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オーストラリアという国 2

投稿者: hendazo04 投稿日時: 2008/10/23 10:25 投稿番号: [192 / 402]
彼らの「栄えある」白豪主義は、第2次対戦中同盟米軍の黒人兵の上陸を拒否すると言う珍事も起こした。

そんな彼らがどう先住民を扱ったか・・
護送されてきた彼らは軽犯罪者といっても、無教養で粗暴で犯罪予備軍としての資質を充分持っていた。そういわれても仕方がないほど彼ら流刑植民者は、人類史上類例のない悪行をこの地で成した。
この不毛の大陸に人類の生息できる地域は少ない。入植者は本拠地を森と水のある、現在のシドニー、メルボルンに拠った。当然そこにはアボリジニの各集団が先住していた。摩擦は必然だ。摩擦といっても銃とブーメランである。一方的な殺戮といっていいだろう。
また現地総督府は組織的な現住人種絶滅政策を遂行した。1830年、オーストラリア総督府は2000人の兵士と巨大な費用を投じてタスマニア原住民を狩った。タスマニア原住民はオーストラリア本土人と元々同人種だが、1万年ほど前の海面上昇により本土から隔離され、しかし豊かな森の恵みで生き残り、文化的進化から取り残された人類学的に稀有な集団だった。
そんな彼らを総督府の兵は追廻し、追い詰め、首を狩り、1万人いたと思われる原住民は300人ほどになった。残りは随時「捕獲」され絶滅収容所に隔離された。1847年の統計で生存純血種は47人、1876年ついに純血種は絶滅した。

しかも、入植者はその後も飽くことなく先住民を追い掛け回し殺すだけの狩猟の対象にしたのだ。文字通りのハンティングであった。
彼らの残した日記に、「今日はホリディ、ハントに行き4人をしとめた」と書かれ、「樽には生首が詰められ、そんな樽が幾つもあった」などとの聞き書きが残っている。これは20世紀に入ってからの話である。

そんな豪軍と日本軍とは第二次大戦で邂逅する。マレー半島、シンガポール攻略にオーストラリア兵はかなり勇敢に戦った。しかし戦闘の末降伏した連合軍は13万人にのぼり、そのうち豪兵は1割強の15000人を数えた。
捕虜をめぐって日豪は、ボルネオ島における「死の行進」や豪本土カウラ収容所での集団脱走に語られるように、陰惨で救いがない戦史外伝を刻す。
そう、戦後今に至るまで批判の対象となっている大きな要因の一つは日本軍による連合国捕虜の扱いである。
アメリカは「バターン死の行進」を、英国人は泰緬鉄道建設言い、オランダ人はインドネシアの獄につながれた4年弱の「屈辱」と白馬事件を言う。さらにアジアの裏切り者中国は南京大虐殺を言い立て「大屠殺記念館」を建てまくっている。ついでというか、おまけというか、便乗韓国は逮捕された「抗日烈士」を拷問、虐殺したと言い出すしまつ。
これが世代を超えて60年間言い募られ続け、「日本軍は類稀なる残虐戦争犯罪を遂行した」とされた。ついには「ナチスのユダヤ人虐殺と同列の「事実」となりつつある。
嘆息するしかないが、やるべきことをしなかった日本の政治家、煽ったマスコミ、左翼人は万死に価し、われわれ一般人の無関心と怠惰は、後世に対する大罪であろう。

オーストラリア人も日本軍の捕虜の扱いについて非難する。
大戦を通じて日本軍の捕虜になったオーストラリア人は22000人、うち生還できたのは15000人ほど、約3分の1が死亡したとされる。別に数字に疑問はないが、多少掘り下げる必要がある。
彼らが特に言うのは、日本の近衛連隊がマレー半島制圧時、パリットスロンの戦闘で捕虜になった連合軍捕虜2百数十人の殺害だ。うち百十人ほどが豪兵だという。これは近衛師団長じきじきの命令で成されたものである。もちろん戦時国際法違反である。連隊長が百も承知で国際法を破ったのは、この激戦で近衛歩兵大隊がほぼ殲滅されて頭に来たからだろう。長たるものの資質というしかないが、それでもこれらの戦闘の「生存捕虜」は7,800人に上ったのだ。
無駄な戦闘を続けるより降伏されたほうが勝者の犠牲も少なくて住むという利点はあるが、あくまでも時と場合によりけりである。

ちょっと横道にそれる嫌いはあるが、次は捕虜について考えてみたい。
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