これからもやる気か!
投稿者: fabyondarone 投稿日時: 2004/02/24 21:36 投稿番号: [108632 / 232612]
暴動は彼ら自身が認めています
「韓国・朝鮮人と日本人」 若槻泰雄 89年 原書房
「朝連」と日本共産党
一般犯罪のほかに、在日朝鮮人に対する日本人の嫌悪感、警戒感を強めさせたものに、北鮮系の活発な政治運動がある。在日朝鮮人は終戦の秋10月、「在日朝鮮人連盟」という自治団体を結成した。この団体は、当時在日朝鮮人社会の最大の問題であった本国への引揚げを主とし、日本人、朝鮮人間の摩擦防止、同胞の福利厚生などを目的としたもので、当初は社会事業団体的性格をおびたものであったという。しかし、徳田球一、金天海らの日本共産党幹部らの政治犯がいっせいに出獄してこれを指導するにおよび、「朝連」は急速に民族主義運動、さらには革命的、暴力的傾向に傾斜していった。もともと、朝鮮独立運動と日本共産党との関係は戦前から深いものがあった。労働者の解放、植民地の解放、そしてその連帯をモットーとする国際共産主義運動は、第二次大戦後各国植民地の独立運動に多くの実例を見るように、植民地解放運動に甚大な影響力をもっていた。日本共産党の綱領にも「(日本のすべての)植民地の完全独立」がうたわれていた。日本の革命と朝鮮の独立は一体のものと理論づけられていたのである。
「朝連」の左傾に反対するものは、これを離脱して、この年11月、「朝鮮建設促進青年同盟」を結成した。翌46年11月には「在日朝鮮居留民団」と改称し、今日の、在日本大韓民国居留民団へと発展した。しかし当初は「民団」の勢力は徴々たるもので、「朝連」は在日朝鮮人の7〜80%を占め、強力な活動を展開した。だが暴力的不法事件を続発させたため、「暴力主義団体」として、1949年9月には「団体等規制令」によって解散させられ、金天海はじめ主要幹部は公職追放処分となって表面から姿を消した。組織の基盤を失なった左翼系在日朝鮮人は1950年6月、折から勃発した朝鮮戦争を契機に、「祖国防衛中央委員会」と、その戦闘的実動部隊として「祖国防衛隊」を各地に設け、翌1951年1月には「在日朝鮮統一民主戦線」(略称「民戦」)を結成した。「民戦」は日本共産党の完全な指導下に、「反米」「反吉田内閣」「反再軍備」の三反戦術を唱導し、その綱領自体にも「日本の主権打倒」をかかげたのである。1951〜52年の日本共産党の極左武力闘争では、「民戦」=在日朝鮮人は常にその突撃隊の役割を果たしたといわれる。『法務研究』にのった森田芳夫氏の論稿によると、1952年だけで北鮮系の日本警察に対する不法行為は134件にのぼり、当時「日本の国民の在日朝鮮人に対する警戒心は異常に高まった」のである。
騒動の自認
だが朝総連系の朝鮮人はこれらの騒擾(そうじょう)事件、反日運動を、日本の警察のデッチアゲと反論する。そこで彼らの機関紙(誌)の中から、暴動騒乱を彼ら自ら立証する、いくつかの記事の「見出し」などを掲げておこう。
「新朝鮮」(祖国防衛中央委員会の機関誌から)
○ 弾薬輸送列車を妨害
○ 軍需工場基地に果敢な工作 西日本全域で祖防闘争激発 竹槍で6里のデモ (1952.3.30)
○ 神奈川で税務署、軍倉庫を焼打ち!! (1952.4.15)
○ 某町では、警察署長に先制攻撃をかけ、警察署の机を、持っていた斧でたたきながら……
婦人たちも米原駅公安室に押しかけて公安官のネクタイを締め上げながら、「お前達が強制追放列車を送り、武器輸送を護衛するけだもの野郎だ……」と吊るし上げた。(1952.5.20)
○ (警官は)吊るし上げられ、コソコソと逃げ出した。これをみた一同胞青年は、「逃がしてたまるか」と4町も追いかけ、奴らをどぶの中に突き落とし、上から馬乗りになってコテンコテンに叩きのばした。一方、同胞は夜、約50名が本署に押しかけ…… (1952.7.5)
○ 火炎ビン飛ぶ中で大村収容所を再攻撃
○ 所長の顔は傷だらけ 目黒婦人実力で愛国者奪還 (1952.7.15)
○ 雨をついて枚方兵器廠に進出 2000トンプレスを爆破 (1952.7.20)
「韓国・朝鮮人と日本人」 若槻泰雄 89年 原書房
「朝連」と日本共産党
一般犯罪のほかに、在日朝鮮人に対する日本人の嫌悪感、警戒感を強めさせたものに、北鮮系の活発な政治運動がある。在日朝鮮人は終戦の秋10月、「在日朝鮮人連盟」という自治団体を結成した。この団体は、当時在日朝鮮人社会の最大の問題であった本国への引揚げを主とし、日本人、朝鮮人間の摩擦防止、同胞の福利厚生などを目的としたもので、当初は社会事業団体的性格をおびたものであったという。しかし、徳田球一、金天海らの日本共産党幹部らの政治犯がいっせいに出獄してこれを指導するにおよび、「朝連」は急速に民族主義運動、さらには革命的、暴力的傾向に傾斜していった。もともと、朝鮮独立運動と日本共産党との関係は戦前から深いものがあった。労働者の解放、植民地の解放、そしてその連帯をモットーとする国際共産主義運動は、第二次大戦後各国植民地の独立運動に多くの実例を見るように、植民地解放運動に甚大な影響力をもっていた。日本共産党の綱領にも「(日本のすべての)植民地の完全独立」がうたわれていた。日本の革命と朝鮮の独立は一体のものと理論づけられていたのである。
「朝連」の左傾に反対するものは、これを離脱して、この年11月、「朝鮮建設促進青年同盟」を結成した。翌46年11月には「在日朝鮮居留民団」と改称し、今日の、在日本大韓民国居留民団へと発展した。しかし当初は「民団」の勢力は徴々たるもので、「朝連」は在日朝鮮人の7〜80%を占め、強力な活動を展開した。だが暴力的不法事件を続発させたため、「暴力主義団体」として、1949年9月には「団体等規制令」によって解散させられ、金天海はじめ主要幹部は公職追放処分となって表面から姿を消した。組織の基盤を失なった左翼系在日朝鮮人は1950年6月、折から勃発した朝鮮戦争を契機に、「祖国防衛中央委員会」と、その戦闘的実動部隊として「祖国防衛隊」を各地に設け、翌1951年1月には「在日朝鮮統一民主戦線」(略称「民戦」)を結成した。「民戦」は日本共産党の完全な指導下に、「反米」「反吉田内閣」「反再軍備」の三反戦術を唱導し、その綱領自体にも「日本の主権打倒」をかかげたのである。1951〜52年の日本共産党の極左武力闘争では、「民戦」=在日朝鮮人は常にその突撃隊の役割を果たしたといわれる。『法務研究』にのった森田芳夫氏の論稿によると、1952年だけで北鮮系の日本警察に対する不法行為は134件にのぼり、当時「日本の国民の在日朝鮮人に対する警戒心は異常に高まった」のである。
騒動の自認
だが朝総連系の朝鮮人はこれらの騒擾(そうじょう)事件、反日運動を、日本の警察のデッチアゲと反論する。そこで彼らの機関紙(誌)の中から、暴動騒乱を彼ら自ら立証する、いくつかの記事の「見出し」などを掲げておこう。
「新朝鮮」(祖国防衛中央委員会の機関誌から)
○ 弾薬輸送列車を妨害
○ 軍需工場基地に果敢な工作 西日本全域で祖防闘争激発 竹槍で6里のデモ (1952.3.30)
○ 神奈川で税務署、軍倉庫を焼打ち!! (1952.4.15)
○ 某町では、警察署長に先制攻撃をかけ、警察署の机を、持っていた斧でたたきながら……
婦人たちも米原駅公安室に押しかけて公安官のネクタイを締め上げながら、「お前達が強制追放列車を送り、武器輸送を護衛するけだもの野郎だ……」と吊るし上げた。(1952.5.20)
○ (警官は)吊るし上げられ、コソコソと逃げ出した。これをみた一同胞青年は、「逃がしてたまるか」と4町も追いかけ、奴らをどぶの中に突き落とし、上から馬乗りになってコテンコテンに叩きのばした。一方、同胞は夜、約50名が本署に押しかけ…… (1952.7.5)
○ 火炎ビン飛ぶ中で大村収容所を再攻撃
○ 所長の顔は傷だらけ 目黒婦人実力で愛国者奪還 (1952.7.15)
○ 雨をついて枚方兵器廠に進出 2000トンプレスを爆破 (1952.7.20)
これは メッセージ 108630 (kimu_cyoson さん)への返信です.