朝鮮通信使 13
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/05/30 12:15 投稿番号: [313 / 402]
通信使一行は、尾張中納言宗勝の城下で既路に勝る饗応を受けたが、旅は佳境に入っており、先を予定通りに進めなければならない。早朝五時、対馬守自らあわただしく岡崎に急ぐ。通信使たちも遅れずに出立するようにと伝言を残した。
岡崎では信使到着後上使対面の儀式が催されることになっている。上使対面の儀とは、朝鮮国の訪問に対し徳川幕府が公式に受け入れを承諾し歓迎の意を表する公式セレモニーだ。江戸から既に三枝備中守が下向し待機している。対馬守が幕府の公使と朝鮮国通信使との式次第を仲介し、通訳も兼ねるのだ。
しかし外は雨模様、通信使の腰は重い。
「対馬藩士は困って色々と手を尽くして説得し、漸く了承して出発したのは牛の下刻(午後1時)であった」。予定より6時間も遅れている。
午後三時ごろ休憩所の鳴海に着く。ここに先行の対馬守から、上使対面のため速やかに出輿願いたいと重ねて伝言が入る。対面の儀式に間に合わないと責任問題なので対馬守はあせっているのがわかる。
しかし信使らはここで値打ちをつける。少しも急がずゆったりと休憩をとり、タバコをふかして歓談にかまけ、出立したのはすでに午後四時であった。しかもその後重ねて二度の休憩を取る。ゆうゆうたる大物振りというか、底意地の悪さを発揮する。
しかし降ったり止んだりしていた雨が先に進むにしたがって本降り、さらに土砂降りに変わった。日が暮れるころにはいよいよ荒れてまるで暴風雨の如くになる。三使の駕籠の中にも雨風は容赦なく吹きつけ、上使・下僕を問わず全員濡れ鼠状態になる。旧暦の五月九日というからちょうど今頃(下旬)の季節か、春とはいっても掘割の水もまだ冷たさの残る候である。提灯の灯も取れない暗夜を、体をくの字に曲げて冷たい風雨の中を突き進む600名もの行列、なんでこーなるの?
とまれ、無意味に大物ぶってはみたものの、その時間差のためなんとも惨めな状態に陥ってしまったのだ。着地の失敗は身から出た錆である。
たっぷりと雨水を含んだ衣服が体に重くまといつき、髪の毛は顔中にべったり張り付いてはなれない。冷雨は体の熱を奪い、一様に青白い形相になり果てた一行が幽鬼よろしく岡崎にたどり着いた時は、すでに午前三時になっていた。
「このような苦痛を味わったのは来日以来始めてである」と通信使は書き残す。
もちろん上使対面の儀は翌日(正確には本日)十時に持ち越された。
時間がない。通信使たちは衣服を着替えた後すぐに対面の儀の予行練習にせきたてられる。公式な場であるので席順、挨拶順、進物の交換など、細かく式次第が定められる。
やがて正装した上使三枝備中守が客館を訪ね、風折烏帽子の対馬守の取り持ちで式が始まる。式は無事終了したらしいが通信使たちはもうヘトヘトである。予定ではすぐに出立しなければならないのだが、数百名分の衣服もまだ乾いていない。そのうち三使の1人が、歯が痛いと言い出して寝込んでしまう。フテ寝であろう。
結局出発は翌日に延期された。
一晩寝て元気を回復した一行はパレードを再開する。回復力はあるようだ。
三河吉田(現西尾市あたり)、遠江浜松と泊まりを重ね掛川に着く。♪越すに越されぬ大井川♪ 五三次の難所だ。しかし列島はすでに雨季に入っている。
引用本にはその日その日の天気も記されているが、降ったり止んだりの典型的な梅雨模様である。大井川の水かさが増していて、一行はここで三晩留められる。川止めだ。
五月十五日早朝に対馬守から、水が引いたので早朝4時に出立するようにとの伝言が届く。四時に出発せよという対馬守の通達はいったい何時に来たことやら。寝る間も不十分のままたたき起こされた一行はあわただしく朝食をとり川辺に急ぐ。昼過ぎに大井河畔に着く。
「水は減ったというものの、肩が没するほどで流れも速い。」と信使は残す。
得別誂えの三使の輿には50人以上の人足が取り付いたというが、大半は一人乗りの輿か、総動員された川越え人足の肩車に一命を託した。もし人足が足を滑らせたら駿河湾までノンストップだ。恐怖のあまり発する彼らの声は、しかし腹の底から絞り出す人足の水唄と見物人の嬌声にかき消された。
「争って渡る声と激励の掛け声が周囲の町を振動させた」。両岸には遠江と駿河の国の両領民がパレード見物のため蝟集していたのだ。
つづく
岡崎では信使到着後上使対面の儀式が催されることになっている。上使対面の儀とは、朝鮮国の訪問に対し徳川幕府が公式に受け入れを承諾し歓迎の意を表する公式セレモニーだ。江戸から既に三枝備中守が下向し待機している。対馬守が幕府の公使と朝鮮国通信使との式次第を仲介し、通訳も兼ねるのだ。
しかし外は雨模様、通信使の腰は重い。
「対馬藩士は困って色々と手を尽くして説得し、漸く了承して出発したのは牛の下刻(午後1時)であった」。予定より6時間も遅れている。
午後三時ごろ休憩所の鳴海に着く。ここに先行の対馬守から、上使対面のため速やかに出輿願いたいと重ねて伝言が入る。対面の儀式に間に合わないと責任問題なので対馬守はあせっているのがわかる。
しかし信使らはここで値打ちをつける。少しも急がずゆったりと休憩をとり、タバコをふかして歓談にかまけ、出立したのはすでに午後四時であった。しかもその後重ねて二度の休憩を取る。ゆうゆうたる大物振りというか、底意地の悪さを発揮する。
しかし降ったり止んだりしていた雨が先に進むにしたがって本降り、さらに土砂降りに変わった。日が暮れるころにはいよいよ荒れてまるで暴風雨の如くになる。三使の駕籠の中にも雨風は容赦なく吹きつけ、上使・下僕を問わず全員濡れ鼠状態になる。旧暦の五月九日というからちょうど今頃(下旬)の季節か、春とはいっても掘割の水もまだ冷たさの残る候である。提灯の灯も取れない暗夜を、体をくの字に曲げて冷たい風雨の中を突き進む600名もの行列、なんでこーなるの?
とまれ、無意味に大物ぶってはみたものの、その時間差のためなんとも惨めな状態に陥ってしまったのだ。着地の失敗は身から出た錆である。
たっぷりと雨水を含んだ衣服が体に重くまといつき、髪の毛は顔中にべったり張り付いてはなれない。冷雨は体の熱を奪い、一様に青白い形相になり果てた一行が幽鬼よろしく岡崎にたどり着いた時は、すでに午前三時になっていた。
「このような苦痛を味わったのは来日以来始めてである」と通信使は書き残す。
もちろん上使対面の儀は翌日(正確には本日)十時に持ち越された。
時間がない。通信使たちは衣服を着替えた後すぐに対面の儀の予行練習にせきたてられる。公式な場であるので席順、挨拶順、進物の交換など、細かく式次第が定められる。
やがて正装した上使三枝備中守が客館を訪ね、風折烏帽子の対馬守の取り持ちで式が始まる。式は無事終了したらしいが通信使たちはもうヘトヘトである。予定ではすぐに出立しなければならないのだが、数百名分の衣服もまだ乾いていない。そのうち三使の1人が、歯が痛いと言い出して寝込んでしまう。フテ寝であろう。
結局出発は翌日に延期された。
一晩寝て元気を回復した一行はパレードを再開する。回復力はあるようだ。
三河吉田(現西尾市あたり)、遠江浜松と泊まりを重ね掛川に着く。♪越すに越されぬ大井川♪ 五三次の難所だ。しかし列島はすでに雨季に入っている。
引用本にはその日その日の天気も記されているが、降ったり止んだりの典型的な梅雨模様である。大井川の水かさが増していて、一行はここで三晩留められる。川止めだ。
五月十五日早朝に対馬守から、水が引いたので早朝4時に出立するようにとの伝言が届く。四時に出発せよという対馬守の通達はいったい何時に来たことやら。寝る間も不十分のままたたき起こされた一行はあわただしく朝食をとり川辺に急ぐ。昼過ぎに大井河畔に着く。
「水は減ったというものの、肩が没するほどで流れも速い。」と信使は残す。
得別誂えの三使の輿には50人以上の人足が取り付いたというが、大半は一人乗りの輿か、総動員された川越え人足の肩車に一命を託した。もし人足が足を滑らせたら駿河湾までノンストップだ。恐怖のあまり発する彼らの声は、しかし腹の底から絞り出す人足の水唄と見物人の嬌声にかき消された。
「争って渡る声と激励の掛け声が周囲の町を振動させた」。両岸には遠江と駿河の国の両領民がパレード見物のため蝟集していたのだ。
つづく
これは メッセージ 1 (hendazo04 さん)への返信です.
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