香港攻略
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2008/04/25 17:20 投稿番号: [120 / 402]
「1991(平成3)年12月、マレーシアのコタバルを首都とするケランタン州政府は、日本軍の上陸50周年を記念して特別式典を開催し、さらに戦争博物館を設立しました。その館長でケランタン州副知事のロザリー・イソハック氏はこんなふうに言っています。
[1991年、私達は日本のコタバル上陸50周年を祝いました。これがケランタン、つまり当時のマラヤにとって、意義ある出来事であったからです。ここコタバルは、日本軍最初の上陸地です。私は、戦争博物館の館長として記念行事を担当しましたが、多くの人がこの重要な出来事を、長く記憶に留めていただきたいと願っています。]
これが、日本軍のコタバル上陸に対するマレー人の評価だ。はたして、この[コタバル上陸50周年記念式典]のことを、どれほどの数の日本人が知っているだろうか、また、その戦争博物館を訪れた日本人は何人いるのだろうか。
マレー半島北端に上陸した日本軍は、1100キロの道程を英軍を粉砕しながら南下する。そしてわずか55日間という驚異的な速度で到達点ジョホールバルに到達する。英軍は全員マレー半島を捨てシンガポール島へ撤退し、ジョホールバルと島とを結んでいる一本の土手道を破壊した。英軍は篭城の構えを取った。
ジョホールバルまでの快進撃には、日本陸海軍の決死の敵前上陸もあった。いっぽうタイから進撃した陸軍は、小マジノ線といわれたジットラ陣地を攻略する。タイとの国境際にある同陣地は日本軍との戦闘を想定して半年の訓練を積んできた英印兵6千名と戦車90両で守られていた。それがたった1日、日本陸軍の一部隊581名の兵力で片付けたのである。
佐伯挺身隊の戦死27、戦傷83。英印軍の捕虜は1,000名以上であった。
実は、対米戦を主張していた陸軍は年初からマレー攻撃の猛訓練を行っていた。日本と連合国の戦機は、両陣営の周到な準備と演習の下ますます熟し、落ちるべきときに落ちたのである。
せっかくである、マレー戦役をもう少し辿ってみよう。
「馬や自転車を活用した日本軍であったが、重砲や車両の前進には橋梁の修復が不可欠であり、第25軍の進撃速度はすなわち橋梁の修復速度であった。この作業には各師団の工兵隊と独立工兵連隊とが文字通り不眠不休であたった。西海岸では舟艇機動も効果を発揮した。20人乗りの舟艇30隻を用意して運び込み、十数回にわたって海上をつたってイギリス軍の背後を奇襲した。」
「年が明けて1月6日、日本軍はスリムでイギリス軍の堅陣にぶつかった。ここで戦車第6連隊の島田豊作少佐は戦史に例のない戦車夜襲を決行する。7日午後11時からの夜襲により1日で全縦深を突破し、逃げ遅れた英印軍1個師団を包囲し壊滅させた。イギリス軍のクアラルンプール防衛計画は崩壊し、12日に同市は放棄された。」
しかし相手は近代兵器で訓練された先進国軍隊である。敗戦苦戦もないわけではない。
「1月14日にはイギリス軍を追撃中の向田支隊(戦車第1連隊基幹)がゲマスでオーストラリア第8師団の逆襲を受け壊滅するという一戦もあった。
19日、近衛歩兵第5連隊第2大隊はバクリで英印軍第45旅団と対戦し、大柿大隊長以下6割の死傷者を出しながらも英印軍を殲滅、第45旅団長を戦死させた。」
結果、
「日本軍は12月8日の上陸から55日間で、95回の戦闘を行い250本の橋梁を修復しつつ1,100キロを進撃した。海上機動も650キロに及んだ。日本軍の損害は戦死1,793、戦傷2,772。イギリス軍は遺棄死体5,000、捕虜8,000を数えた。」(以上ウィキ)
上記の他ユニークな自転車部隊、工作兵の獅子奮迅たる活躍、さらにマレー沖海戦による南シナ海の制圧など、緻密に練って大胆に実行した大本営の勇断、そしてそれにすべてこたえた日本兵士の資質という裏づけが、この勝利にはあった。
英軍にとって英領マレーに上陸された上、ジョホールバルまで占拠されるのは想定外のことだ。しかし、シンガポール要塞島はまさに日本軍の攻撃というこの日を期して備えられていた。
いっぽう、日本時間12月8日の日本軍の連合軍に対する攻撃はハワイ真珠湾、マレー・シンガポール、そして英国領の香港にも向けられた。
払暁、日本飛行隊は啓徳飛行場を奇襲、英軍機14機すべてを破壊。陸上でも奇襲を繰り返し、当初数週間と考えていた九龍島がわずか6日で陥落し英軍は香港島に撤退、迎撃の構えを見せる。
日本軍戦死22名、戦傷121名。イギリス軍の遺棄死体165、捕虜49名。
英軍は降伏勧告を拒否、逆に九龍進駐の日本軍へ香港島から砲撃を加えた。九龍占領で戦闘が終了すると考えていた日本軍は急遽香港島攻略の軍議を開始する。
[1991年、私達は日本のコタバル上陸50周年を祝いました。これがケランタン、つまり当時のマラヤにとって、意義ある出来事であったからです。ここコタバルは、日本軍最初の上陸地です。私は、戦争博物館の館長として記念行事を担当しましたが、多くの人がこの重要な出来事を、長く記憶に留めていただきたいと願っています。]
これが、日本軍のコタバル上陸に対するマレー人の評価だ。はたして、この[コタバル上陸50周年記念式典]のことを、どれほどの数の日本人が知っているだろうか、また、その戦争博物館を訪れた日本人は何人いるのだろうか。
マレー半島北端に上陸した日本軍は、1100キロの道程を英軍を粉砕しながら南下する。そしてわずか55日間という驚異的な速度で到達点ジョホールバルに到達する。英軍は全員マレー半島を捨てシンガポール島へ撤退し、ジョホールバルと島とを結んでいる一本の土手道を破壊した。英軍は篭城の構えを取った。
ジョホールバルまでの快進撃には、日本陸海軍の決死の敵前上陸もあった。いっぽうタイから進撃した陸軍は、小マジノ線といわれたジットラ陣地を攻略する。タイとの国境際にある同陣地は日本軍との戦闘を想定して半年の訓練を積んできた英印兵6千名と戦車90両で守られていた。それがたった1日、日本陸軍の一部隊581名の兵力で片付けたのである。
佐伯挺身隊の戦死27、戦傷83。英印軍の捕虜は1,000名以上であった。
実は、対米戦を主張していた陸軍は年初からマレー攻撃の猛訓練を行っていた。日本と連合国の戦機は、両陣営の周到な準備と演習の下ますます熟し、落ちるべきときに落ちたのである。
せっかくである、マレー戦役をもう少し辿ってみよう。
「馬や自転車を活用した日本軍であったが、重砲や車両の前進には橋梁の修復が不可欠であり、第25軍の進撃速度はすなわち橋梁の修復速度であった。この作業には各師団の工兵隊と独立工兵連隊とが文字通り不眠不休であたった。西海岸では舟艇機動も効果を発揮した。20人乗りの舟艇30隻を用意して運び込み、十数回にわたって海上をつたってイギリス軍の背後を奇襲した。」
「年が明けて1月6日、日本軍はスリムでイギリス軍の堅陣にぶつかった。ここで戦車第6連隊の島田豊作少佐は戦史に例のない戦車夜襲を決行する。7日午後11時からの夜襲により1日で全縦深を突破し、逃げ遅れた英印軍1個師団を包囲し壊滅させた。イギリス軍のクアラルンプール防衛計画は崩壊し、12日に同市は放棄された。」
しかし相手は近代兵器で訓練された先進国軍隊である。敗戦苦戦もないわけではない。
「1月14日にはイギリス軍を追撃中の向田支隊(戦車第1連隊基幹)がゲマスでオーストラリア第8師団の逆襲を受け壊滅するという一戦もあった。
19日、近衛歩兵第5連隊第2大隊はバクリで英印軍第45旅団と対戦し、大柿大隊長以下6割の死傷者を出しながらも英印軍を殲滅、第45旅団長を戦死させた。」
結果、
「日本軍は12月8日の上陸から55日間で、95回の戦闘を行い250本の橋梁を修復しつつ1,100キロを進撃した。海上機動も650キロに及んだ。日本軍の損害は戦死1,793、戦傷2,772。イギリス軍は遺棄死体5,000、捕虜8,000を数えた。」(以上ウィキ)
上記の他ユニークな自転車部隊、工作兵の獅子奮迅たる活躍、さらにマレー沖海戦による南シナ海の制圧など、緻密に練って大胆に実行した大本営の勇断、そしてそれにすべてこたえた日本兵士の資質という裏づけが、この勝利にはあった。
英軍にとって英領マレーに上陸された上、ジョホールバルまで占拠されるのは想定外のことだ。しかし、シンガポール要塞島はまさに日本軍の攻撃というこの日を期して備えられていた。
いっぽう、日本時間12月8日の日本軍の連合軍に対する攻撃はハワイ真珠湾、マレー・シンガポール、そして英国領の香港にも向けられた。
払暁、日本飛行隊は啓徳飛行場を奇襲、英軍機14機すべてを破壊。陸上でも奇襲を繰り返し、当初数週間と考えていた九龍島がわずか6日で陥落し英軍は香港島に撤退、迎撃の構えを見せる。
日本軍戦死22名、戦傷121名。イギリス軍の遺棄死体165、捕虜49名。
英軍は降伏勧告を拒否、逆に九龍進駐の日本軍へ香港島から砲撃を加えた。九龍占領で戦闘が終了すると考えていた日本軍は急遽香港島攻略の軍議を開始する。
これは メッセージ 1 (hendazo04 さん)への返信です.
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