朝鮮通信使、実は朝鮮朝貢使?
投稿者: mutekinozerosen 投稿日時: 2004/01/18 22:23 投稿番号: [102018 / 232612]
朝鮮通信使は慶長12年から(1607年)から文化8年(1811年)まで、12回に及びました。朝鮮の首都漢城を出発して、対馬を経て下関から瀬戸内を航海し、大坂港に上陸、東海道を通り、江戸城で将軍に謁見、朝鮮国王の国書とともに陶磁器や朝鮮人参、虎や表の毛皮などの贈物を届けたとされています。家光からは特に馬上才(馬の曲芸:馬上の逆立ちや立ち乗りなど)の希望があり、銀や宝物が与えられたということです。
通信使一行に文人や画家が同行し、日本の庶民や武士あるいは文人などが一行に書画を懇望し、夜が明けるまで引きもきらず書き綴ったということはよく知られています。一行の街道での饗応は各藩が受け持ち、大変な物入りだったようです。一度の通信使に全国で100万両が遣われたといい、各藩にとっては大変な負担でしたが、参勤交代と同じく、幕府からすれば各藩の財力を削ぐための有効な手段だったかもしれません。
各藩が通信使の接待に最も心を配ったのは言うまでもなく食事です。対馬藩が朝鮮人の好物を知っており、各藩はリストを取り寄せ準備したといいます。彼らの好物は「牛・猪・鹿・家猪(ぶた)・鶏・雉・鯛・鮑・鱈」など。通信使の好物の牛の内臓の調理方法の記録がありますので紹介します(いわゆるホルモン焼きなど)。
肉を薄手に切りて小串にさし、油、醤油にてあぶる。胡椒の粉を少しふりてよし。又ゆで牛の時は、肉並びに肝、大小腸をよくゆもして程よく切り、皿に盛り、
百葉(内臓)彼の国の人賞味のものなり、胃に黒き簾毛のようなるものあり、これを剥ぎ去りて白きを取りて千に切り、百様もしかり、皿盛合辛子酢ちょく入れて付べし、
肋アバラ也 彼国にてカルビといふて賞味する物なり。長さ三寸程宛てに切り、肋に付たる肉少し宛有るこの肉を五分程宛に切れ目いれ、油、醤油にてよくあぶり、
通信使は李氏朝鮮が興ってから定期的に行われていたようです。室町幕府は60回使いを送り、朝鮮からは瀬戸内の航路が安全でなかったため、三回だけ使いが訪れたそうです。文禄慶長の役で一時中断したものの、将軍の代替わりに再び派遣されるようになりました。
以上「朝鮮通信使の旅日記」より 辛基秀 PHP文庫
朝鮮通信使は日朝友好の象徴として説かれていますが、はたして本当に対等な友好親善関係であったか疑問に思っていました。通信使は朝鮮からの一方的な使いで、幕府から返答使が派遣されたこともなく、費用も全てが日本持ちででした。室町幕府は朝鮮へのほぼ一方的な使いだったのに対し、文禄慶長の役を経て朝鮮からは逆に一方的な使いが訪れるようになります。朝鮮は当時の清への対抗もあり、日本への朝貢とは正確ではないとしても、日本と誼を通じておく必要性を強く感じていたと思います。シナ大陸に反朝鮮的な王朝が成立すると、日本に近づこうとする傾向がある。これは現在に通じることではないでしょうか。
尾張の役人が通信使一行の食事の様子を記録に残していますが、ある者は足を投げ出し、他の者の食膳に箸を入れて食べていたそうです。また正使,副使の次の上々官といえども鼻をかむのに紙を使わなかった(手鼻?)ともあります。牛の内臓やカルビなど、上記のような朝鮮料理には主膳係りといえども、抵抗があったのではないでしょうか。通信使は物珍しさもあって確かに歓迎されたでしょうが、他国の国王が幕府への国書を届ける使いであってみれば、各藩が気を使うのも当然でしょう。先方からすれば各地で歓迎を受け、気分よくなるのは当然のことです。
今までの朝鮮通信使を別の見方をするリンクがありましたので紹介します。
『 このように朝鮮通信使とは、国王から見れば格下の将軍を相手に、対等以下の付き合いをしていたものであり、韓国人の誇大妄想史観の観点から見ると、決して喜んで再現の仮装行列をするほどのものではないと思います。韓国の学生たちが演じる仮装行列で、徳川将軍に拝謁する場面が省略されているのは、彼らもうすうすそれを感じ取っているからだと思います。』
http://www.kcn.ne.jp/~ca001/D71.htm
通信使一行に文人や画家が同行し、日本の庶民や武士あるいは文人などが一行に書画を懇望し、夜が明けるまで引きもきらず書き綴ったということはよく知られています。一行の街道での饗応は各藩が受け持ち、大変な物入りだったようです。一度の通信使に全国で100万両が遣われたといい、各藩にとっては大変な負担でしたが、参勤交代と同じく、幕府からすれば各藩の財力を削ぐための有効な手段だったかもしれません。
各藩が通信使の接待に最も心を配ったのは言うまでもなく食事です。対馬藩が朝鮮人の好物を知っており、各藩はリストを取り寄せ準備したといいます。彼らの好物は「牛・猪・鹿・家猪(ぶた)・鶏・雉・鯛・鮑・鱈」など。通信使の好物の牛の内臓の調理方法の記録がありますので紹介します(いわゆるホルモン焼きなど)。
肉を薄手に切りて小串にさし、油、醤油にてあぶる。胡椒の粉を少しふりてよし。又ゆで牛の時は、肉並びに肝、大小腸をよくゆもして程よく切り、皿に盛り、
百葉(内臓)彼の国の人賞味のものなり、胃に黒き簾毛のようなるものあり、これを剥ぎ去りて白きを取りて千に切り、百様もしかり、皿盛合辛子酢ちょく入れて付べし、
肋アバラ也 彼国にてカルビといふて賞味する物なり。長さ三寸程宛てに切り、肋に付たる肉少し宛有るこの肉を五分程宛に切れ目いれ、油、醤油にてよくあぶり、
通信使は李氏朝鮮が興ってから定期的に行われていたようです。室町幕府は60回使いを送り、朝鮮からは瀬戸内の航路が安全でなかったため、三回だけ使いが訪れたそうです。文禄慶長の役で一時中断したものの、将軍の代替わりに再び派遣されるようになりました。
以上「朝鮮通信使の旅日記」より 辛基秀 PHP文庫
朝鮮通信使は日朝友好の象徴として説かれていますが、はたして本当に対等な友好親善関係であったか疑問に思っていました。通信使は朝鮮からの一方的な使いで、幕府から返答使が派遣されたこともなく、費用も全てが日本持ちででした。室町幕府は朝鮮へのほぼ一方的な使いだったのに対し、文禄慶長の役を経て朝鮮からは逆に一方的な使いが訪れるようになります。朝鮮は当時の清への対抗もあり、日本への朝貢とは正確ではないとしても、日本と誼を通じておく必要性を強く感じていたと思います。シナ大陸に反朝鮮的な王朝が成立すると、日本に近づこうとする傾向がある。これは現在に通じることではないでしょうか。
尾張の役人が通信使一行の食事の様子を記録に残していますが、ある者は足を投げ出し、他の者の食膳に箸を入れて食べていたそうです。また正使,副使の次の上々官といえども鼻をかむのに紙を使わなかった(手鼻?)ともあります。牛の内臓やカルビなど、上記のような朝鮮料理には主膳係りといえども、抵抗があったのではないでしょうか。通信使は物珍しさもあって確かに歓迎されたでしょうが、他国の国王が幕府への国書を届ける使いであってみれば、各藩が気を使うのも当然でしょう。先方からすれば各地で歓迎を受け、気分よくなるのは当然のことです。
今までの朝鮮通信使を別の見方をするリンクがありましたので紹介します。
『 このように朝鮮通信使とは、国王から見れば格下の将軍を相手に、対等以下の付き合いをしていたものであり、韓国人の誇大妄想史観の観点から見ると、決して喜んで再現の仮装行列をするほどのものではないと思います。韓国の学生たちが演じる仮装行列で、徳川将軍に拝謁する場面が省略されているのは、彼らもうすうすそれを感じ取っているからだと思います。』
http://www.kcn.ne.jp/~ca001/D71.htm
これは メッセージ 1 (mitokoumon_2002 さん)への返信です.