ユダヤと朝鮮という民族 3
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2008/12/01 13:38 投稿番号: [224 / 402]
韓国には2度行った。しかしどこも見学した覚えがない。古代遺跡どころか由緒正しい寺院にも行かなかった。ただし、行かなかったということは遺跡が無かったということと同義ではない。マサダ砦や岩のドームのような世界遺跡が、ユダヤ民族と同じ悠久の歴史を持つ韓国に無いはずがない。キーセンパーティにうつつを抜かしつづけたオレの不勉強だ。
而してそれはあった!
遺跡の第一は「三田渡碑」だ。
今を去ること370年ほど前、韓国と中国の清王朝が交わした友好修好を記念し建立されたものだ。
亀の背の台座に乗った碑石は総大理石。H6m弱・W1,4m・D4mの堂々たる代物で、漢字、満州語、モンゴル語の3カ国語で文章が刻まれている。国際交流の一大拠点であった韓国の位相が分かる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B8%85%E7%9A%87%E5%B8%9D%E5%8A%9F%E5%BE%B3%E7%A2%91
なんて書いてあるのだろう?
「愚かな朝鮮王は偉大な清国皇帝に逆らった。
清国皇帝は、愚かな朝鮮王をたしなめ、この大罪を諭してやった。
良心に目覚めた朝鮮王は、自分の愚かさを猛省し、偉大な清国皇帝の臣下になることを誓った。
我が朝鮮は、この清国皇帝の功徳を永遠に忘れず、また清国に逆った愚かな罪を反省するために、この石碑を建てることにする。」
なんと、・・うむ、どうも単なる友好・修好碑ではないような気がする。
写真
http://www.geocities.jp/krruins/sjd1.html
この碑とは別に銅版のレリーフが付随する。そこには朝鮮国王が清国の使者に土下座しているかのように見える図が刻まれている。本当は、この直後に朝鮮王が立ち上がり清国の使者がひざまずき礼を返すのだろう。答礼である。その直前を描写したものだから誤解を与えているのだと思う。
上記の文字との関連は明らかでない。
この偉大なる遺跡に未練を残しつつ次に行こう。
次はもちろんパリの凱旋門にも匹敵する韓民族栄光の標、「独立門」だ。
35年に及ぶ日帝の支配を覆し、自力で独立を回復した「光復」を記念して建立されたものだ。総石造りのその門は上辺に楼観をしつらえた優美な姿でたたずんでいる。
この門は、韓民族自主独立の象徴として、今も韓国人の胸を熱くゆさぶり続ける。
しかし、韓国人が信じるこの独立門の由来について異説があるという。ま、歴史には異説はつき物だ、開いてみよう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E9%96%80
なんと、ウィキでは、この凱旋門は日清戦争終結の1年後に建てられたものだという。「日本からの独立」より半世紀もさかのぼる。
万が一それが本当ならこの白亜の独立門は、日本が韓国のために日清戦争を戦い勝利し、韓国を、屈辱的な清国の従属国という位相から開放させ、それを韓国民がいたく感謝し、この恩を永久に忘れませんと、半ば日本を意識して建てられた門ということになる。
「日本をやっつけて独力で開放を勝ち取った」という韓国側の理解とは著しい差がある。どっちが本当なんだ!!
時代はたかだか100年とちょっと前の話だ。正確な学術調査ができていないはずがないではないか。
むむ、難しい問題はさておいてユダヤ民族の方に話を移そう。
エルサレムの城壁を望む小高い丘に案内してもらい、オリーブの木陰から城を見下ろす。
凹凸のある城囲い、それに続く嘆きの壁、その内側に岩のドームの金色が夕陽にきらめいている。
城内は、石造りの家並みに狭すぎる小道が縦横に入り組んだ大喧騒の町だった。
その中の一本の坂道、十字架を背負わされたキリストがゴルゴタの丘に向かうとき通った道だ。ガイドは、ここでイエスが最初に倒れました、とか、ここで又倒れたとき誰かが水をあげました、とか、少し歩いては立ち止まり、熱心に説明する。
やがて坂道は聖墳墓教会に突き当たる。イエスが処刑されたゴルゴタの丘に建てられたという。想像してみよう、
両手両足は鉄釘で十字架に固定され、その4ヶ所から無残に血が流れでている。
茨の冠がうなだれた彼の額に棘を食い込ませ、そこからの血の滴りは彼の胸を点々と汚していた。
やがて処刑人の槍が無造作に突き出され、穂先が肋骨の間の皮を突き破ったとき、「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか」と、彼は叫んだ。(マタイ伝)
もちろんローマ人が攻め落し、十字軍に蹂躙されたエルサレム城内はずいぶん変貌をとげたものであろう。しかし、幾万人もの血にま
而してそれはあった!
遺跡の第一は「三田渡碑」だ。
今を去ること370年ほど前、韓国と中国の清王朝が交わした友好修好を記念し建立されたものだ。
亀の背の台座に乗った碑石は総大理石。H6m弱・W1,4m・D4mの堂々たる代物で、漢字、満州語、モンゴル語の3カ国語で文章が刻まれている。国際交流の一大拠点であった韓国の位相が分かる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B8%85%E7%9A%87%E5%B8%9D%E5%8A%9F%E5%BE%B3%E7%A2%91
なんて書いてあるのだろう?
「愚かな朝鮮王は偉大な清国皇帝に逆らった。
清国皇帝は、愚かな朝鮮王をたしなめ、この大罪を諭してやった。
良心に目覚めた朝鮮王は、自分の愚かさを猛省し、偉大な清国皇帝の臣下になることを誓った。
我が朝鮮は、この清国皇帝の功徳を永遠に忘れず、また清国に逆った愚かな罪を反省するために、この石碑を建てることにする。」
なんと、・・うむ、どうも単なる友好・修好碑ではないような気がする。
写真
http://www.geocities.jp/krruins/sjd1.html
この碑とは別に銅版のレリーフが付随する。そこには朝鮮国王が清国の使者に土下座しているかのように見える図が刻まれている。本当は、この直後に朝鮮王が立ち上がり清国の使者がひざまずき礼を返すのだろう。答礼である。その直前を描写したものだから誤解を与えているのだと思う。
上記の文字との関連は明らかでない。
この偉大なる遺跡に未練を残しつつ次に行こう。
次はもちろんパリの凱旋門にも匹敵する韓民族栄光の標、「独立門」だ。
35年に及ぶ日帝の支配を覆し、自力で独立を回復した「光復」を記念して建立されたものだ。総石造りのその門は上辺に楼観をしつらえた優美な姿でたたずんでいる。
この門は、韓民族自主独立の象徴として、今も韓国人の胸を熱くゆさぶり続ける。
しかし、韓国人が信じるこの独立門の由来について異説があるという。ま、歴史には異説はつき物だ、開いてみよう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E9%96%80
なんと、ウィキでは、この凱旋門は日清戦争終結の1年後に建てられたものだという。「日本からの独立」より半世紀もさかのぼる。
万が一それが本当ならこの白亜の独立門は、日本が韓国のために日清戦争を戦い勝利し、韓国を、屈辱的な清国の従属国という位相から開放させ、それを韓国民がいたく感謝し、この恩を永久に忘れませんと、半ば日本を意識して建てられた門ということになる。
「日本をやっつけて独力で開放を勝ち取った」という韓国側の理解とは著しい差がある。どっちが本当なんだ!!
時代はたかだか100年とちょっと前の話だ。正確な学術調査ができていないはずがないではないか。
むむ、難しい問題はさておいてユダヤ民族の方に話を移そう。
エルサレムの城壁を望む小高い丘に案内してもらい、オリーブの木陰から城を見下ろす。
凹凸のある城囲い、それに続く嘆きの壁、その内側に岩のドームの金色が夕陽にきらめいている。
城内は、石造りの家並みに狭すぎる小道が縦横に入り組んだ大喧騒の町だった。
その中の一本の坂道、十字架を背負わされたキリストがゴルゴタの丘に向かうとき通った道だ。ガイドは、ここでイエスが最初に倒れました、とか、ここで又倒れたとき誰かが水をあげました、とか、少し歩いては立ち止まり、熱心に説明する。
やがて坂道は聖墳墓教会に突き当たる。イエスが処刑されたゴルゴタの丘に建てられたという。想像してみよう、
両手両足は鉄釘で十字架に固定され、その4ヶ所から無残に血が流れでている。
茨の冠がうなだれた彼の額に棘を食い込ませ、そこからの血の滴りは彼の胸を点々と汚していた。
やがて処刑人の槍が無造作に突き出され、穂先が肋骨の間の皮を突き破ったとき、「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか」と、彼は叫んだ。(マタイ伝)
もちろんローマ人が攻め落し、十字軍に蹂躙されたエルサレム城内はずいぶん変貌をとげたものであろう。しかし、幾万人もの血にま
これは メッセージ 1 (hendazo04 さん)への返信です.
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