当板における25条論争のアキレス腱。
投稿者: chonmage_johney 投稿日時: 2009/06/02 21:33 投稿番号: [5674 / 7638]
トピ主殿、そして常駐の方々、お邪魔します。m(__)m
興味のある話題だったので、単発ながら、ちと割り込み失敬します。
なんか、憲法25条を基に、外国人の人権がどーこーという論争(=dispute)が起きているようですが・・・・、肝心カナメな判例理論を忘れちゃいけませんな〜。というのが、ざっと見た感想です。
肝心カナメな・・・・、
それは後ほど。
え〜、日本国憲法が定める人権には、大きく分けて、
① 国家があって初めて観念できるもの。
例として、社会権(25条)、選挙権(15条1項)。
② 国家の存在を前提としないもの。
とに分けることができます。言い換えれば、“天賦の権利”であり、“国家に先んじる権利”です。具体例を挙げると、思想及び良心の自由(19条)、財産権(29条)などです。これらを総称して、「国家からの自由」と呼びます。法思想的に遡ると、ジョン・ロック(John Locke 1632-1704)に辿り着きますが、ここではこれ以上触れません。
結論を述べると、我が国に在留する外国人にも保障される人権は、②です(但し例外アリ)。なにしろ、“前国家的で生まれながら”に有していますから。で、権利としては強いのです。
※ 厳密に書くと、精神的自由(19条)>>経済的自由(29条) ということになっているようですが・・・
で、社会権(憲法25条など)ですが、本質は『国家の社会保障的施策を受ける権利』で、国家の存在を前提とします。つまり、②の権利ではないので、憲法は外国人に社会権を保障するものではありません(判例・通説)。自国民を在留外国人に優先させることは認められます。一方で、判例は、法律を以て外国人に社会権を保障することは、憲法上禁止されるものではない。ともしています。
(蛇足ながら、憲法30条をタテに云々というのを見たような気がしますが、憲法83条と84条をご覧ください。前者が財政民主主義、後者が租税法律主義とそれぞれ呼びます)
要するに、国の福祉政策などは、まったく立法府の裁量に委ねられますし、三権分立の大原則もあって、裁判所も関与しづらい分野なのです。よって権利としてはあんまり強くないのです。
で、改めて憲法25条を吟味します。
この条文を基に論を進める場合、避けて通れないのが、冒頭付近で触れた、
肝心カナメの
『プログラム規定説』
という判例理論です。(朝日訴訟・S42.5.24 堀木訴訟・S57.7.7)
これは、
“25条は国の政治的・道義的目標を示すにとどまる規定”
という意味であり、一読した通り、実現できなくとも、「法的責任」は生じませんし、元々法的な意味も無いのです。目標ですから。よって、国民の権利ではないということも意味します。くどいようですが、国の目標ですからね。②とは大きく異なり、純粋な法律問題というよりは、政治の問題であり、立法政策の問題なのです。しかも全くの自由裁量。よって、露骨な人種差別を助長するかのような福祉政策とかが立法されない限りは、少なくとも『違憲』の問題は生じません。
というわけで、“憲法25条に基づいて・・・”は、判例理論を応用し、換言すれば、『政治家の自由裁量に基づいて』となりえるワケです。
以上のことから、憲法25条を用い、「国民の権利」云々を主張するのは、底なし沼に10階建てのビルを建てるが如しです。この条文は国民の権利を定めたものではありませんから。
それに、社会権は在留外国人に当然に保障されるワケでもありませんから。
もう一度書きますが、少なくとも判例理論では、政治家の所謂“努力目標”でこそあれ、原則として国民の権利ではないのです。況や在留外国人をや。
しかし、『プログラム規定説』で検索したところ、その説とは不可分の関係にあるその条文で理論武装を試みたい某氏の書き込みに、『プ』の字も無かったというのが信じられません。憲法とか関連判例等をよく調べているかのような外観を呈しながら、この態度は非常に理解に苦しみます。
故意か偶然かは知りませんが、この場合、超重要判例理論を無視すると本質を大きく踏み外してしまいます。
失礼を承知の上で書きますと、ハタから見てグダグダに映って仕方ない最大の要因は、『プログラム規定説』無しで、憲法25条を論じているといる点にあると思います。
というわけで、長々と失礼しました。
興味のある話題だったので、単発ながら、ちと割り込み失敬します。
なんか、憲法25条を基に、外国人の人権がどーこーという論争(=dispute)が起きているようですが・・・・、肝心カナメな判例理論を忘れちゃいけませんな〜。というのが、ざっと見た感想です。
肝心カナメな・・・・、
それは後ほど。
え〜、日本国憲法が定める人権には、大きく分けて、
① 国家があって初めて観念できるもの。
例として、社会権(25条)、選挙権(15条1項)。
② 国家の存在を前提としないもの。
とに分けることができます。言い換えれば、“天賦の権利”であり、“国家に先んじる権利”です。具体例を挙げると、思想及び良心の自由(19条)、財産権(29条)などです。これらを総称して、「国家からの自由」と呼びます。法思想的に遡ると、ジョン・ロック(John Locke 1632-1704)に辿り着きますが、ここではこれ以上触れません。
結論を述べると、我が国に在留する外国人にも保障される人権は、②です(但し例外アリ)。なにしろ、“前国家的で生まれながら”に有していますから。で、権利としては強いのです。
※ 厳密に書くと、精神的自由(19条)>>経済的自由(29条) ということになっているようですが・・・
で、社会権(憲法25条など)ですが、本質は『国家の社会保障的施策を受ける権利』で、国家の存在を前提とします。つまり、②の権利ではないので、憲法は外国人に社会権を保障するものではありません(判例・通説)。自国民を在留外国人に優先させることは認められます。一方で、判例は、法律を以て外国人に社会権を保障することは、憲法上禁止されるものではない。ともしています。
(蛇足ながら、憲法30条をタテに云々というのを見たような気がしますが、憲法83条と84条をご覧ください。前者が財政民主主義、後者が租税法律主義とそれぞれ呼びます)
要するに、国の福祉政策などは、まったく立法府の裁量に委ねられますし、三権分立の大原則もあって、裁判所も関与しづらい分野なのです。よって権利としてはあんまり強くないのです。
で、改めて憲法25条を吟味します。
この条文を基に論を進める場合、避けて通れないのが、冒頭付近で触れた、
肝心カナメの
『プログラム規定説』
という判例理論です。(朝日訴訟・S42.5.24 堀木訴訟・S57.7.7)
これは、
“25条は国の政治的・道義的目標を示すにとどまる規定”
という意味であり、一読した通り、実現できなくとも、「法的責任」は生じませんし、元々法的な意味も無いのです。目標ですから。よって、国民の権利ではないということも意味します。くどいようですが、国の目標ですからね。②とは大きく異なり、純粋な法律問題というよりは、政治の問題であり、立法政策の問題なのです。しかも全くの自由裁量。よって、露骨な人種差別を助長するかのような福祉政策とかが立法されない限りは、少なくとも『違憲』の問題は生じません。
というわけで、“憲法25条に基づいて・・・”は、判例理論を応用し、換言すれば、『政治家の自由裁量に基づいて』となりえるワケです。
以上のことから、憲法25条を用い、「国民の権利」云々を主張するのは、底なし沼に10階建てのビルを建てるが如しです。この条文は国民の権利を定めたものではありませんから。
それに、社会権は在留外国人に当然に保障されるワケでもありませんから。
もう一度書きますが、少なくとも判例理論では、政治家の所謂“努力目標”でこそあれ、原則として国民の権利ではないのです。況や在留外国人をや。
しかし、『プログラム規定説』で検索したところ、その説とは不可分の関係にあるその条文で理論武装を試みたい某氏の書き込みに、『プ』の字も無かったというのが信じられません。憲法とか関連判例等をよく調べているかのような外観を呈しながら、この態度は非常に理解に苦しみます。
故意か偶然かは知りませんが、この場合、超重要判例理論を無視すると本質を大きく踏み外してしまいます。
失礼を承知の上で書きますと、ハタから見てグダグダに映って仕方ない最大の要因は、『プログラム規定説』無しで、憲法25条を論じているといる点にあると思います。
というわけで、長々と失礼しました。
これは メッセージ 1 (beiowolf119jp さん)への返信です.
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