ケース・スダディ
投稿者: yayoijin_matsuei 投稿日時: 2004/01/12 19:46 投稿番号: [100360 / 232612]
「情報操作」の構図。
いわゆる「強制連行」(まがい)の背景について先のNo.100098で触れた。
『要するに、日米開戦後、戦局が厳しくなって来て、前線の兵士の死傷が多くなって
来た。兵士を補充しなければならない。それで、炭鉱の採炭現場、建設労働者、いずれも男子、を
兵隊として送り出す。
それらの生産は落とせない。そのための穴埋めが主体です。
従って、日米開戦前の昭和16年以前にはその必要は全くない。
戦局が厳しくなって、どんどん、内地の男子労働者が兵士として送り出されて労働力
不足になって、朝鮮からの労働力「移入」が必要になって「募集」→「官斡旋」
→「徴用」と強化されてきた。』
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?action=m&board=1143583&tid=beaec0tbcsaja4nkacdaba4h2ddbja4ka4da 4a4a4fa1ya1ya1ya1ya1y&sid=1143583&mid=100098
時期別にその特徴を整理すると、
・第一段階:「募集」(制)は、1939年9月〜
A期 日米開戦:1941年12月)以前
一種の整理のようなもの。「人集め」の必要性は低い。
B期 (日米開戦:1941年12月)以後
戦闘の進行に伴い兵員の死傷が発生し、徐々に「人集め」の必要性が高まる。
・第二段階:「官斡旋」は、1942年2月〜
いよいよ、「人集め」の需要が高まっていく。この時期の後期には相当な強い必要が生じる。
・第三段階:「徴用」は、1944年9月〜
この段階は、「徴用」だからかなりの強制力があったか。
この順に「人集め」は厳しくなる。
そこで、「強制連行」があったとする側、なかったとする側、いずれも、自己の証明として
どの時期の出来事を提示しているかは、その主張の正否を判断する重要な目安になる。
即ち、
・「あった」とする側が、例えば日米開戦時期(1941/12)以前の出来事を例として上げていれば、
それは、極めて根拠薄弱、捏造とも疑われる。
・「なかった」とする側が、上と同じ時期(1941/12以前)の出来事を状況証拠としてあげて
いれば、これは、「ナンセンス」である。
そういう視点(リトマス試験紙)から、先に投稿された一例を見る。
No.99930
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=NW&board=1143583&tid=beaec0tbcsaja4nkacdaba4h2ddbja4ka4da 4a4a4fa1ya1ya1ya1ya1y&sid=1143583&action=m&mid=99930&mid=
この中に、そういうことは「なかった」という補強・状況証拠として以下の多数の新聞記事が要約
されている。
>>>
戦前の新聞記事見出しより
『四百廿余名の密航鮮人/内地へ続々と侵入』 福岡日日 1938/1/30
『福岡沿岸に密航鮮人頻々/ブローカーと連絡/本年に入つて五百名』 福岡日日 1938/3/3
『また密航鮮人/西戸崎で六十五名逮捕』 福岡日日 1938/3/3
『密航鮮人四十名西戸崎に上陸(粕屋郡志賀島村)』 福岡日日 1938/3/29
『密航鮮人団上陸/トラック運転手の気転で大半は逮捕される(遠賀郡水巻村)』 福岡日日 1938/5/2
『鮮人の内地密航あの手この手/驚くべき大胆な玄海突破や九ヶ月苦心の方法』 神戸新聞 1938/5/21
『鮮人十五名が小倉へ密航(小倉市)』 福岡日日 1938/7/24
『密航鮮人団四十二名 悉く逮捕さる(宗像郡津屋崎町)』 福岡日日 1938/8/26
『・こ奴怪しい・六感的中/果して密航半島人!/海田市署の槍玉へ』 中国 1938/9/1
(途中、8件、省略)
『密航はしたけれど/途方に暮れる気の毒な鮮人/今度は逆戻り失敗(兵庫)』 神戸又新日報 1939/6/20 夕
『密航青年を半島へ送還(兵庫協和会)』 大阪毎日 1939/6/20 神版
『全面的検挙は困難/県の密航鮮人狩り/今後は取締りを厳重に』 中国 1939/11/30
『手荷物の箱詰め人間/密航?の半島人、小倉で発見さる』 大阪毎日 1940/1/14 夕 >>>
この21件は、すべて、1938/1から、1940/1までの出来事である。
「募集」以前の出来事が21件中、19件。
「募集」の前期にあたるのが、残りの2件である。
日米開戦(1941/12)の時期から見ても約2年前までの出来事である。
この時期は、上に書いたように、「人集め」の必要性の低い時期である。
結論として、これらのデータは、この件の状況を説明する何の意味も無い、「ナンセンス」な<
いわゆる「強制連行」(まがい)の背景について先のNo.100098で触れた。
『要するに、日米開戦後、戦局が厳しくなって来て、前線の兵士の死傷が多くなって
来た。兵士を補充しなければならない。それで、炭鉱の採炭現場、建設労働者、いずれも男子、を
兵隊として送り出す。
それらの生産は落とせない。そのための穴埋めが主体です。
従って、日米開戦前の昭和16年以前にはその必要は全くない。
戦局が厳しくなって、どんどん、内地の男子労働者が兵士として送り出されて労働力
不足になって、朝鮮からの労働力「移入」が必要になって「募集」→「官斡旋」
→「徴用」と強化されてきた。』
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?action=m&board=1143583&tid=beaec0tbcsaja4nkacdaba4h2ddbja4ka4da 4a4a4fa1ya1ya1ya1ya1y&sid=1143583&mid=100098
時期別にその特徴を整理すると、
・第一段階:「募集」(制)は、1939年9月〜
A期 日米開戦:1941年12月)以前
一種の整理のようなもの。「人集め」の必要性は低い。
B期 (日米開戦:1941年12月)以後
戦闘の進行に伴い兵員の死傷が発生し、徐々に「人集め」の必要性が高まる。
・第二段階:「官斡旋」は、1942年2月〜
いよいよ、「人集め」の需要が高まっていく。この時期の後期には相当な強い必要が生じる。
・第三段階:「徴用」は、1944年9月〜
この段階は、「徴用」だからかなりの強制力があったか。
この順に「人集め」は厳しくなる。
そこで、「強制連行」があったとする側、なかったとする側、いずれも、自己の証明として
どの時期の出来事を提示しているかは、その主張の正否を判断する重要な目安になる。
即ち、
・「あった」とする側が、例えば日米開戦時期(1941/12)以前の出来事を例として上げていれば、
それは、極めて根拠薄弱、捏造とも疑われる。
・「なかった」とする側が、上と同じ時期(1941/12以前)の出来事を状況証拠としてあげて
いれば、これは、「ナンセンス」である。
そういう視点(リトマス試験紙)から、先に投稿された一例を見る。
No.99930
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=NW&board=1143583&tid=beaec0tbcsaja4nkacdaba4h2ddbja4ka4da 4a4a4fa1ya1ya1ya1ya1y&sid=1143583&action=m&mid=99930&mid=
この中に、そういうことは「なかった」という補強・状況証拠として以下の多数の新聞記事が要約
されている。
>>>
戦前の新聞記事見出しより
『四百廿余名の密航鮮人/内地へ続々と侵入』 福岡日日 1938/1/30
『福岡沿岸に密航鮮人頻々/ブローカーと連絡/本年に入つて五百名』 福岡日日 1938/3/3
『また密航鮮人/西戸崎で六十五名逮捕』 福岡日日 1938/3/3
『密航鮮人四十名西戸崎に上陸(粕屋郡志賀島村)』 福岡日日 1938/3/29
『密航鮮人団上陸/トラック運転手の気転で大半は逮捕される(遠賀郡水巻村)』 福岡日日 1938/5/2
『鮮人の内地密航あの手この手/驚くべき大胆な玄海突破や九ヶ月苦心の方法』 神戸新聞 1938/5/21
『鮮人十五名が小倉へ密航(小倉市)』 福岡日日 1938/7/24
『密航鮮人団四十二名 悉く逮捕さる(宗像郡津屋崎町)』 福岡日日 1938/8/26
『・こ奴怪しい・六感的中/果して密航半島人!/海田市署の槍玉へ』 中国 1938/9/1
(途中、8件、省略)
『密航はしたけれど/途方に暮れる気の毒な鮮人/今度は逆戻り失敗(兵庫)』 神戸又新日報 1939/6/20 夕
『密航青年を半島へ送還(兵庫協和会)』 大阪毎日 1939/6/20 神版
『全面的検挙は困難/県の密航鮮人狩り/今後は取締りを厳重に』 中国 1939/11/30
『手荷物の箱詰め人間/密航?の半島人、小倉で発見さる』 大阪毎日 1940/1/14 夕 >>>
この21件は、すべて、1938/1から、1940/1までの出来事である。
「募集」以前の出来事が21件中、19件。
「募集」の前期にあたるのが、残りの2件である。
日米開戦(1941/12)の時期から見ても約2年前までの出来事である。
この時期は、上に書いたように、「人集め」の必要性の低い時期である。
結論として、これらのデータは、この件の状況を説明する何の意味も無い、「ナンセンス」な<
これは メッセージ 99966 (yayoijin_matsuei さん)への返信です.