フィリピン攻略
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2008/05/07 20:10 投稿番号: [126 / 402]
日本が12月8日(日本時間)を以って戦火の口火を切ったのは真珠湾、マレー、香港、そしてフィリッピンであった。
ただしフィリッピンの場合はすでに真珠湾の結果が米軍に届いていたので、この戦いは奇襲ではなかった。
しかし、ここでも神風が吹いた。
「そのころ台湾は濃霧に覆われていた。第11航空艦隊の攻撃機群は濃霧に遮られ、出撃は9時過ぎになってしまう。だがこれは結果から見れば天佑ともいえる幸運であった。昼過ぎ、アメリカ軍機は給油のため次々と基地へ降り立ったが、日本軍機がフィリピン上空へ飛来したのはこのタイミングであった。戦闘機34機、陸攻53機がクラーク飛行場を、戦闘機51機、陸攻53機がイバ飛行場を襲い、B-17は地上に翼を並べたまま撃破された。この日、アメリカ軍はB-17 18機、P-40 53機、P-35 3機、その他25ないし30機を喪失し、多数が損傷を受けた。日本軍の損害は陸攻1機に過ぎなかった。アメリカ極東航空軍は開戦初日で兵力の過半を失った。
10日には日本軍航空部隊はマニラ湾内のキャビテ軍港および在泊艦隊を空襲して大きな損害を与えた。これらの航空撃滅戦の結果、制空権・制海権は日本軍のものとなった。」(ウィキ)
明けて42年1月2日、マニラは陥落する。
ダグラス・マッカーサー司令官率いる米軍は、マニラ湾を挟んでマニラ市街と東海岸が向かい合うバターン半島と、その突端に浮かぶ小島コレヒドールに退き、数線に渡り巧妙に配置された砲塁に‘日本軍ござんなれ‘と布陣する。
今のフィリピンは7千余島の群島国家だが、16世紀始めにマゼランが[発見]したときは、島々に小勢力が割拠する部落社会であった。驚異的な冒険心を持って世界1周を成し遂げたマゼランは、世界史、世界地図にマゼラン海峡と言う不滅の名を記したが、現地民からすれば不埒な無法者(すでにマゼラン隊は食料を奪うために部落を襲い現地民を虐殺している)は、上陸40日後に退治される。
しかし時を経ずして、世紀の半ばにはスペインによって、ミンダナオ島などのイスラム教徒の数島を除き、大半の島々はスペイン帝国の植民地となる。
このころより倭寇を含む日本人が活発に渡航し始め、戦国時代にはいくつかの港に日本人町もできた。
しかし徳川幕府の鎖国令によって本国との往来は途絶え、日本人の血は現地に溶け込んだ。華僑が、血筋のアイデンティティを保ちながら現地化したのとは対照的だ。
フィリピン人はマレー系人種で、東アジア系のわれわれとは形体的にもかなり異なる。
ただし彼らの南方文化は日本の弥生文化の基層を成しているとされる。文化の運び手、黒潮はフィリッピン群島の東を起点として日本列島にたどり着きその両岸を舐めるように洗う。
フィリピンと日本は黒潮新幹線でつながっているといえるが、そのラインは往路だけである。古代文化は交換ではなく一方的に日本が受益者だろう。
スペインのフィリピン植民地支配は300有余年に及んだが19世紀末の米西戦争の結果、支配者はアメリカに代わる。
米西戦争のときアメリカは独立を餌にフィリピン人の独立活動家を戦争に協力させたが、そんなのは約束を大陸人が守るはずもない。
一度は[独立宣言]をさせたフィリピンを破廉恥にもスペインから2000万ドルで買い受ける。怒ったフィリピン人はゲリラとなり猛烈な抵抗を開始する。
次の2年でアメリカは60万人のフィリピン人を殺した。その有様は諸所に記録されている。
「米軍部隊は無情で容赦なかった。男女を問わず、囚人・捕虜はもちろん、明らかな反乱分子であれ容疑者であれ、一〇歳以上なら片端から殺しつくした」
「手をあげておとなしく降伏してきた捕虜たちは、暴徒であることを示す一片の証拠もないまま、一時間後には橋の上の立たされ、次々と銃殺されて川面を流されていった。弾丸で蜂の巣にされた死体を、川下にいるであろう連中への見せしめにするためだ」
「サマル島の第九歩兵師団・司令官ジェイコブ・スミス准将はゲリラ戦に壊滅させられたC中隊の報復として、「捕虜はいらん。全部殺し、焼き尽くせ。殺せば殺すほど、焼けば焼くほど、私は満足だ」
海兵隊旅団長L・ウォーラー少佐が、「何歳が限度ですか」 と訊ねると、「一〇歳だ、と答えた。
ウォーラーは全住民に海岸への移動を命じた。二日後、内陸にあるすべての村の組織的破壊と皆殺しが開始された。家はもちろん、市場に出すための食糧や麻など一切焼き尽くされ、家畜のすべては殺され、舟の類も手当たり次第沈められた。米軍の軍服なり装備なりの一片でも見つかった村は、それがC中隊の遺品とみなされ、女子供を含む全住民が皆殺しにされた。」
ただしフィリッピンの場合はすでに真珠湾の結果が米軍に届いていたので、この戦いは奇襲ではなかった。
しかし、ここでも神風が吹いた。
「そのころ台湾は濃霧に覆われていた。第11航空艦隊の攻撃機群は濃霧に遮られ、出撃は9時過ぎになってしまう。だがこれは結果から見れば天佑ともいえる幸運であった。昼過ぎ、アメリカ軍機は給油のため次々と基地へ降り立ったが、日本軍機がフィリピン上空へ飛来したのはこのタイミングであった。戦闘機34機、陸攻53機がクラーク飛行場を、戦闘機51機、陸攻53機がイバ飛行場を襲い、B-17は地上に翼を並べたまま撃破された。この日、アメリカ軍はB-17 18機、P-40 53機、P-35 3機、その他25ないし30機を喪失し、多数が損傷を受けた。日本軍の損害は陸攻1機に過ぎなかった。アメリカ極東航空軍は開戦初日で兵力の過半を失った。
10日には日本軍航空部隊はマニラ湾内のキャビテ軍港および在泊艦隊を空襲して大きな損害を与えた。これらの航空撃滅戦の結果、制空権・制海権は日本軍のものとなった。」(ウィキ)
明けて42年1月2日、マニラは陥落する。
ダグラス・マッカーサー司令官率いる米軍は、マニラ湾を挟んでマニラ市街と東海岸が向かい合うバターン半島と、その突端に浮かぶ小島コレヒドールに退き、数線に渡り巧妙に配置された砲塁に‘日本軍ござんなれ‘と布陣する。
今のフィリピンは7千余島の群島国家だが、16世紀始めにマゼランが[発見]したときは、島々に小勢力が割拠する部落社会であった。驚異的な冒険心を持って世界1周を成し遂げたマゼランは、世界史、世界地図にマゼラン海峡と言う不滅の名を記したが、現地民からすれば不埒な無法者(すでにマゼラン隊は食料を奪うために部落を襲い現地民を虐殺している)は、上陸40日後に退治される。
しかし時を経ずして、世紀の半ばにはスペインによって、ミンダナオ島などのイスラム教徒の数島を除き、大半の島々はスペイン帝国の植民地となる。
このころより倭寇を含む日本人が活発に渡航し始め、戦国時代にはいくつかの港に日本人町もできた。
しかし徳川幕府の鎖国令によって本国との往来は途絶え、日本人の血は現地に溶け込んだ。華僑が、血筋のアイデンティティを保ちながら現地化したのとは対照的だ。
フィリピン人はマレー系人種で、東アジア系のわれわれとは形体的にもかなり異なる。
ただし彼らの南方文化は日本の弥生文化の基層を成しているとされる。文化の運び手、黒潮はフィリッピン群島の東を起点として日本列島にたどり着きその両岸を舐めるように洗う。
フィリピンと日本は黒潮新幹線でつながっているといえるが、そのラインは往路だけである。古代文化は交換ではなく一方的に日本が受益者だろう。
スペインのフィリピン植民地支配は300有余年に及んだが19世紀末の米西戦争の結果、支配者はアメリカに代わる。
米西戦争のときアメリカは独立を餌にフィリピン人の独立活動家を戦争に協力させたが、そんなのは約束を大陸人が守るはずもない。
一度は[独立宣言]をさせたフィリピンを破廉恥にもスペインから2000万ドルで買い受ける。怒ったフィリピン人はゲリラとなり猛烈な抵抗を開始する。
次の2年でアメリカは60万人のフィリピン人を殺した。その有様は諸所に記録されている。
「米軍部隊は無情で容赦なかった。男女を問わず、囚人・捕虜はもちろん、明らかな反乱分子であれ容疑者であれ、一〇歳以上なら片端から殺しつくした」
「手をあげておとなしく降伏してきた捕虜たちは、暴徒であることを示す一片の証拠もないまま、一時間後には橋の上の立たされ、次々と銃殺されて川面を流されていった。弾丸で蜂の巣にされた死体を、川下にいるであろう連中への見せしめにするためだ」
「サマル島の第九歩兵師団・司令官ジェイコブ・スミス准将はゲリラ戦に壊滅させられたC中隊の報復として、「捕虜はいらん。全部殺し、焼き尽くせ。殺せば殺すほど、焼けば焼くほど、私は満足だ」
海兵隊旅団長L・ウォーラー少佐が、「何歳が限度ですか」 と訊ねると、「一〇歳だ、と答えた。
ウォーラーは全住民に海岸への移動を命じた。二日後、内陸にあるすべての村の組織的破壊と皆殺しが開始された。家はもちろん、市場に出すための食糧や麻など一切焼き尽くされ、家畜のすべては殺され、舟の類も手当たり次第沈められた。米軍の軍服なり装備なりの一片でも見つかった村は、それがC中隊の遺品とみなされ、女子供を含む全住民が皆殺しにされた。」
これは メッセージ 1 (hendazo04 さん)への返信です.
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