対馬が韓国の領土であつたなどとの証跡が歴史的にも全然ない。このことは李承晩大統領の突然の声明に、まづ韓国側が驚き、韓国新聞界の論調も、軽率なる大統領の声明を責めること頗る急であつて議会では問題となり、委員会を作つてこれを調査することとなつた。そこで議員数名と、野の学者崔南善などを加へて、対馬が韓国の領土たりしことありしや、否やを慎重捜査したが、全然かかる証跡はないのみか、日本の倭寇に先んじて彼の地より刀伊の賊がしばしば対馬に侵入し…(中略・元寇に言及)…かかる大事件とともに、対馬は古来より、日鮮間の連鎖となつて外交上に重要な位置をずつと占めてゐたのである。
今は二つに分かれてゐる島ももとは一つであつた。それを人工で開鑿(かいさく)して島を二つに割つたことこそ、対馬が昔から日本のものであり、且は又日鮮間に於ける外交交渉、ひいては一朝朝鮮と事ある場合に備へる措置であつたことを歴史は明確に証明して居る。即ち対馬における大事件は、東岸ではなくていつも西岸に起こるのであつた。前記倭寇の場合も、又その前の刀伊の賊や、慶尚道元師朴○の政略、李従茂の侵入等その他の諸事件も、大抵は朝鮮側の積極的攻撃が基本となつてゐるのである。そこで寛文十二年、時の対馬守宗義真が徳川幕府に申請許可をうけて志賀○広に工事監督を命じ、三万五千人の人夫を使つて、約二百日間に仕上げたのが浅海(浅茅)湾東端の「大船越の掘割」である。即ち首都のある東岸から西岸へ最も速やかに且能率的に出る近道を作つたのであつて、島を二つに割る目的ではなかつたのである。(○の漢字は表示できず)
首都は古来から東岸のみであつた。それは日本本土との連絡上必然的な結論であり、島としての地勢、環境を考へての選択ではなかつた。時の主権者によつて若干の奠都(てんと・都をさだめる)は行なはれてゐるが、いつもそれは日本に近い東岸のみである。初め今日の厳原(いづはら)附近が早くも首府となり、応永の頃宗貞茂は北方佐賀に都を移し、文明年間宗貞国は厳原附近の中村に還り、亨禄元年宗将盛は全石城(金石城?)に居た。寛文六年宗義真の時に棧原に居し、これを府中と云ひ、明治維新ののち厳原と改名したのであつて、いづれも日本への最短距離東海岸に存在すること申すまでもない。日清役ののち、日本海防衛の必要上、軍艦を通すべき水路開鑿の必要に迫られ、新しく「万関越の掘割」をつくつて、東西海岸間の軍事的交通の便ををひらき、これによつて日本本土との連絡は一層緊密を加へて行つたのである。
(中略)
これは メッセージ 113179 (kurakurashichau さん)への返信です.