Re: オーストラリアという国6 サンダカン
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2008/11/16 11:04 投稿番号: [209 / 402]
>日本内地じゃ捕虜であった元日本兵が
体験本を出すことはまれなことじゃないの?
シベリア抑留者以外では、、、眉唾ものと一応疑った方が無難だね。
「アローン収容所」の著者は歴史学者の会田雄次氏だ。本書は発刊以来46年になるがいまだ版を重ねている。名著として評価され、内容からしてその真偽を疑う人はそういない。
俺が思うエッセンスは、著者が書く英国人から受けた「身を捩るほどの屈辱」は決して体罰的なものではなかったという点だ。
「 想像以上にひどいことをされたというわけでもない。よい待遇を受けたというわけでもない。たえず殴られ蹴られる目にあったというわけでもない。私刑的な仕返しを受けたわけでもない。それでいて私たちは、私たちはといっていけなければ、少なくとも私は、英軍さらには英国というものに対する燃えるような激しい反感と憎悪を抱いて帰ってきたのである。異常な、といったのはそのことである。」
また「私は今でもうなり声を上げて夜中に飛び起き、英国人の子供の指をそろえて切り落としたい思いに身を捩る」(手元に本書がないので正確ではないが、前書きにこのような文章がある)
冷静な歴史家であるべき氏がこれほど憤怒する対象は、氏の額でタバコの火をネジ消たり、軍靴であごを蹴り上げた豪兵ではなかった。
日本軍に捕らわれた豪兵だって悲惨な目にあったのは間違いないのだから、彼らの日本兵捕虜に対する個人レベルな憎悪は自然なことだろう。責めるつもりなどない。
そうではなくて、氏の憤激がいわば「人道的」に対処した英国人に向けられているのにオレは興味をそそられる。乱暴されるのはたまらないが、そんなことより、人間と動物の中間種として位置され、無視され、しかもそれは‘日本兵憎し‘の感情から急造されたものではなく、英国人が持つごく当然の「知識・行動学」とされていることのほうが、日本人の持つ尊厳を、譲ることの出来ない尊厳を傷つけるということだろう。
一読をお勧めする。
>>日本内地じゃ捕虜であった元日本兵が 体験本を出すことはまれなことじゃないの? シベリア抑留者以外では、、、眉唾ものと一応疑った方が無難だね。
シベリアに不法抑留された日本兵の中には共産主義に目覚めるものが増殖し、各宿舎でオルグされるようになった。また、中国側の依頼で、ソ連から中国に元日本兵を送られ、中国政府により強烈に洗脳教育を施された。
彼らの中には引き上げ船が着いた岸壁でさっそくアジ演説を始める始末だった。
そもそもシベリア捕虜は満州国在住の日本兵。その頃の中国は重慶に引っ込んで日本との戦闘は休止状態だったので、使える兵士は緊急事態の南方戦線に送られていた。
「暁に祈る」の吉村久佳みたいに、シベリア帰りは結構ヤバイのが多かったんですよ。
で、話をサンダカンに戻すと、
この悲惨な行進がなされたのは終戦の年1945年1月。戦局いよいよ帝国軍を追い詰め、ボルネオ島東部サンダカンに駐留する日本兵と民間人は医薬品、食料を始めあらゆる物資が極端に欠乏していた。
そのころはオーストラリア北部ダーウィン飛行場を飛び立つ爆撃機が民間人居住区にも好きなように爆弾を落としていく。食糧不足と絶え間ない爆撃で日本兵の精神も病んでくる。捕虜憎しの思いはつのり懇切なケアはなされなかったと想像する。
しかも連合軍は捕虜収容所も爆撃する。第2回目の移動はこの爆撃に蹴飛ばされて行われた。
ボルネオ島捕虜収容所分所サンダカン収容所で飛行場建設に使役されていた収容兵は、43年秋の時点でオーストラリア兵1,800、英兵700の計2,500人。彼らの生存状況が日本兵より劣悪であったことは容易に推察できる。45年1月第一陣移動隊が出発した時点でその総数は1,850人になっていた。650人、4分の一ほどが既に死亡していたことになる。泰緬鉄道建設時と違って難工事による事故死はない。すべて病死、衰弱死といってよい。
結論を急ぐ、「サンダカン死の行進」の遭難者数は諸説あるが、皆様のウィキでは捕虜1千人のほか、随行の日本兵も100人死んでいる。意味するところは、「死の行進」の真実は粉おことなき「遭難」なのである。生存捕虜の言葉として「日本兵は水食料支給では公平だった」と述べられている。その反対の記録はない。
また落伍捕虜を銃殺したのが非道と言うが、遭難して行進ができなくなり現場に放置するのと銃殺するのとどれほどの違いがあるのだろう。
日本ではかかる行為を「引導を渡す」、つまり慈悲と表現したりするのだ。
「アローン収容所」の著者は歴史学者の会田雄次氏だ。本書は発刊以来46年になるがいまだ版を重ねている。名著として評価され、内容からしてその真偽を疑う人はそういない。
俺が思うエッセンスは、著者が書く英国人から受けた「身を捩るほどの屈辱」は決して体罰的なものではなかったという点だ。
「 想像以上にひどいことをされたというわけでもない。よい待遇を受けたというわけでもない。たえず殴られ蹴られる目にあったというわけでもない。私刑的な仕返しを受けたわけでもない。それでいて私たちは、私たちはといっていけなければ、少なくとも私は、英軍さらには英国というものに対する燃えるような激しい反感と憎悪を抱いて帰ってきたのである。異常な、といったのはそのことである。」
また「私は今でもうなり声を上げて夜中に飛び起き、英国人の子供の指をそろえて切り落としたい思いに身を捩る」(手元に本書がないので正確ではないが、前書きにこのような文章がある)
冷静な歴史家であるべき氏がこれほど憤怒する対象は、氏の額でタバコの火をネジ消たり、軍靴であごを蹴り上げた豪兵ではなかった。
日本軍に捕らわれた豪兵だって悲惨な目にあったのは間違いないのだから、彼らの日本兵捕虜に対する個人レベルな憎悪は自然なことだろう。責めるつもりなどない。
そうではなくて、氏の憤激がいわば「人道的」に対処した英国人に向けられているのにオレは興味をそそられる。乱暴されるのはたまらないが、そんなことより、人間と動物の中間種として位置され、無視され、しかもそれは‘日本兵憎し‘の感情から急造されたものではなく、英国人が持つごく当然の「知識・行動学」とされていることのほうが、日本人の持つ尊厳を、譲ることの出来ない尊厳を傷つけるということだろう。
一読をお勧めする。
>>日本内地じゃ捕虜であった元日本兵が 体験本を出すことはまれなことじゃないの? シベリア抑留者以外では、、、眉唾ものと一応疑った方が無難だね。
シベリアに不法抑留された日本兵の中には共産主義に目覚めるものが増殖し、各宿舎でオルグされるようになった。また、中国側の依頼で、ソ連から中国に元日本兵を送られ、中国政府により強烈に洗脳教育を施された。
彼らの中には引き上げ船が着いた岸壁でさっそくアジ演説を始める始末だった。
そもそもシベリア捕虜は満州国在住の日本兵。その頃の中国は重慶に引っ込んで日本との戦闘は休止状態だったので、使える兵士は緊急事態の南方戦線に送られていた。
「暁に祈る」の吉村久佳みたいに、シベリア帰りは結構ヤバイのが多かったんですよ。
で、話をサンダカンに戻すと、
この悲惨な行進がなされたのは終戦の年1945年1月。戦局いよいよ帝国軍を追い詰め、ボルネオ島東部サンダカンに駐留する日本兵と民間人は医薬品、食料を始めあらゆる物資が極端に欠乏していた。
そのころはオーストラリア北部ダーウィン飛行場を飛び立つ爆撃機が民間人居住区にも好きなように爆弾を落としていく。食糧不足と絶え間ない爆撃で日本兵の精神も病んでくる。捕虜憎しの思いはつのり懇切なケアはなされなかったと想像する。
しかも連合軍は捕虜収容所も爆撃する。第2回目の移動はこの爆撃に蹴飛ばされて行われた。
ボルネオ島捕虜収容所分所サンダカン収容所で飛行場建設に使役されていた収容兵は、43年秋の時点でオーストラリア兵1,800、英兵700の計2,500人。彼らの生存状況が日本兵より劣悪であったことは容易に推察できる。45年1月第一陣移動隊が出発した時点でその総数は1,850人になっていた。650人、4分の一ほどが既に死亡していたことになる。泰緬鉄道建設時と違って難工事による事故死はない。すべて病死、衰弱死といってよい。
結論を急ぐ、「サンダカン死の行進」の遭難者数は諸説あるが、皆様のウィキでは捕虜1千人のほか、随行の日本兵も100人死んでいる。意味するところは、「死の行進」の真実は粉おことなき「遭難」なのである。生存捕虜の言葉として「日本兵は水食料支給では公平だった」と述べられている。その反対の記録はない。
また落伍捕虜を銃殺したのが非道と言うが、遭難して行進ができなくなり現場に放置するのと銃殺するのとどれほどの違いがあるのだろう。
日本ではかかる行為を「引導を渡す」、つまり慈悲と表現したりするのだ。
これは メッセージ 205 (todorigafuti さん)への返信です.
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