日の丸フェチの変態卒業式④
投稿者: asd012lkf 投稿日時: 2004/03/19 14:41 投稿番号: [3430 / 52541]
[文化記号学]
上記に示した三つのフェティシズム論は,それぞれ程度の差こそあれ,西欧の形而上学と自然科学に通底する実体論的発想から完全には逃れていないところに問題を残している。プラトン以来の伝統である絶対的な真理やロゴスへの信仰は,すべて真/偽,善/悪,正/邪などという二項対立から生まれる〈本物志向〉であった。たとえば心理学で言うフェティシズムを説明する際にきまってもち出されるのが,その対象である靴下や肌着は〈自然的世界観(M. シェーラー)における靴下や肌着でない〉という異常性である。つまりは,フェティシズム的傾向がことごとく正常な愛の現実にそなわる〈汝〉という形態から逸脱しているという見方でしかない。そうした問題の立て方,解明の仕方は,無垢な生理的欲求を仮設する自然主義的人間学の実体論的パラダイムそのものである。いったい〈自然的世界観〉における道具とか衣服とは何か。また,文化の中に,はたして〈正常なる愛の現実〉が存在するのか。この欲求神話や実体論的思考は,先にあげた宗教学,経済学にも同じように見いだされる〈本物/偽物〉の図式を,疑うべからざる自明の前提として立てているのである。
宗教学でいうフェティシズムは,本物としての神に対する偶像(偽物)であった。そして経済学におけるフェティッシュも,自然的価値と考えられる生産物の〈使用価値〉の物在性(本物)を前提とした上での,商品がもつ〈交換価値〉の幻想性(偽物)であった。マルクスは,商品が本来的には生産物であり,さまざまな使用価値であるにもかかわらず,〈人間の意志を超えて動き出し人間を拘束する一つの観念形態となる〉ことを指摘し,その〈倒錯性〉を告発する。倒錯というからには,倒錯されざる本物がなくてはならないが,それこそ生産物自体が有する使用価値にほかならなかった。しかしながら,文化においては,人間の生理的欲求も,その欲求のかかわる事物の使用価値や生産労働も決して生(なま)のまま現れることはなく,交換価値と同じように,必ずやその社会・文化内の関係に媒介されて現れる。われわれが支配されているのは,単に市民社会において物象化し〈事物の非同一的・差異的モメント〉を隠戴しているかに見える商品の交換価値にとどまらず,使用価値自体が内在せしめている記号性,関係性でもあることを見逃すわけにはいかないだろう。
J. ボードリヤールは〈商品の論理が一般化し,今や労働過程や物質生産物だけではなく,文化全体,性行動,人間関係,幻覚,個人的欲動までを支配している〉(《消費社会の神話と構造》)のが現代の特殊性だという考え方を示しているが,事態はむしろその逆であって,太古から存在した〈文化のフェティシズム〉が,ある特定文化圏においてある時代以降,特に貨幣・商品のフェティシズムという形をとって顕在化しただけの話である。人間はシンボル化能力をもつと同時に実体から疎隔されシミュレーションの世界に入っている。文化においては,それがいかなる原始的形態といえども〈本物/偽物〉の図式は成立せず,すべては人工の用具の所産,つまりは言葉による認識の網によって分節された関係態にすぎない。
〈文化のフェティシズム〉とは,本能の生理的ゲシュタルトにはそもそも描かれていなかった非在物に意味を与える人間の意識(時間・空間意識,美意識,死生観,羞恥心,エロティシズムなど)の発生と,その意識が生み出す文化内のいっさいの関係(人と人,事物と事物,現象と現象)が物化され,擬似自然化される事態をさしており,商品,貨幣,権力にとどまらず,動物としての二大本能である食生活や性行為までが〈物神〉となって,これを崇拝する人間を支配するさまにほかならない。
以上のごとき射程をもつフェティシズム現象は,もはや産業革命以降の物質・技術文明がもたらした害悪のみを指すのではなく,前近代,中世はおろか古代,原始にさかのぼって人間の汎時的文化に見いだされる〈構造的・関係的同一性を実体的自己同一性に転化させる〉メカニズムである。したがって,これを解明するためには,狭義のエコノミーやリビドーという視点にとどまることなく,文化という共同幻想の根底にある自我と欲望を生み出すシンボル化能力そのものの本質を剔抉(てつけつ)する必要があるように思われる。⇒偶像崇拝‖物象化‖物神崇拝
(C) 1998-2002 Hitachi Systems & Services, Ltd. All rights reserved.
宗教学でいうフェティシズムは,本物としての神に対する偶像(偽物)であった。そして経済学におけるフェティッシュも,自然的価値と考えられる生産物の〈使用価値〉の物在性(本物)を前提とした上での,商品がもつ〈交換価値〉の幻想性(偽物)であった。マルクスは,商品が本来的には生産物であり,さまざまな使用価値であるにもかかわらず,〈人間の意志を超えて動き出し人間を拘束する一つの観念形態となる〉ことを指摘し,その〈倒錯性〉を告発する。倒錯というからには,倒錯されざる本物がなくてはならないが,それこそ生産物自体が有する使用価値にほかならなかった。しかしながら,文化においては,人間の生理的欲求も,その欲求のかかわる事物の使用価値や生産労働も決して生(なま)のまま現れることはなく,交換価値と同じように,必ずやその社会・文化内の関係に媒介されて現れる。われわれが支配されているのは,単に市民社会において物象化し〈事物の非同一的・差異的モメント〉を隠戴しているかに見える商品の交換価値にとどまらず,使用価値自体が内在せしめている記号性,関係性でもあることを見逃すわけにはいかないだろう。
J. ボードリヤールは〈商品の論理が一般化し,今や労働過程や物質生産物だけではなく,文化全体,性行動,人間関係,幻覚,個人的欲動までを支配している〉(《消費社会の神話と構造》)のが現代の特殊性だという考え方を示しているが,事態はむしろその逆であって,太古から存在した〈文化のフェティシズム〉が,ある特定文化圏においてある時代以降,特に貨幣・商品のフェティシズムという形をとって顕在化しただけの話である。人間はシンボル化能力をもつと同時に実体から疎隔されシミュレーションの世界に入っている。文化においては,それがいかなる原始的形態といえども〈本物/偽物〉の図式は成立せず,すべては人工の用具の所産,つまりは言葉による認識の網によって分節された関係態にすぎない。
〈文化のフェティシズム〉とは,本能の生理的ゲシュタルトにはそもそも描かれていなかった非在物に意味を与える人間の意識(時間・空間意識,美意識,死生観,羞恥心,エロティシズムなど)の発生と,その意識が生み出す文化内のいっさいの関係(人と人,事物と事物,現象と現象)が物化され,擬似自然化される事態をさしており,商品,貨幣,権力にとどまらず,動物としての二大本能である食生活や性行為までが〈物神〉となって,これを崇拝する人間を支配するさまにほかならない。
以上のごとき射程をもつフェティシズム現象は,もはや産業革命以降の物質・技術文明がもたらした害悪のみを指すのではなく,前近代,中世はおろか古代,原始にさかのぼって人間の汎時的文化に見いだされる〈構造的・関係的同一性を実体的自己同一性に転化させる〉メカニズムである。したがって,これを解明するためには,狭義のエコノミーやリビドーという視点にとどまることなく,文化という共同幻想の根底にある自我と欲望を生み出すシンボル化能力そのものの本質を剔抉(てつけつ)する必要があるように思われる。⇒偶像崇拝‖物象化‖物神崇拝
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これは メッセージ 3429 (asd012lkf_the_alien さん)への返信です.