朝鮮通信使 12
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/05/24 10:45 投稿番号: [309 / 402]
上げてもらってどうも。スレがすくなくなったから油断できないな。
対馬藩は、担当役人の処罰を厳しくするので出発してほしいと信使側に懇願し、やっと朝食後遅くなってパレードを再開する。すぐに琵琶湖が見えてくる。
「琵琶湖は海のように広く、水面は鏡のようであり、山は翠に壁をなし、帆掛け舟が行き交い、鴨鷺が仲睦まじく遊んでおり、杭州の西湖の景色にも似ている。膳所藩主の居所は湖畔にあって、水を巡らせた楼台が白い城壁の中に聳え、裏山には鬱蒼とした檜の林の中に花草が今を盛りと咲き乱れ絵のような光景である。「奉使録」」
さすが李氏朝鮮のエリート、描写力はなかなかのものだ。
草津から中山道に入り、守山着。翌朝琵琶湖の右岸を北上し彦根に入る。三十五万石、井伊掃部頭の城下町である。
「町の賑わいや豊かさは大阪にも劣らぬほどであり、人々の容貌も服装も美しい」
また、「客館である宗安寺の飾り付けや什器類など、今まで通ってきた陸路の中で最高であり、中・下官の接待にも銀の匙を使用している」と讃える。
通信使の旅程に組み込まれた各地の大名のうち、10万石以上の大名は「自分御馳走」とされ、その接待費用は各藩が負担する。
早朝彦根を出立、摺針峠から琵琶湖を遠望し、その景観に驚嘆の声をあげる。さらに天下分け目の決戦が行われた関ヶ原を通り、神君家康の偉業を対馬藩士により語られる。これは通信使ごとの恒例である。
垂井追分で美濃路に入り大垣泊り。
翌日はいよいよ名古屋入りであるが、それまでに4川を渡らなければならない。揖斐川、長良川、境川、木曽川である。(現在の川名)これらの川を通信使一行は船橋で渡る。すべての船橋は将軍と通信使一行のときだけに用意されたというから、徳川幕府の朝鮮に対する格別な配慮がうかがわれる。
日本人は客人を大切に扱う。日本人の異人に対する友好的な振る舞いはイザベラ・バードの紀行文にも詳しい。
幕府も、国内的には通信地一行は徳川将軍に慶賀を参上に来た「格下国」として扱っているので配慮したのだろう。また同様に、道中の世話を命じられた各藩は競って通信使一行を優遇する。幕府に対する忠誠である。
対する一行はその厚遇に感謝するというよりも驕慢になっていく。自分たちは厚遇される価値のある人間、饗応する側はとうぜんその下の人間、と看做すのだ。決して恐縮などしないのである。
さて、いよいよ一行は尾張の国名古屋に入る。徳川御三家の堂々たる城下町である。しかし、参考にしている第10回目の通信使の記録に名古屋を描写したものがない。ただ饗応膳の豪華な内容を列挙しているだけだ。
ここはご存知「日東壮遊歌」から引用するしかない。「日東壮遊歌」はこの次の11回目の通信使が残したものだ。今回から16年後のことなので日本の風情が変わっているわけでもない。
「街の繁栄、美しさは大阪と同じだ。凄い。
自然の美しさ、人口の多さ、土地の豊かさ、家屋の贅沢さ…この旅で最高だ。
中原(中国の中心地)にも無い風景だ。
朝鮮の都も立派だが、名古屋と比べると、とても寂しい。
人々の美しさも最高だ。
特に女性が美しい。
美しすぎる。
あれが人間だろうか?
「楊貴妃が最高の美人だ」と言われているが、名古屋の女性と比べれば、美しさを失うだろう。 」
今まで追ってきた通信使一行は日本上陸以来その風景の美しさ、家屋敷の豪奢ぶり、民度の高さに驚嘆してきたが、この女性に対する評価はどうであろう。これはほめ言葉というより驚愕して腰を抜かした状態だ。
われわれも名古屋の大路を行き交う、髪を優雅に結い上げ、きらびやかな和服を着こなし、ちいさくハの字に歩を運ぶ江戸時代の女性を、その風景を思い浮かべることができる。浮世絵や時代劇でおなじみのシーンだ。それと同じ情景を通信使がみてひっくり返ってしまったのだ。
われわれは開国当初の朝鮮の大路を写真で見ることができる。京城の大門前の風景も実写で知ることができる。また多くの外国人訪問者が記したものを見ることもできる。朝鮮の都城でも瓦葺の屋根は200軒に1軒とフランスの宣教師シャルル・ダレは述べている。写真のとおりである。映りこんでいる人物たちは一様に白衣をまとっている。
大路の両側に瓦屋根の商店が軒を並べ、その前を色とりどりの和服が行き交う日本の同時代と比較するも愚かである。朝鮮の風景はカラー写真が必要ないほどナチョナルなモノクロだ。朝鮮という国土、文化、心象、すべてが悲しいほど色のない風景なのである。
つづく
対馬藩は、担当役人の処罰を厳しくするので出発してほしいと信使側に懇願し、やっと朝食後遅くなってパレードを再開する。すぐに琵琶湖が見えてくる。
「琵琶湖は海のように広く、水面は鏡のようであり、山は翠に壁をなし、帆掛け舟が行き交い、鴨鷺が仲睦まじく遊んでおり、杭州の西湖の景色にも似ている。膳所藩主の居所は湖畔にあって、水を巡らせた楼台が白い城壁の中に聳え、裏山には鬱蒼とした檜の林の中に花草が今を盛りと咲き乱れ絵のような光景である。「奉使録」」
さすが李氏朝鮮のエリート、描写力はなかなかのものだ。
草津から中山道に入り、守山着。翌朝琵琶湖の右岸を北上し彦根に入る。三十五万石、井伊掃部頭の城下町である。
「町の賑わいや豊かさは大阪にも劣らぬほどであり、人々の容貌も服装も美しい」
また、「客館である宗安寺の飾り付けや什器類など、今まで通ってきた陸路の中で最高であり、中・下官の接待にも銀の匙を使用している」と讃える。
通信使の旅程に組み込まれた各地の大名のうち、10万石以上の大名は「自分御馳走」とされ、その接待費用は各藩が負担する。
早朝彦根を出立、摺針峠から琵琶湖を遠望し、その景観に驚嘆の声をあげる。さらに天下分け目の決戦が行われた関ヶ原を通り、神君家康の偉業を対馬藩士により語られる。これは通信使ごとの恒例である。
垂井追分で美濃路に入り大垣泊り。
翌日はいよいよ名古屋入りであるが、それまでに4川を渡らなければならない。揖斐川、長良川、境川、木曽川である。(現在の川名)これらの川を通信使一行は船橋で渡る。すべての船橋は将軍と通信使一行のときだけに用意されたというから、徳川幕府の朝鮮に対する格別な配慮がうかがわれる。
日本人は客人を大切に扱う。日本人の異人に対する友好的な振る舞いはイザベラ・バードの紀行文にも詳しい。
幕府も、国内的には通信地一行は徳川将軍に慶賀を参上に来た「格下国」として扱っているので配慮したのだろう。また同様に、道中の世話を命じられた各藩は競って通信使一行を優遇する。幕府に対する忠誠である。
対する一行はその厚遇に感謝するというよりも驕慢になっていく。自分たちは厚遇される価値のある人間、饗応する側はとうぜんその下の人間、と看做すのだ。決して恐縮などしないのである。
さて、いよいよ一行は尾張の国名古屋に入る。徳川御三家の堂々たる城下町である。しかし、参考にしている第10回目の通信使の記録に名古屋を描写したものがない。ただ饗応膳の豪華な内容を列挙しているだけだ。
ここはご存知「日東壮遊歌」から引用するしかない。「日東壮遊歌」はこの次の11回目の通信使が残したものだ。今回から16年後のことなので日本の風情が変わっているわけでもない。
「街の繁栄、美しさは大阪と同じだ。凄い。
自然の美しさ、人口の多さ、土地の豊かさ、家屋の贅沢さ…この旅で最高だ。
中原(中国の中心地)にも無い風景だ。
朝鮮の都も立派だが、名古屋と比べると、とても寂しい。
人々の美しさも最高だ。
特に女性が美しい。
美しすぎる。
あれが人間だろうか?
「楊貴妃が最高の美人だ」と言われているが、名古屋の女性と比べれば、美しさを失うだろう。 」
今まで追ってきた通信使一行は日本上陸以来その風景の美しさ、家屋敷の豪奢ぶり、民度の高さに驚嘆してきたが、この女性に対する評価はどうであろう。これはほめ言葉というより驚愕して腰を抜かした状態だ。
われわれも名古屋の大路を行き交う、髪を優雅に結い上げ、きらびやかな和服を着こなし、ちいさくハの字に歩を運ぶ江戸時代の女性を、その風景を思い浮かべることができる。浮世絵や時代劇でおなじみのシーンだ。それと同じ情景を通信使がみてひっくり返ってしまったのだ。
われわれは開国当初の朝鮮の大路を写真で見ることができる。京城の大門前の風景も実写で知ることができる。また多くの外国人訪問者が記したものを見ることもできる。朝鮮の都城でも瓦葺の屋根は200軒に1軒とフランスの宣教師シャルル・ダレは述べている。写真のとおりである。映りこんでいる人物たちは一様に白衣をまとっている。
大路の両側に瓦屋根の商店が軒を並べ、その前を色とりどりの和服が行き交う日本の同時代と比較するも愚かである。朝鮮の風景はカラー写真が必要ないほどナチョナルなモノクロだ。朝鮮という国土、文化、心象、すべてが悲しいほど色のない風景なのである。
つづく
これは メッセージ 1 (hendazo04 さん)への返信です.
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