南京大虐殺・従軍慰安婦強制連行は事実
Yahoo! Japan 掲示板トピックビューアー
◆世界一厳正だった日本軍の軍紀
投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/22 20:58 投稿番号: [28822 / 29399]
日本軍の軍紀に就いては、北清事変(義和団事件)当時にも欧米列強から賞賛され、各国軍隊の模範とされたことがあるが、かつて我々が中国戦線を征ったとき、その先々で中国民衆から熱烈歓迎を受けたのも、それは故なきことではない。
そんなことを知ってか知らずか、いわゆる戦後の進歩的文化人と称する売国奴どもは、日本軍の残虐行為なるものを捏造して、繰り返し繰り返し己の母国を罵倒しつづけているが、外国人(台湾)の評論家黄文雄氏は、次のように正鵠を射た卓見を述べている。
黄文雄氏の言によれば、事実は全く正反対で、日本軍はいつでもどこでも軍律厳しく、しかも人間性豊かであった。それに対して中国軍は残忍極まりない武装集団で、今なお彼らは自国民に対する飽くなき収奪と虐殺を繰り返している。それは中国四千年の動乱の歴史の連続であり、伝統ともいうべき不幸な現実である。
日本軍は日清戦争(1904〜1905)以来大東亜戦争(1941〜1945)に至るまで、変わることなく軍紀厳正であった。中国民衆にとって、いつ襲って来るかわからない自国の暴徒の如き武装集団に比べ、軍紀厳正な日本軍を信じ熱烈歓迎するのは当然のことで、決して日本軍に阿(おも)ねたり恐れてのことではなかったのである。
フランスの国際法学者フォーシーユは、日本軍を賛えて次のように語っている。「日中戦争で日本軍は、敵が国際法を無視したにも拘らず自らはこれを守り、日本軍人であることに誇りを持っていた。中国兵は卑怯にして残虐極まりない軍隊で、例えば中国軍の捕虜になると、四肢を斬り分けられ、生きながらに火炙(あぶ)りにされたり、磔(はりつけ)にされたりしたのである。更に日本兵の屍に対しても、酸鼻を極めた蛮行を行っている。即ち死者の首を切り落とし面皮を剥ぎとり、或は男根を切り落し、胸部を切り開いて石を詰め込み、首は両耳を穿って紐や針金を通し、さながら魚を串刺しにしたように口から喉に紐を通して持ち運びする等々、それが中国軍の戦争様式であり、日本軍には絶対に見ることのできない支那の戦争文化である」と。
フランスのフィガロ紙の従軍記者カレスコート・イリュスト、ラシオン紙の記者ラロ、両氏の『日本軍戦闘観戦記』によれば、
「日本軍隊は世界に対して誇るに足る名誉を有する。吾らは日本軍の如き慈愛心の富める軍隊を、この地球上広大なりといえども他に発見し得るか怪しむものなり」
と絶賛し、中国軍の暴虐蛮行については次のように記している。
「ひるがえって中国軍を見よ。日本兵のひとたび彼らの手に落つるや、あらゆる残虐の刑罰をもってこれを苦しむるなり。その残虐非情なる行為は、正に野蛮人にあらざれば為し得ざるものなり。然るに日本軍は、これあるにもかかわらず、暴に報ゆるに徳をもってす。さすがに東洋の君主国に愧じずというべし。」
北清事変(義和団事件)において、当時従軍した日本軍の軍紀が欧米列強の評判となり、賞賛されたことは冒頭に述べたが、その事実の証として次のような事があった。
天津落城の際天津市民は、「大日本順民」と書いて日章旗を掲げて日本軍に感謝の意を表明した。
また北京落城後、列強連合軍は北京市内を国別に分割管理したのであるが、その時ロシア軍管区では、軍紀が乱れてロシア兵が暴徒と化し、虐殺、放火、強姦など暴行の限りを尽し、そのため市民は難を逃れて日本軍管区へ洪水の如くに押し寄せた。たまりかねた北京市長は、その暴状を英国公使マクドナルドに訴え、ロシア管区を日本管区に替えるよう嘆願したという。
これらの事実は、ウッドハウス・映子の『北京燃ゆ』やジョージ・リンチの『文明の戦争』等に記述されている。およそ戦争の形態とか様式などというものは、その国々の文化様式でもある。武士道社会の伝統を受け継いだ日本軍は、近代戦の戦場に於ても武士道精神を発揮し、軍律厳しく整然と戦ったのである。
そして日本政府は、在日中国人に対しては戦時中と雖も国際法を守り、彼らの生命財産を守ったのであるが、在中国の日本人居留民は、日中間に紛争が起こるたびに虐殺、掠奪、暴行を受けつづけたことは、日清戦争以来枚挙にいとまがない事実である。
さて、これらの事例は、外国人の見聞記であるところに大きな意味と価値がある。日本人の自画自賛では決してないのである。日清戦争から大東亜戦争に至る聖なる戦いを、日本人でありながら臆面もなく、総て侵略戦争なりと言い切る「似て非なる日本人」よ、もって如何となすや。
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28822.html
Re: 南京虐殺は無かった3
投稿者: nidanidao 投稿日時: 2012/12/22 20:33 投稿番号: [28820 / 29399]
>当時日本軍には食糧が無かったというお馬鹿さんが居る様だね。
以下に示す様に、給與都は食事のことだから、携行しているものを使用すると言うことは、日本軍は携行口糧を持っていたんだよ。
携行口糧はあくまで非常食であって、それだけじゃ長期戦は乗り切れん。
上海事変から南京攻撃まで3、4か月かかっている。
地元の農家からの生鮮食料品の略奪にしろ買い入れにしろ、それが無い限り、南京まで到達するのは無理だ。
日本軍は兵站を軽視しすぎた。
これは メッセージ 28806 (nya**otyan*dam*n さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28820.html
Re: ■南京市民と日本軍とのふれあい
投稿者: nidanidao 投稿日時: 2012/12/22 20:26 投稿番号: [28819 / 29399]
>日本軍舎の前では、シナ人の子どもたちが爆竹を鳴らして、歓声をあげていた。
以上が、南京で起った事実です。
ありえん!
それも日本軍舎の前で。
そこまで日本軍を甘く見てもらっては困る。
事実とすればその子供は往復ビンタどころじゃすまんぞ。
だいたい避難民所持品検査で、爆竹などの危険物が見逃されるはずはない。
これは メッセージ 28747 (z_gusinlp さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28819.html
Re: 海軍関係者の記述(3)
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/22 18:10 投稿番号: [28818 / 29399]
航空隊は南京城内に来たのは、何時のことかを知らん様だね、その航空隊将校とは。
航空兵団戦闘要報漢第一号
昭和十三年八月二十日
兵団作戦指導
1.南京飛行場設定に要する輸送力不足を補う為南京に於いて航空兵団第一臨時自動車隊を編成す其の編成及び機器の大要左の如し
左記
長
将校一
以下一二四名
自動車五〇輛
↑証言者の裏付けをチャンと取る必要があるよね。
これは メッセージ 28815 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28818.html
Re: 海軍関係者の記述(2)
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/22 17:45 投稿番号: [28817 / 29399]
海軍か俘虜にした中国兵はどうなったんだろうね、記録に在るが。
これは メッセージ 28814 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28817.html
Re: 海軍関係者の記述(1)
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/22 17:44 投稿番号: [28816 / 29399]
海軍の証言は信憑性が無いよね依り以上に、何故なら当時の乗船艦を特定していないからね。
船名が解れば、当時何をしていたのかは、記録に残っているから、陸軍以上の解りやすい。
これは メッセージ 28813 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28816.html
海軍関係者の記述(3)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/22 16:51 投稿番号: [28815 / 29399]
念のため付記するが、奥宮正武氏は
反日サヨクとやら
ではない。
戦時中は航空隊参謀として活躍し、戦後は航空自衛隊学校長などを
務めた根っからの軍人だが、その専門家が
自ら目撃した事実により
民間人を含む無抵抗の中国人を対象として
虐殺が行われていたこと、
それが、組織的に
整然と実行されていたことを
証明している。
彼は、次のように
所見を述べている。
二日間のことから察して、それが戦場にありがちな一時的な、
興盲状態での対敵行動であるとは
私には思われなかった。
この日もまた、一連の処刑が、ある種の統制のとれた行動で
あるように感じた。
戦争中であっても、また、たとえ
敵国の人民だからといって、
何をしても許される
ということには、ならない。
海軍将校であった奥宮氏も、そのことを
十分理解していた。
その観点から、南京での事実を
次のように
結論づけている。
私は、この二目間に
下関で見た
合計約二十台分の、
言いかえれぱ、少なくとも
合計五百人以上の中国人の
処刑だけでも、大虐殺であった、と信じている。
もっとも、どれだけの被害者があれば
大虐殺であるかに
ついては、人それぞれに見解の相違があるかも知れないが。
それらに加えて、玄武湖の湖上や湖岸で見た大量の死体の
こととも考え合わせて、正確な数字は
分からなかったが、
莫大な数の
中国人の犠牲者があったのではないか、と
考えざるを
えなかった。
そうだとすれば、それは、明らかに、国際法上の大間題
ではないか
と思われた。
が、当時の私には、そのことを突っ込んで検討する時間的な
余裕がなかった。
(奥山正武著
『私の見た南京事件』
より引用)
容疑者の自白、そして
被害者や
目撃者による
証言は、
犯罪捜査でも
裁判でも、犯行事実を証明する直接証拠となる。
南京虐殺事件に関しても、同様のことが
言える。
否定論は、いずれも
「なかったはずだ」
「信じられない」
「あったとは思えない」
という主観論、憶測に
過ぎない。
これに対して、その時・その現場に居た者の証言は
客観的で、
具体的な供述であり、「直接証拠」
としての価値を有している。
これは メッセージ 28814 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28815.html
海軍関係者の記述(2)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/22 16:50 投稿番号: [28814 / 29399]
日本軍兵士のよる虐殺は、一部の不届き者が
衝動に駆られて
偶発的に引き起こしたものではないことが、多くの
目撃談や
記録資料によって
明白となっている。
元海軍将校
奥宮正武氏の証言の続きを
引用してみよう。
そこで、私は、付近にいた一人の若い陸軍士官に、尋ねた。
「なぜこのようなことをするのか」
答えて日く、
「数日前の夜、一人の勇敢な中国人が、わが
陸軍の小隊長級の若い士官十名か十一名かは分かりませんが
寝ている寝室に侵入して、全員を刺殺したそうです。そこで、
彼らの戦友や部下たちが、報復のために、その宿舎の付近の
住民を処刑しているとのことです」
彼の説明が正しかったか否かは
私には分からなかった。
そう説明するように教えられていたのか知れなかった。
奥宮氏に対する陸軍士官の説明が、もしも
正しかったとしたら、
宿舎付近の住民を
つかまえて、「処刑」
したということであり
復讐心に駆られた日本兵による非戦闘員の惨殺だったことになる。
さらに、証言は
次のように
続いている。
十二月二十七日。この日は市内の西部を重点的に見回る予定
であった。
が、前々日の光景が
あまりにも鮮明に記憶に
残っていたので念のために、まず再び下関に行くことにした。
下関の処刑場に近づくと、この日もまた、城内の方から、
中国人を乗せた
無蓋のトラックが、続々とやってきて、
倉庫地帯に消えていた。
再び、警戒中の哨兵にことわって、
門を入ったところ、前々日と同じような処刑が行なわれていた。
そこで、ある種の疑間が
生じた。
それは、
「多数の中国人を
大した混乱もなく、どうして、
ここまで連れてくることができるか」
ということであった。
そこで、処刑場の入口付近にいた一人の下士官に、その理由を
尋ねた。
ところが、彼は、何のためらいもなく、
「城内で、
戦場の跡片付けをさせている中国人に、“腹のすいた者は手を
上げよ”
と言って、手を上げた者を食事の場所に連れていく
かのようにして、トラックに乗せている
とのことです」
と説明してくれた。
そこで、更に、「日本刀や銃剣で処刑しているのはなぜか」
と質間したところ、
「上官から、弾薬を
節約するために、そうするように
命じられているからです」
との答が
返ってきた。
このような処刑が、南京占領から
二週間近くを経た後の
二十五日と二十七日に
手際よく行なわれていた。
戦闘中の殺害ではなく、また
敵対する便衣兵の掃討でもなく、
あきらかに
捕虜となった敗残兵を、組織的に
処刑していた
という事実が
示されている。
その異常な光景が、「あまりにも鮮明」
な記憶となったのだ。
これは メッセージ 28813 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28814.html
海軍関係者の記述(1)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/22 16:49 投稿番号: [28813 / 29399]
当時の中国の首都、南京を武力占領したのは
陸軍であるため、
大虐殺があった事実を示す多くの証言や記録は、おもに陸軍の
関係者によるものだが、ここで
海軍関係者の証言についても
参考として
あげておきたい。
南京周辺で撃墜された海軍機の
乗務員の遺体を捜索するため、
占領直後の南京に入った
海軍将校が、そこで目撃した虐殺の
状況に関し、客観的な視点から
冷静に記述している。
以下、奥宮正武著
『私の見た南京事件』
より引用。
下関は、南京と揚子江の対岸にある浦ロとともに、交通の
要衝であった。
浦ロは、私が上海着任直後に、最初に、
爆撃したところでもあった。
下関には
かなり大規模な
停車場と開源碼頭(波止場)があった。
そこで、その付近を見回っているうちに、陸軍部隊が
多数の中国人を
文字通り虐殺している現場を見た。(略)
構内の広場に入って見ると両手を後ろ手に縛られた中国人
十数名が、江岸の縁にそって数メートル毎に引き出されて、
軍刀や銃剣で惨殺されたのち、揚子江に投棄されていた。
岸辺に近いところは、かなり深く目に見えるほどの速さの
流れがあったので、ほとんどの死体は下流の方向に流れ去って
いた。
が、一部の死にきれない者が
もがいているうちに、
江岸から少し離れたところにある浅瀬に流れついていたので
付近は血の川となっていた。
そして、死にきれないものは銃撃によって止めが刺されていた。
この一連の処刑は、流れ作業のように、極めて手順よく
行なわれていた。
大声で指示する人々もいなかった。
そのことから見て、明らかに陸軍の上級者の指示によるもの
であると推察せざるをえなかった。
したがって、部外者である私が
ロを出す余地はないと感じた
次第であった。
----
-
証言者である
奥宮正武氏は、高知県出身の
海軍軍人で、
戦後は
航空自衛隊に勤務し、空将で退官した人物だ。
南京事件当時の階級は海軍大尉で、航空隊分隊長を務めていた。
海軍兵学校出身で、歴戦を経験してきた
軍事の専門家であり
その視点は、冷静かつ的確に
現場の状況を
把握している。
彼が目撃した
虐殺の様子からは、戦闘の混乱の中で中国兵を
殺害したのではなく、抵抗できない
中国人たちを
組織的に、
「流れ作業のように、極めて手順よく」
処刑していたことが
分かる。
また、彼は
その状況からみて、上部からの指示によるものと
軍人としての視点から推察できた
という事実も記している。
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28813.html
◆人類史上最悪の捏造 「南京大虐殺」
投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/22 16:27 投稿番号: [28812 / 29399]
当時の中国軍には、「占領されるくらいなら何もかも破壊してしまえ」との考えがあったそうで、南京以外にも日本軍が攻め込む前に村ごと焼き払って敗走した事が何度もあったそうです。
南京市民から略奪した後は、国民党軍の殆どが敗走し、一部が奪い取った衣服を身にまとい国際法に抵触する便衣兵となって、日本軍が占領したあとも散発的なゲリラ行為を続けてたそうです。
こうして、便衣兵を処分したのですが、それも武装解除してから市街追放する程度で、当時の「処分」=「処刑」とは違うわけです。
勿論抵抗した便衣兵やそれに疑われた人物がその場で射殺されたこともあるでしょうが、南京での死亡者の殆どがこの類であり、その数は決して多くはなかったのです。(抵抗する捕虜や便衣兵の殺害は戦場においては正当なる行為です)
当時の記録でも日本軍が南京を占領してから数万単位で人口が増加してる事実。
非常に危険だった中国大陸においては、国民党軍が治めてる地域よりも日本軍が治めている南京の方が安全と判断したからこその人口増なんですよね。
追記
日本軍が攻めてくるというのに、これから攻められる南京城に逃げ込む馬鹿がどこにいるというのでしょうか。
安全な山や草の生い茂った野原に逃げ込んで身を隠すに決まっているでしょう。
国民党軍にしても共産軍にしてもゲリラ戦術を取っていたんですから真正面から戦闘を挑んでくる訳がないのです。
南京市の人口20万人の中の中国軍のほとんどが我さきに逃げ出して、南京城はほとんど空っぽだったと考えるのが当然だし、それが歴史の真実だったでしょう。
そして日本軍が撤退した3ヶ月後に、人口が25万人へと5万人も増えたのは周辺の町から南京城へ避難した人たちによって膨らんだからに違いないのです。
何故ならば、安全区以外にいる一般中国市民は、日本のスパイとみなされて共産軍によって虐殺されるかもしれないからです。
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28812.html
なぜ「南京大虐殺」はおこったのか3
投稿者: yoko_713412 投稿日時: 2012/12/22 16:07 投稿番号: [28811 / 29399]
「南京大虐殺」についての報道
アメリカでは即報道される……世界的に知られる
日本では……初めてその全容が知らされたのは「極東国際軍事裁判」で(陥落は知らされていたが・・・)
(極東国際軍事裁判提出資料では被虐殺者数は20万人、指揮者だった松井石根大将の責任が問われる)
コピペ
これは メッセージ 28809 (ヨーコ さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28811.html
Re: なぜ「南京大虐殺」はおこったのか2
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/22 15:15 投稿番号: [28810 / 29399]
柳条溝事件は中国共産軍が起こしたもだよ。
当初は中国軍も、日本軍も解らなかったんだよ。
中国共産党がマッチポンプを成功させたんだよ、之まで何遍も遣ってきたからね。
盧溝橋も中国軍は「盧溝橋城外の兵は中国の戦帰軍では無いので日本軍の攻撃には一切中国軍は口を出さない」と現地中国軍司令官は言っているよ。
これは メッセージ 28809 (ヨーコ さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28810.html
なぜ「南京大虐殺」はおこったのか2
投稿者: yoko_713412 投稿日時: 2012/12/22 14:42 投稿番号: [28809 / 29399]
十五年戦争の開始から南京大虐殺までの経経
1931.9.18
柳条湖事件(満州事変)を引き起こし、東北三省を占領する。
(十五年戦争のはじまり)
1932.3
「満州国」成立
1933.3
世界からの非難が集まり、国際連盟を脱退
1937.7.7
盧溝橋事件
8.13
陸海空軍の大部隊で上海に進攻
(ここで、日本軍は3か月で中国を制すると豪語する)
11.12
上海陥落
(中支那方面軍司令官松井石根の指揮下、すみやかに南京に向けて進攻を開始
11.22
日本空軍、南京を爆撃、12月3日までにその数はのべ111回及ぶ
11月下旬
「南京安全区国際委員会」を設立、「難民区」の設置
12.5
3ルートに分かれ、南京進攻開始
12.8
南京に対する包囲網完成
12.10
南京城壁近くの陣地に総攻撃開始
12.13
午前9時、日本軍城内に侵入、虐殺を開始
(日本軍第16師団歩兵第30旅団の歩兵第38連隊が城北に達し、中国郡の退路を遮断)
以後、1938年1月まで虐殺が続けられ、その遭難者は30万人(中国側発表)におよぶ
コピペ
これは メッセージ 28807 (ヨーコ さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28809.html
Re: なぜ「南京大虐殺」はおこったのか
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/22 14:30 投稿番号: [28808 / 29399]
右側支隊命令
十二月十二日午後〇時五十分
於
堯化門北方高地
一.微弱ナル敵ハ尚北方ニ残留シ在リ先遣大隊ハ本日午前十一時三十分十字街方向ニ進出シ該地東側高地ニ在ル敵ヲ攻撃中
師団主力ハ今朝来攻撃ヲ続行中ナルガ如シ
二.支隊ハ今ヨリ玄武湖北方地区ニ向ヒ転進セントス
三.先遣隊ハ前任務ヲ続行スベシ
四.前衛ハ午後一時二十分其ノ歩兵先頭ヲ以テ銀吼山北側ヲ出発シ岡下馬営ヲ経テ十字街ニ向ヒ前進スベシ
五.前衛ハ依然現態勢ニ在リテ支隊ノ転進ヲ掩護スベシ後命ヲ待ッテ夜暗ヲ利用シ支隊本部ニ追及シ得ベキ準備ニ在ルベシ
六.後衛ハ支隊ノ転進ヲ掩護シタル後一切ノ後方機関ヲ掩護シテ支隊本部ニ追及スベシ
但シ一部ヲ以テ残置シ軍直轄ノ砲兵及衛生機関等掩護ニ任ゼシムルヲ要ス又敵状ニ在リテハ其ノ大部ヲ以テ現任地付近ニ於イテ駐止戦後ノ必要ヲ生ズル場合ヲ顧慮スルヲ要ス
七.本隊タル諸隊ハ逐次堯化門付近ニ集合左ノ序列ニ従ヒ前衛ノ後方千米ヲ続行スベシ
八.余ハ本隊ノ先頭ヲ行進ス
支隊長
佐々到一
軍隊区分
先遣大隊長
歩兵第三十三連隊第一大隊(第二中隊欠)
旅団無線一機
前衛
司令官
助川大佐
歩兵第三十八連隊本部
第一大隊(第三中隊欠)
工兵小隊
軽装甲車第八中隊
左側衛
歩兵第三十八連隊第二大隊(第5中隊欠)
本隊
支隊司令部
歩兵第三中隊
歩兵第五中隊
野砲兵大隊(一中隊欠)
迫撃小隊
歩兵第十一中隊
各人各隊ノ武功ニシテ特ニ抜群ナルモノ
(1)各人武功特ニ抜群ナルモノ
第一大隊長
陸軍歩兵中尉
竹内
正
連隊副官
陸軍歩兵少尉
児玉義雄
第一中隊長
陸軍歩兵大尉
奥藤悟一郎
連隊旗手
陸軍歩兵少尉
蛭澤憲一
連隊通信班長代理
陸軍歩兵准尉
西峯義雄
連隊本部要員
陸軍歩兵伍長
久保
實
軍旗歩哨
陸軍歩兵上等兵
上田正夫
同
同
増田善祐
同
同
奥西二三四
同
同
奥田信造
同
同
宮本源三郎
独立軽装甲車第八中隊長
陸軍歩兵大尉
福田林治
(2)各隊武功特ニ抜群ナルモノ
第一大隊
第一中隊
独立軽装甲車第八中隊
↑個人の表彰も在ったんだね。
自棄糞になることはなかったんだよ、君の説は間違い。
旧進撃の為に中国兵が逃げ遅れたんだね、残念だね、君の説は間違い。
中国人を蔑視していたという資料は無いよね、中山陵も破壊していないし、壮士廟も破壊していないしね。
コピペは駄目だよ。特に間違いのコピペはね。
これは メッセージ 28807 (ヨーコ さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28808.html
なぜ「南京大虐殺」はおこったのか
投稿者: yoko_713412 投稿日時: 2012/12/22 13:24 投稿番号: [28807 / 29399]
①
天皇が統帥する日本の軍隊では上官の命令には絶対服従
→兵士一人一人の人間性が無視された(兵士の心がすさんでゆく)
②
上海での3か月あまりにおよぶ苦戦の末、南京進撃を命じられた兵士らがやけくそ状態になっていた
③
急進撃のため、戦闘部隊に兵たん部隊が追いつけず、現地(南京)での徴発、自活が命ぜられた
④
日清戦争からの中国人差別視
(コピペ)
これは メッセージ 1 (yuu*ou*eiwa さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28807.html
南京虐殺は無かった3
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/22 12:35 投稿番号: [28806 / 29399]
当時日本軍には食糧が無かったというお馬鹿さんが居る様だね。
以下に示す様に、給與都は食事のことだから、携行しているものを使用すると言うことは、日本軍は携行口糧を持っていたんだよ。
食糧が無かったなど、中国人の絵空事だよ。
又、軍の統制がとれていなかったという馬鹿も居るようだけど、下記のようにチャンと統制がとれていたんだね。
歩兵第三十八連隊命令
十二月十四日午後九時
於
下関
一.敗走セル敵ハ尚残留シアリ
二.連隊(第二大隊欠)ハ一部ヲ以テ要点ヲ確保シ主力ヲ以テ下関ニ兵力ヲ集結シ村落宿営セントス
三.第一中隊ハ和平門及中央門ノ守備ニ任ズベシ特ニ支那人ヲ一切出入リセシムベカラズ
四.各隊ハ外宿営者ノ指示セル所ニ従ヒ村落露営スベシ
五.露営司令官宮武中佐トス
六.本夜ノ給與ハ携帯セルモノヲ使用スベシ
七.第三大隊ハ連隊砲ノ給與ヲ担任スルモノトス
衛生隊ハ中央門外ニ繃帯所ヲ開設シアリ第三野戦病院ハ城内中央医院ニアル筈
八.余ハ露営地ノ略々中央ニ在リ午後十一時三十分命令受領者ヲ差出スベシ
連隊長
助川大佐
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28806.html
南京虐殺は無かった2
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/22 12:29 投稿番号: [28805 / 29399]
砲艦二見の航泊日誌より抜粋
昭和十二年十二月十二日
0750艦長寄港
0758同上帰艦
0805試運転施行(結果良好)
0830寄港用意(上流え向く)
0831近錨
0831起錨
〃
12節機械適宜
0834解散
0835配置に付く
0853都天廟砲台を砲撃制圧す
0900焦山水道通過
0907鎮江下流3哩附近の左岸に敵兵数名を認め撃退す
0920爪洲付近に現れたる敵兵及び陣地を砲撃銃撃に依り撃壊す
0930爪洲通過
1033先航掃海艇の響導船となる為強速にて進行す
1115北星洲通過
1130旧揚子懸通過
1200三河口通過
1230烏龍山砲台対岸付近の野砲陣地より盛んなる砲撃を受け進出不利と認め各艦大河沙上流に避退仮泊す
1310仮泊用意
1318右投錨
1355寄港用意(6号掃海艇の泊地設置の掩護を行う)
1358近錨
1359起錨
1401解散
1402配置に付く
1407烏龍山対岸野砲陣地を撃破す
1430主隊入泊
1435以前の錨地に仮泊す
1450山風の砲撃に妨害せざる様左岸近く転錨す
1530配置に付く
1604艦内四直哨戒トス
2315熱海出港(閉塞点捜索の為)
昭和十二年十二月十三日
0315勢多入港(閉塞点爆破作業を終え)
1037勢多保津偵察の為上江
1300上流より漂流し来たる敵敗残兵の討伐に努
1350出港用意(南京向け)
1351近錨(12節機械適宜)
1352起錨
〃
解散
〃
配置に付く
1445第十一戦隊将旗を一時江風に移す
1520烏龍山下流閉鎖点通過
1535烏龍山砲台沖通過
1620候家山付近にて敗残兵約20名の逃走するを認め砲撃す
1700南京入港命に依り草鞋洲一帯の敵敗残兵の討伐に行く
1720鵲鴻舵反航上江
1730南京下流十哩附近にて反転上江す
1830草鞋洲対岸ハルク二箇所を攻撃延焼す
1840熱海舵反航
1845敗残兵の掃蕩を終わり錨地に向かう
1900仮泊用意
1925解散
〃
艦内二直哨戒とす
錨地
南京海軍錨地左岸
錨鎖
右3節
水深
25米
低質
泥
昭和十二年十二月十四日
0715第二、第三号掃海艇下流に向け出港
0800出港用意(草鞋峡の残敵掃蕩の為)
0815内火艇を卸す
0830陸戦隊員集合
0835配置に付く
0850陸戦隊出航
0925同上帰艦
0930内火艇を揚ぐ
0935草鞋洲ビーコン附近にて敵敗残兵多数を認め砲撃銃撃撃滅す
1000漂流中の敵兵一名を本館に救助す
1032内火艇を卸す(江岸の小蒸汽臨検の為)
1050内火艇を揚ぐ
1415内火艇を卸す(陸上偵察の為)
1430内火艇を揚ぐ
1550草鞋峡の掃海の為下航す
1640掃海作業開始
1647導索を流す
1649導索結合
1650同上入れ始む
1651同上入れ終わり
1727掃海索岩に懸かり航進困難となりたる為曳索を放つ
1731掃海索を離す
1740掃海を中止し掃海索を揚收に行く
1757宋家索を揚收し設標す
1800掃海作業終了
1853仮泊用意
1858左投錨
1905解散
↑当時南京付近には多くの艦船が航行していたんだね。
江岸で俘虜を銃撃しているのを見たという証言は、海軍側には無い様だね。
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28805.html
南京虐殺は無かった
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/22 10:54 投稿番号: [28804 / 29399]
・南京城内掃討戦時の残敵予想
5〜6千名
・南京城内の市民は略一箇所に集合していた事(安全区)
・城内の残敵の團体号は第三六師の一部、教導総隊と清涼山砲台守備隊の一部
・下関の銃撃戦(昭和十二年十二月十三日)に於ける推定中国兵約5〜6千名
・江岸及び江中に於いて、日本軍が攻撃したのは中国兵五百名
・昭和十二年十二月十日から十二日までの間の中国兵俘虜
将校70名
准士官下士官兵7130名
後部機関に引渡済
・昭和十二年十二月十四日南京城内掃討戦時に、南京城外(堯化門付近午前八時三十分頃、午後一時武装解除)で投降し俘虜となった中国兵
将校
70名
准士官下士官7130名
後部機関に引渡済
・昭和十二年十二月十四日師団と海軍間に電話連絡線設置、軍艦勢多−旅団
軍艦勢多の航泊日誌より抜粋
昭和十二年十二月十日
鎮江碇泊
昭和十二年十二月十一日
鎮江碇泊
昭和十二年十二月十二日
鎮江碇泊
昭和十二年十二月十二日
■子口碇泊
昭和十二年十二月十三日
南京碇泊(南京遡航作戦終了、先頭艇として南京に進出す)
1329打方始め
1410打方止む
1445打方待て
1537打方始め(目標七里洲附近筏上の敗残兵)
1545打方待て
1555■停止
1559津浦線下関碼頭に横付け、同埠頭上の敵約200名と戦闘開始
1615横付けを離す
〃
■前進原速
1625■前進微速
〃
入港用意
1630■停止
1632投錨
左7節
梅子洲下端
1637解散
正午迄の間の周囲を流るる敵敗残兵に対し小銃を以て射撃す
昭和十二年十二月十四日
0928中興碼頭に横付け
1415二見入港
1510二見下江
1625二号掃海艇入港
1630出港用意
1631後部舫索を話す
1632全部舫索を話す
1634■前進原速
1640入港用意
1645輛舷停止
〃
全部舫索を取る(中山碼頭)
1657解散
1735陸戦隊員出発(桟橋付近掃蕩)
1945同上帰艦
上記の状態で海軍に目撃者が居ないことは考えられない。
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28804.html
◆南京大虐殺という醜悪なる歴史の捏造④
投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/22 01:48 投稿番号: [28803 / 29399]
当時、同盟の特派員であった故前田雄二氏(元日本プレスセンター専務理事)は、内外のニュース社発行の「世界と日本」の中で次のように述べています。
「いわゆる“南京大虐殺”というのは、2〜30万という数は別としても、主として住民婦女子を虐殺したというものだとされている。
ところが殺されなければならない住民婦女子は、当時全部“難民区”内にあって、日本の警備司令部によって保護されていた。
そして私の所属していた同盟通信社の旧支局はこの中にあり、入城4日目には、私たち全員はこの支局に居を移し、ここに寝泊まりして、取材活動をしていた。
すなわち難民区内が私たちの生活圏で、すでに商店が店を開き、日常生活を回復していた。
住民居住区の情報はちくいち私たちの耳目に入っていたのだ。
こういう中で、万はおろか、千あるいは百をもって数えるほどの虐殺が行われるなど、あり得るはずはなかった。
すなわち“捕虜・便衣兵の処刑・殺害”はあったがそれは戦闘行為の枠内で論ぜられるべきものであって、非戦闘員の大量虐殺などはなかった。
それがさ も事実あったかのように伝えられ、教科書にまで記載されるということは、見過ごしていいことではない。」
当時、反日的な報道をしていた米紙「タイム」でさえ、「日本軍は“安全区”をちょっぴり可愛がった」と、評しています。
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28803.html
◆南京大虐殺という醜悪なる歴史の捏造③
投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/22 01:47 投稿番号: [28802 / 29399]
当時の国民党や八路軍の連中がどれだけ酷いことをしてきたか。
ニューヨーク・タイムズのダーディン記者が、当時の様子を「支那軍による焼き払いの狂宴」と題して次のようにレポートしています。
「昭和12(1937)年12月7日、日本軍が句容を越えて進撃し始めたことが支那軍による焼き払いの狂宴の合図となった。
南京に向けて15マイルにわたる農村地区では、ほとんどすべての建物に火がつけられた。
村ぐるみ焼き払われたのである。
農業研究書、警察学校その他多数の施設が灰塵に帰した。
火の手は南門周辺地区と下関(シャーカン)にも向けられた。
支那軍による焼き払いの損害は優に3000万ドルにも及ぶ。
これは日本軍の何ヶ月にもわたって行われた空襲による損害よりも大きい。」
そしてこの12月7日に、蒋介石や馬超俊市長は、自分たちだけさっさと飛行機で逃亡しているのです。
つまり、蒋介石や馬超俊市長は、それまで南京を国民党の本拠地としていながら、日本軍が近づいたと知るや否や、20万の市民と約5万の敗残兵を置き去りにして、そくさくと逃亡している。
あまりにも無責任です。
一方、南京攻略をした松井軍司令官は、攻城戦に際して、南京市内の安全区に対する砲爆撃を厳禁し、占領翌日の14日には、安全区の出入り口全てに歩哨を立てて許可のない者の入区を禁止して庇護してもいます。
実際、14日に安全区の視察のため入区しようと思ったが、歩哨に峻拒(しゅんきょ)されて果たせなかったという東京裁判の供述もある。それほど厳しく安全区内への出入りを管理していたのです。
金陵大学病院医師マッカラム氏は、東京裁判に提出した日記の中で次のように述べている。
「(安全区に入ってきた日本軍は)礼儀正しく、しかも尊敬して私どもを処遇してくれました。
若干のたいへん愉快な日本兵がいました。
私は時々日本兵が若干の支那人を助けたり、また遊ぶために、支那人の赤子を抱き上げているのを目撃しました」
日本人を憎悪していたマギー牧師でさえ
「安全区は難民の“天国”だったかも知れない」とさえ述べている。
安全区国際委員会の書記長スマイス博士(米)も、その調査報告書の中で「住民のほとんどはここに集まっていた。難民区内は一件の火災もなく平穏であった」と述べている。
それほどまでに日本軍は、市街地の統制をきちんと取り計らっていたのです。
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28802.html
◆南京大虐殺という醜悪なる歴史の捏造②
投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/22 01:47 投稿番号: [28801 / 29399]
南京に従軍した村田和志郎氏(第18師団歩124歩兵伍長)の日記に、こんな記載があります。
<引用>
------------------------
-
湖州は浙江省の首都、呉興県政府の所在地。
城壁をはいると家屋は焼けて一面の焼け野原となり、殆ど瓦礫の巷と化していた。
とくに商店街は影も形もなく、処々に多数の支那兵の死骸が生々しい姿で倒れ転がっていた。誠に見るも無残な有様であった。
街には人影がみられない。
それでもどこからか若い女が三人でてきた。
我々の姿を見ると、彼女らは我々をぽつんと残った唯一の焼け残りの小屋へ招きいれ、いち早くズボンを脱ぐと、進んで下半身を丸出しにした。
助けてくれと一心にわれわれを拝んだ。
我々は三名で巡察の途中で思いかけぬ出来事に遭遇してしまった。
一人は娘、残る二人は人妻らしい体つきだった。
自分達は彼女らをそっとして置いてやった。
それでも恐怖に怯え、彼女ら三人はおののいて、脱いだ紺色のズボンを容易に身につけようとしなかった。
体を提供しても生命さえ助けてもらえれば、これに越したことはないと観念していたかに見えた。
また、ある民家では中年の女性が寝てうめいており、下半身を露出して指さして示し、何かわからぬ言葉を喋っていた。
支那兵は逃亡の際、この女性に迫り、拒絶されると腹を立て、銃剣を一突きにそこに突き刺したに違いなかった。
夥しい出血で苦しんで訴えている。
すぐに治安維持会(既に結成されていた中国人の自治組織)に連絡して看護員を連れてきた。さて助かったかどうか。
このようにして略奪と暴行のあとを見せつけられた。
--------------------------------
当時の支那には、政府がありません。
清が滅びて、地方軍閥による内乱状態にあった。
内乱状態の中で、被害を受けるのは、決まって武器を持たない一般市民です。
そして武器を持った支那の軍閥の代表格が国民党だった。
彼らは、支那の都市を襲い、市民に対して好き放題の乱暴狼藉を働いていた。
日本は行きがかり上、やむなく、彼らを追い払っていたのです。そしてそのひとつが、南京だった。
南京市は、乱暴狼藉軍団である国民党が、勝手に乱入して本拠地にしていたから、日本は叩いたのです。
そして市民の生活に平安を取り戻した。
なかには、市民にまぎれて、日本軍に悪さをしかける国民党のスパイや、共産党のスパイがいた。
こうした連中は、市民の協力を得て、日本軍は逮捕し、国際法上適法な範囲で軍紀に照らして処罰した。そういう連中は治安維持のために殺害した。これは当然のことです。
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28801.html
◆南京大虐殺という醜悪なる歴史の捏造①
投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/22 01:46 投稿番号: [28800 / 29399]
だいたい、戦いの最中にドンパチやりながら、「使用弾薬何発。残り弾薬数何発」と、何度も伝令を出して司令部に報告を入れなければならないのが日本の軍隊です。
それだけ日本軍は物資に乏しかった。
そのあたり、使っている武器にも、その性格がよく出ています。
日本軍の主力銃は、三八指揮歩兵銃です。
この銃は、いわゆる元込め式の単発銃です。
弾を一発一発込めて、装填してから撃つ。
いわゆる「乱射」や「集団虐殺」のようなこと自体、なじまないのです。
ハナからそういうことを想定した銃ではない。
だいたい単発銃で、30万人をいったいどうやって殺すのか。
30万人に、1発ずつ銃弾を撃ち込んで殺すとしても、それには30万発の弾薬がいります。
そんな弾薬、日本軍は持っていません。
機関銃で殺したに違いない?!
バカなことを!
当時の日本軍の機関銃は、米国製の1秒間に何発という高性能機関銃ではない。
パン・・・パン・・・パン・・・と断続的に撃つのが精いっぱい。1分間に打てる弾はおおむね40発。しかも5分も撃ったら過熱して、砲身を冷やさないと、焼き付いた。
お暇な方は計算してみてください。それで30万人殺すには、いったい何日かかるのか。
かつてそのことを指摘した人がいます。
そしたら支那いわく「日本兵は日本刀で、何万人も斬り殺した」
バカをいっちゃぁいけません。日本刀はたしかに切れ味鋭いけれど、3人も斬ったら、脂にまみれて斬れなくなる。人間の体というのは、脂にまみれて斬れなくなった刀でも通せるほどヤワじゃないです。
加えて、当時のシナ人の便服というのは、めちゃめちゃ生地が厚い。銃剣で突き刺そうとしても、素人では刃が立たなかったというのも、有名な話です。
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28800.html
埋葬記録と犠牲者数推計(3)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/21 23:29 投稿番号: [28799 / 29399]
日本軍側の
資料には、数千
あるいは数万の単位で
捕虜を
処断した
と記録されている。
はたして、これほど
大量の
殺戮が可能だったのかと
一般民間人なら
疑問に思うだろう。
南京虐殺「マボロシ派」
などは、ハナから
否定してみせる。
ところが
近代戦において、それは
じつに容易なことだ。
例えば、1万人を殺害するのに、機関銃10丁あれば
1時間、
1個歩兵中隊200名の兵力があれば、30分で
射殺できる。
その歩兵中隊を、1個連隊では
12個隊
保有していた。
もちろん、南京に攻め込んだのは
1個連隊だけ
ではない。
しかも、捕虜の殺戮は
数時間程度で
行われたわけではない。
南京攻撃に動員された日本軍の総兵力は
10万を超えていた。
そして、大量虐殺は
南京城陥落直後の
数日間ではなく、
長期にわたる
攻防戦と占領後の掃蕩作戦の中で
発生した。
しかも、一部の無法者の犯行ではなく、組織的に
実行した。
近代軍の大兵力が、小銃や
機関銃による掃射
のみならず
銃剣による刺殺などを
数日間にわたり組織的に実行すれば、
抵抗できない捕虜の
大量殺戮は、いたって
容易だった。
参考として
南京戦にあたった将校の陣中日記を見てみよう。
以下は、歩兵第65連隊
第1大隊本部・上等兵の日記だ。
十二月十六日
今日南京城に物資徴発に行く。
捕虜の廠舎失火す、二千五百名殺す。
十二月十七日
今日は南京入城なり(一部分)。
俺等は今日も捕虜の始末だ。
一万五千名、今日は山で。
大隊で負傷、戦死有り。
(参考資料:『南京戦史資料集2』南京戦史編集委員会編)
1個大隊だけ、しかも
2日間だけで、1万7500名もの
捕虜を殺害した
という記録だ。
日本軍全体で、何日間もかけた
「捕虜処断」
の総数は、
はたして
どれほどだったのか、想像を絶する。
当時、南京に駐在していた
ドイツ外交官の
外交文書が
残されており、そこには
本国とのやりとりが記されている。
以下に
引用しよう。
(岩田勇治訳『資料・ドイツ外交官の見た南京事件』大月書店)
南京入城のさいの
日本軍の所業については、語らぬに
越したことはない。チンギス=ハーンを思い出さずには
いられないほどの
徹底した破壊ぶりであった。
(中略)
こうして南京に残っていた女という女はまったくひどい
目にあわされた。
これを
目の当たりにした男たちと
このことについて話をするのは容易ではない。残忍非道な
行為にたいする嫌悪感が、かれらの胸によみがえるからだ。
日本国内では、いまだに
この虐殺事件をめぐって
「論争」が
止まない。
しかし、虐殺そのものの否定や
学問を装う
自由主義史観の「学者」もどきの主張も含めて、これらの論は
国際社会という舞台では
歯牙にもかけられない
というのが
実情であり、狭い日本の
ごく一部でしか、通用していない。
これは メッセージ 28798 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28799.html
埋葬記録と犠牲者数推計(2)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/21 23:27 投稿番号: [28798 / 29399]
前述した
慈善団体などによる
遺体の
収容・埋葬に関して
とくに
多数の埋葬作業にあたった団体としては、「紅卍会」と
「崇善堂」
があり、1937年12月から
38年3月までに
両者併せて
約15万5000体以上を
埋葬している。
東京裁判でも
南京虐殺事件の
最大の証拠とされたのが、
これら
慈善団体などによる
作業報告だった。
南京虐殺マボロシ派は、こうした数字はウソだ
と決め付ける。
なかには、崇善堂は民間の葬儀屋なので、多額の報酬を得るため
数を水増ししているのだ
という根拠のない説を唱える者もいる。
しかし、崇善堂は
日本軍の依頼にもとづき業務にあたっていた。
軍が依頼して
報酬を支払ったのであり、当然
その費用は
公金であるから、最低限の実績確認・検査は
行っている。
仮に
水増しがあったとしても、日本の役人の目を
欺くのには
限度というものがある。
なお、通常
戦場の掃除は自軍兵士や
捕虜が実行する。
軍がわざわざ民間団体に
委嘱したことは、
捕虜を大量に殺害したため労働力不足となったうえ、軍だけでは
処理しきれないほどの遺体が存在していた事実を
示している。
紅卍会と
崇善堂による遺体収容は、南京行政区の中だけであり、
周辺地域や
南京沿いを除く
揚子江などは
含まれていない。
さらに、遺体埋葬を行ったのは
この2つの組織だけではなく、
紅十字会(赤十字)など
複数の機関も
別途実施した。
したがって、南京周辺だけに限っても
約20万以上の
遺体が
存在していたということは、間違いない事実だ。
大量の遺体が遺棄されていたという事実は、日本軍の関係者も
記録している。
たとえば、第16師団の佐々木到一支隊長は
日記に
次のように
記している。
「この日、わが支隊の作戦地域内に遺棄された敵屍は1万数千に
上り
その外、装甲車が江上に撃滅したもの
ならびに各部隊の
俘虜を合算すれば、我が支隊のみにて2万以上の敵は解決されて
いる筈である。(中略)
午後2時ごろ、概して掃蕩を終わって
背後を安全にし、部隊を纏めつつ前進、和平門にいたる。」
「その後俘虜続々投降し来たり数千に達す、激昂せる兵は上官の
制止を肯かばこそ、片はしより
殺戮する。
多数戦友の流血と
十日間の辛酸を顧みれば
兵隊ならずとも『皆やってしまえ』と
言いたくなる。」
「白米は
もはや一粒もなし、城内には
有るだろうが、俘虜に
食わせるものの
持ち合わせなんか
我が軍には無い筈だった。」
(佐々木到一少将私記「南京戦史資料集」南京戦史編集委員会編)
佐々木少将が
大ウソつき
でなければ、支隊のみで2万以上の
敵兵を「解決」したこと、俘虜だと認識しながら
殺戮したこと、
食料が底をつき
俘虜の給養は不可能であった状況
などが判る。
このほかにも
数千あるいは数万の単位で捕虜を処断した事実を
記録している軍関係の資料が多数
残されている。
では、短期間に
これほどの大量殺戮が
可能だったのだろうか。
これは メッセージ 28797 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28798.html
埋葬記録と犠牲者数推計(1)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/21 23:26 投稿番号: [28797 / 29399]
南京城の内外には、夥しい数の
集団埋葬地が
存在している。
南京大学(旧金陵大学)
天文台そばの
金陵大学難民収容所及
遇難同胞記念碑、紫金山を望む
中山陵(孫文陵)近くにある
集団埋葬地なども
その一つ。
また、北極山の
至る所に
埋められた遺体叢葬の記念碑の数は、じつに
二千を超える。
犠牲者の遺体は
次の5つのルートで
埋葬、処理された。
①
国際委員会によるもの
同委員会のメンバーであるベイツは、戦後の東京裁判で証言し、
南京陥落後
72時間以内に、国際委員会が雇った
労働者が
埋葬した軍人・市民の遺体は「3万体に達した」と語っている。
②
慈善団体や宗教団体等によるもの
南京城内外に放置された
遺体の埋葬作業にあたった
団体で、
紅卍会
43,123体、
崇善堂
112,267体、
中国赤十字社
22,683体、合計
約178,000体の
埋葬記録がある。さらに
同善堂という団体が7,000体余
を埋葬したと記録されている。
③
市民の埋葬によるもの
市民の手で
合計36,000体あまりを収容・埋葬している。
湖南の木材商
盛世征、昌開運が出資して行った
水西門外の
遺体収容が28,730体、城南市民の
張瀉儒、楊広才らが
難民を組織して
中華門外の
7,000体あまりを
収容。
また、回教徒の埋葬隊が収容・埋葬した遺体は
約400体。
④
汪兆銘政権によるもの
汪兆銘政権(南京政府)
の市、区の両級機関の
共同組織が
7,400体を収容・埋葬したと記録され、うち第一区役場が
1938年2月に
同区の所轄内で
1,233体を収容。
下関区役場が
37年12月15日から
38年1月までに、
3,240体を収容。
南京市政公署の
監督官高冠吾が
38年12月から
39年の
春にかけて、衛生局に命じて
中山門外の霊谷寺、馬群一帯の3,000体余を
収容した。
⑤
南京進駐日本軍によるもの
日本軍の資料では、部隊を動員して約15万体を焼却・処理。
うち、南京停泊場の司令部の
足立少佐と
大田寿男が率いた
部隊は、10万体を
長江に投げ捨てたり、江北まで運んで
焼却・土中に埋めた
と記録されている。
また、南京侵攻部隊が処理したものは、5万体とされる。
上述した
遺体収容・埋葬処理の記録を
単純に加算すると
40万体にのぼる。
ただし、収容・処理された
遺体には
重複して集計されたものも含まれている可能性がある。
また、捕虜や市民ではなく、交戦中に戦死した中国軍兵士の
遺体も相当数
含まれている
と考えるべきだろう。
なお、日本軍関係者の記録によれば、揚子江に
投げ捨てたり、
城外に搬送して
密かに埋めた遺体も
少なくはない。
収容できなかったものは記録されず、正確な数を把握することは
残念ながら
困難だ。
したがって、公式には
東京裁判が
認定した犠牲者数「30万人以上」
としか
言えないのだ。
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28797.html
◆すでに決着済みの「強制連行」という大嘘
投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/21 19:06 投稿番号: [28796 / 29399]
韓国人女性、呉善花氏
従軍慰安婦という言葉は最近になって出てきたものです。慰安婦がいたことは事実ですが、強制的に戦地へ連れて行くことなどは絶対にあり得ません。朝鮮も同じ国内でしたから、法治国家として司法の三審制度もあり、無法地帯ではありませんでした。もちろん、警察権力もしっかりしていました。そういう法治主義システムの網をかいくぐって、婦女子を強制的に連れて行くことなど、当時の朝鮮ではとうていできることではありませんでした。
私は韓国で生まれて二十六歳まで韓国で生活していた間、村の女を軍や総督府の官憲が 強制的に連行したといった話はいっさい耳にしたことがありません。
また、私が『生活者の日本統治時代』で、インタビューした植民地世代の韓国人の誰一人として、 そのような光景を見たことも聞いたこともないといっていますにもかかわらず、最近になってそうした話が出るなんて、まったくおかしなことだというしかありません。日本の左翼活動家が反日民族主義の活動家に入れ知恵して以来、 「そういうことがあったらしい」「そういうことがあったに違いない」「そういうことが事実あった」 というようにエスカレートしていったことは明らかです。こうして「従軍慰安婦」問題は、女子挺身他(女性の徴用者たち)と意図的に混同させられ、 大量の女たちが「従軍慰安婦」させられた、強制連行でそうさせられた、という物語がつくられ、 それがあたかも真実であるかのように韓国国内で信じられるまでになってしまったのです。
「台湾人と日本精神」
蔡焜燦(台湾人)著
より
引き揚げ者の中には、海南島から日本兵と共に引き揚げてきた二十名ほどの台湾人慰安婦の姿もあった。彼女達は我々と同じキャンプに収容されて台湾への帰国を待っていた。彼女らは口々に、「海南島は儲かるし、それよりも兵隊さんが喜んでくれたんです」と語っていた。そうした生の声には、日本で騒がれるような強制連行の(悲劇)などは存在しなかったことを、私のこの耳がしっかり聞いている。(略)1999年、8月号の「正論」に掲載された許文龍氏(実業家であり、李登輝総統の国策顧問)の記事も、まさしくそんな氏の客観的な歴史観と実行力の賜物だったと言っていいだろう。日本でくすぶり続ける慰安婦の「強制連行」なる問題に首を傾げた許氏は、戦時中に慰安婦だった女性を集めてその事実を明らかにしたのである。もちろん結果は、日本の一部のマスコミや学識者がヒステリックに訴えるような「強制連行」なる事実は存在しなかった。
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28796.html
◆屁理屈まみれの元慰安婦とやらの証言
投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/21 19:02 投稿番号: [28795 / 29399]
自称・元従軍慰安婦
算数も出来ない韓国人
韓国で元従軍慰安婦のチョン・ソウン氏が80歳で亡くなった。
朝鮮日報は次のように報じた。
『13歳のとき、インドネシアに連れて行かされ、7年間にわたって日本軍の従軍慰安婦として生きなければならなかった「挺身隊おばあさん」チョン・ソウン氏が、26日未明、慶尚南道の自宅で老患で亡くなった。80歳。
チョン氏は、1995年9月、中国で開かれた北京女性大会に、韓国代表として堂々と出席、全世界に向かって、「日本の軍医官から不妊手術を受けさせられ、金の代わりに軍票を受けた。1日平均50人ずつ、週末には100人の軍人と性関係を持たなければならなかった」などど証言。日本軍の蛮行を知らせた人物』
日本軍の蛮行を北京女性大会で話したとの事ですが、この話は100%有り得ません。
一日平均50人、週末100人と性関係を持ったとの事ですが時間的、体力的に不可能です。慰安婦の一日労働時間を15時間と仮定してみますと有り得ない数字が出てきます。
計算方法。
一日労働時間を15時間と仮定。分に直すと15×60=900分。
間の休憩時間を一回5分と定めると50人の場合で49回、よって49×5=休憩時間245分。900−245=655分。655÷50人=1人あたり13分。
100人の場合は休憩回数99回、よって99×5=休憩時間495分。900−495=405分。405÷100=1人あたり4分。
7年間の合計は、6日間が50人、週末が100人なので合わせて週400人。一年は約52週なので年間20800人。慰安婦経験は7年なので14万5600人、つまり約14万6千人と寝た。
一回あたり13分、4分では慰安婦の意味を全く成していませんし、たかが13歳の少女がこれほどまで人気が有ったとでも言うのでしょうか?大人でも身の危険がある上に、13歳の少女なら数日で普通死にます。死去が目に見えている上に年間20800回、合計14万6千回は常識の枠を超えていますので、不可能と断定する以外ありません。また、慰安婦は接客を断る自由が認められており、激務でしたらそれを理由に接客を断れたはずです。
万歩譲って可能だとしても80歳で死去したのですから、誕生年は1924,5年と計算でき13歳の時に従軍慰安婦となったのですから年は1937年となります。1937年当時のインドネシアは蘭領で日本領となったのは1942年の話です。蘭領インドネシアで日本軍の蛮行などありえない話であり完全に自己矛盾に陥っています。本当に慰安婦だったのであればこのような間違った発言は絶対にしません。
この記事を記載した朝鮮日報もおかしいと思ったのか既に記事を削除しています。明らかに少し考えれば問題点に気が付くのですがそれにも気が付かずに堂々と褒め称えている所に韓国の異常を感じます。韓国人は算数の計算も出来ないのでしょうか?また、従軍慰安婦と挺身隊は全く関係ありません。ニュースにもなる人が死去して死者を批判するのは気が進みませんが、結局の所はまた捏造者が1人逝ったに過ぎないのです。
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28795.html
◆慰安婦=性奴隷という噴飯モノの戯言
投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/21 18:56 投稿番号: [28794 / 29399]
=超高給だった当事の「慰安婦」=
●『軍』慰安婦急募
一、行き先
○○部隊慰安所
一、
年齢十八歳以上三〇歳以内体
一、募集
日
十月二十七日
十一月八日
一、開催日
十一月十日頃
一、
待遇
本人面談
一、募集人員
数十名
一、希望者
京城
町一九五
朝鮮旅館内
光
二六四五
(許氏)
●慰安婦(急至)大募集
年齢
一七歳以上
勤先
後方○○
慰安
月収
三〇〇円以上
(前借三〇〇〇円迄可)
午後八時より午後一〇時迄本人
談
今井紹介所
※巡査の初任給が45円だった時代、月収300円というのは現在の価値に換算すると月収133万円以上の高給であり、軍の高級将校の給与に匹敵する。
●強制連行された慰安婦はいたか?(日本側の調査)
当時、内閣官房副長官だった石原信雄氏は、次のように明らかにしている。強制連行の証拠は見あたらなかった。元慰安婦を強制的に連れてきたという人の証言を得ようと探したがそれもどうしても証言がなかった。納得できる証拠、証言はなかったが(今に至るも発見されていない)「彼女達の名誉のために、これを是非とも認めて欲しい」という韓国側の強い要請に応えて、河野洋平氏が強制的という言葉を使ってしまったというわけです。もう少し補足しますと、この問題の初期の段階では韓国政府は、この問題をあまり問題にしたくないような雰囲気を感じたんですけれども、日本側のいま申した人物がとにかくこの問題を掘り起こして大きくするという行動を現地へいってやりましてそしてこれに呼応する形で国会で質問を行うと。連携プレーのようなことがあって、韓国政府としてもそう言われちゃうと放っておけないという、そういう状況があったことは事実です。
●強制連行された慰安婦はいたか?(韓国側の調査)
韓国で慰安婦問題の取組みの中心となっている「挺身隊問題対策協議会」は、元慰安婦として登録された55名のうち、連絡可能な40余名に聞き取りをした。論理的に話が合うか、など、検証をしつつ、その中から信頼度の高い19人を選んで、証言集を出版した。今まで何らかの機会に、強制連行されたと主張しているのは9人だが、信憑性があるとしてこの証言集に含められたのは、4人のみ。さらにそのうちの二人は富山、釜山と戦地ではない所で慰安婦にされたと主張していて、「従軍慰安婦」ではあり得ない。残る2人が、金学順さんと、冒頭の4〜5千万円相当の貯金をしたという文玉珠さんなのだが、この証言集では、強制連行されたとは述べていない。結局、韓国側調査で信憑性があるとされた証言のうち、従軍慰安婦として強制連行されたと認められたものは、ひとつもない、というのが実態である。
■アメリカ軍による北ビルマのミチナ慰安所の慰安婦からの聞き取り報告
捕虜にした朝鮮人従軍慰安婦について米軍が聞き取り調査をした記録が、戦争情報局関係資料、心理戦チーム報告書 No.49、ビルマ(1944年10月1日)に記載されている。
[募集]
1942年(昭和17年)5月、日本人の業者が朝鮮半島に赴き、東南アジアにおける「軍慰安業務」のためとして女性を募集した。高収入、家族の借金返済のための好機、軽労働等の宣伝に応じて多くの女子が慰安婦業務に応募し、200〜300円の前払い報酬を受領した。
[日常生活]
(原告の文玉珠も生活していた)ビルマのミートキーナにおいては、通常二階建ての大きな建物に住んでおり、一人一部屋を与えられていた。食事は経営者が用意したものであった。食事や生活用品はそれほど切り詰められていたわけでもなく、彼女らは金を多くもっていたので、欲しいものを買うことができた。兵士からの贈り物に加えて、衣類、靴、タバコ、化粧品を買うことができた。ビルマにいる間、彼女らは(日本軍)将兵と共にスポーツをして楽しんだり、ピクニックや娯楽、夕食会に参加した。彼女らは蓄音機(レコード・プレーヤー)を持っており、町に買い物に出ることを許されていた。
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28794.html
◆慰安婦強制連行の嘘・デタラメ・捏造②
投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/21 18:54 投稿番号: [28793 / 29399]
●1989年大分市の青柳敦子氏と在日朝鮮人の宋斗会氏という二人の反日運動家が「慰安婦に日本国家が謝罪と補償をする運動」を起こしました。そして原告を100人と被害者を募集しはじめたわけです。
●1990年韓国梨花大学教授尹貞玉氏は吉田証言を事実と信じ込み、挺身隊と慰安婦を同一視しました。そして日本兵29人に対し、慰安婦1人(ニクイチ)のごろ合わせを用いて、慰安婦の数は朝鮮人だけで17万人から20万人いたと換算しています。大学教授であっても反日とか反体制とかいうイデオロギーに捕らわれると巧みなこじつけをするのは、韓国でも日本でも同じです。
4、1991年4月にはソウルの日本大使館が尹氏を呼び、「強制連行の証拠はない」と伝えて韓国挺身隊協議会からの六項目の要求を拒否しました。その六項目とは下記です。
①強制連行を認める
②公式謝罪する
③蛮行の全てを自ら明らかにする
④慰霊碑を建てる
⑤補償をする
⑥歴史教育で語り続ける
●1991年から朝日新聞は従軍慰安婦強制連行に関する一大キャンペーンを開始しました。初めの証言者となった金学順という朝鮮人慰安婦は日本軍に強制連行されたと報ぜられましたが、本人が日本に来て証言したところによれば、14歳の時、家が貧しかったのでキーセンハウスに売られ、17歳になったとき、キーセンハウスの経営者である義父に日本軍の慰安所につれて行かれたことが分かりました。しかし朝日新聞はこれについての訂正記事を出していません。まだ前出の吉田清治の嘘の証言も真実として報道しました。更に宮澤首相訪韓の時に合わせて「挺身隊の名で連行された慰安婦の数は8万人とも20万人とも言われる」という嘘の解説を載せました。その結果、1992年1月宮澤首相は韓国でこの件について謝罪せざるを得ないようになりました。また、その後も河野官房長官談話でこれを追認した形になりました。この二人の日本高官の行った軽率な謝罪が国連に対するクマラワスワミ女史(スリランカ)の「日本軍性的奴隷問題に関する報告書」の中で、日本政府がその犯罪を認めたとされることになったのです。
●1992年1月14日、韓国ではマスコミが一斉に「小学生までが慰安婦にさせられた!」というショッキングなニューズを流しました。ところがこれがまた大言誤報で、真相は女子児童が挺身隊として勤労動員されたというだけの話だったのです。つまり挺身隊=慰安婦というデマを信じたマスコミの判断であったのです。
●1992年11月中央大学教授吉見義明編「従軍慰安婦資料集」が刊行されましたが、その中に「強制連行」を示す資料は一つもありませんでした。その本の解説の中で吉見教授は「一般には、強制連行というと人狩りの場合しか想定しない日本人が多いが、これは狭義の強制連行であり、詐欺などを含む広義の強制連行の問題をも深刻に考えてしかるべきであろう」と述べています。この人はこれまで「強制連行はあった」と論じてきたのに、色々調べていった末、それを裏付ける資料がないことが分かると論点をすり換えて「広義の強制連行」を考えるべきだなどと言い始めました。また「政府が資料を隠しているのかもしれないから、それが出てきたら事情が変わってくる」と暗示しているのも学者らしい狡さを見せつけられます。
●1997年1月3日の「朝まで生テレビ」に出演した吉見義明教授は、「植民地での奴隷狩り的強制連行は確認されていない」ことと、および「挺身隊が慰安婦にさせられた例も確認されていない」ことを認めました。これは日本政府の5年前に調査した公式発表と一致するものです。
従って、従軍慰安婦強制連行問題は、議論が出つくして、調査もしつくして決着していると言わねばなりません。
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28793.html
◆慰安婦強制連行の嘘・デタラメ・捏造①
投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/21 18:54 投稿番号: [28792 / 29399]
●日本ではじめて「従軍慰安婦」を戦争犯罪として世に広めたのが、千田夏光著「従軍慰安婦」(1973年)および「続・従軍慰安婦」(1974年)です。
この本では、千田氏が「挺身隊」として動員された朝鮮人女性20万人のうち、5〜7万人が慰安婦にさせられたと書いています。しかし「挺身隊」とは軍需工場などへ勤労動員された者のことで「慰安婦」とは全く別のものです。
また、挺身隊員で慰安婦になれと強制された例は一つも確認されていません。これは朝鮮の反日運動家が「挺身隊で連れて行かれる者は慰安婦にさせられる」というデマを流したのを、千田氏がろくに検証もせずに書いてしまったようです。
●次に発行されたインチキ本は「私の戦争犯罪−朝鮮人連行−」吉田清治著(1983年)です。この本で吉田氏は韓国済州島で慰安婦にするための女性狩りを度々行ったと告白した上、日本・韓国およびアメリカなどで謝罪講演をして廻りました。
しかし、千葉大学教授の秦郁彦氏が済州島に行って実際に調査したところ、吉田氏が慰安婦にするための女性を1000人近く徴用したとう事実はないことが判明しました。
それに現地の新聞がすでに「吉田証言に該当する事実はない」と報道していたのです。
韓国政府も国際人権委員会も吉田証言を引用して報告書を書いていますが、それは日本の朝日新聞が吉田証言をとりあげて、これを権威付けたからです。
しかし、今日では、吉田証言は全くの嘘であることが証明されて、本人もフィクション(作り話)であることを認めています。
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28792.html
Re: 兵士達の述懐(1)
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/21 06:53 投稿番号: [28791 / 29399]
歩三三作命甲第一二四号
歩兵第三十三連隊命令
十二月十日午前一時三十分
於
下
麒
麟
門
一.第九師団ハ、南京城東南側近ク進出シ、城壁ニ依ル敵ト交戦中ナリ、南京城東北角ハ十五糎砲ヲ以テ九師団ヲ射撃シアリ
南京城攻略ノ端緒ハ、師団ノ柴金山進出攻略ニアル、師団ハ直前ノ敵ニ追尾シ、速ニ南京城ニ肉迫セントス、右側支隊ハ、主力ヲ以テ玄武湖北側地区ヨリ、一部ヲ以テ柴金山付近ヨリ、追撃隊ハ爾近左翼隊トナリ本道南側地区ヨリ攻撃前進ス
二.連隊(Ⅰ.5.8欠)ハ右翼隊トナリ(本道ヲ含マズ)攻撃前進セントス
右側支隊トノ戦闘地境五旗―蒋王廟―玄武湖東方五百米―南京城東北角ヲ通ズル線(線上ハ含ム)、左翼隊トノ戦闘地境下麒麟門、中山門ヲ通ズル線(線上ハ含ム)
野砲第二十二連隊長ハ、野砲十二連隊第二大隊ヲ併セ指揮シ、本道両側地区ヲ前進シ、両翼隊戦闘ニ協力ス
三.前衛ハ、本朝七時〇分下麒麟門西端ヲ出発、獅子埧郭家埧付近ヲ経テ青馬付近ニ進出シ、攻撃目的ヲ以テ本道以北ノ敵情地形ヲ捜索スベシ
四.爾余ノ部隊ハ本隊トナリ、連隊本部、第九中隊、第十中隊、第二大隊(5.8欠)、速射砲、連隊砲中隊、小行李、第二大隊ノ一ヶ小隊ノ順序ヲ以テ、午後七時〇分迄ニ下麒麟門三叉路ヲ先頭トシ、徒上縦隊(要スレバ道路ノ北側ニ集合)、爾後ハ前衛ノ後方四百米ヲ続行スベシ
五.余ハ午前七時〇分本部先頭ニアリ
連隊長
野田
大佐
下達法
命令受領者ヲ集メ口達筆記セシム
↑歩兵第三十三連隊第一大隊の兵士が「南京は忘れた」と言ったそうだが、上記命令によると第一大隊は参加していないよね。
述懐した日本兵は「日本語を知らない」ようだね。
又朝香宮様からの命令などと言うことは無いよね、軍命令と言う事になり、大隊に居るような下士兵卒が知る由もない。
軍命令→旅団命令→師団命令→大隊命令→中隊命令という流れになるんだよ。
上記の流れのように直接大隊に命令は来ない。
これは メッセージ 28783 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28791.html
Re: 兵士達の述懐(1)
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/21 06:15 投稿番号: [28790 / 29399]
歩三三作命甲第四〇四号
歩兵第三十三連隊命令
十月二十三日〇時五五分
於李家凹
一.師団当面ノ戦況大ナル変化ナシ
第十師団ノ一部ハ既ニ省境ヲ突破シ又第十三師団ハ将軍寨ヲ占領シ福田珂ニ向ヒ追撃ヲ準備中ナリ
師団本二十三日萬難ヲ排シ追撃ヲ続行ス右側支隊ハ前任務ヲ続行シ其ノ歩兵第隊及砲兵一中隊ハ風間支隊トナリ本二十三日黎明示ヲ利用シ打虎寨(土門關西南約四粁)急襲占領シタル後周可河ヲ経テ福田珂ヲ経テ福田珂方向ニ進出ス
右翼隊ハ本二十三日白雲山上寺ノ高地ヲ占領之ヲ確保シタル後制高地点ヲ経テ追撃ヲ続行ス
左翼隊ハ本二十三日一部ヲ以テ破求店東北側高地ヲ占領シ主力ヲ以テ陶家山北側高地ヨリ追撃ヲ続行ス
左側支隊長ハ迂回隊ヲ併セ指揮シ本二十三日当面ノ敵ヲ撃破シ両路方向ニ前進ス
左翼隊ト左側支隊トノ戦闘地境ハ柴家山北側鞍部566.3高地(騎龍寺東方約二粁)北側鞍部朱家大廟ヲ連ヌル線トス
砲兵隊ハ本二十三日各一部ヲ以テ両翼隊ノ戦闘ニ協力シ爾余ノ部隊ヲ以テ敵砲兵ノ制壓ニ任ズ
二.連隊ハ本二十三日払暁追撃ヲ再興シ陶家山北側高地ノ敵ヲ撃破シ小界嶺ニ向ヒ追撃セントス
上田大隊(11欠)ハ当面ノ敵ヲ駆逐シ老虎山南方高地ニ進出後王家山西方高地方向ヨリ小界嶺ニ向ヒ追撃ス
三.第一大隊本二十三日払暁追撃ヲ再興シ陶家山北側高地ノ敵ヲ撃破シ小界嶺ニ向ヒ追撃スベシ
四.第二大隊ハ現在地ニ於イテ第一大隊ノ陶家山北側高地攻撃ヲ援助シタル後第二線トナリ第一大隊ノ後方ヲ続行スベシ
五.歩兵砲中隊ハ本二十三日拂曉迄ニ犀牛望月西端付近ニ陣地ヲ変換シ第一大隊ノ攻撃ニ協力スベシ
六.山砲兵中隊ハ依然現陣地ニアリテ第一大隊ノ攻撃ニ協力スベシ
七.迫撃砲大隊ハ依然現陣地ニアリテ第一大隊ノ攻撃ニ協力シ特ニ第一大隊陶家山北側高地攻撃ニ方リ其ノ稜線ニ沿ヒテ行フ逆襲阻止ヲ準備スベシ
八.発煙中隊ハ約一小隊ヲ以テ第一大隊ノ攻撃ニ協力セシメ主力ハ依然予備隊ト共ニ行動スベシ
九.爾余ノ諸隊ハ依然前任務ヲ続行スベシ
一〇.予ハ犀牛望月西端在リ第一線ノ前進ニ伴ヒ陶家山北側高地ニ前進ス
連隊長代理
渡
辺
綱
彦
下達法
命令受領者ヲ集メ口達筆記セシム
↑兵隊が此の事を思い出さないという事は無いだろう、連隊長が負傷した事を。
これは メッセージ 28783 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28790.html
Re: 兵士達の述懐(1)
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/21 03:50 投稿番号: [28789 / 29399]
国際法に違反するような事を証明する資料は現在迄発見されていない。
逆に、国際法を遵守したという証拠は五万と在る、日本国内外に。
これは メッセージ 28783 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28789.html
兵士達の述懐(5)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/21 03:28 投稿番号: [28788 / 29399]
16師団歩兵第38連隊第1大隊の兵士の証言は次のとおり。
南京の
和平門に着いた。
門が閉まっていて
野砲が
どんどんと撃った。
抵抗がやんだので縄梯子で登った。
中にいた敗残兵が、次々と
手を挙げて
出てきました。
大隊長は「切れ」
という仕草をして両手を振り下ろし
ました。
命令ですので
みんなで
突き殺しました。
門を入ると捕虜を集めていました。
捕虜は、固まって
こちらに
十五、六人、あちらにまた
十五、六人と
たくさん
いました。
それを
集めていましたな。
第33連隊
第2大隊の
兵士の証言は
次のとおり。
十二月十三日南京陥落後の翌日朝八時頃に南京の太平門に
入りました。
そこで
十四日、十五日と
二日間警備を
しました。
入った日の
前々日の攻撃で
死んだ死体が
そのまま
放ったらかしてありました。
松井司令官の命令で
各師団長に、師団長から各中隊長に
伝わってきていたと思うんやが、兵隊は何事も命令なしで
勝手にやってはならんからな。
当時分隊長が「男は皆
殺してしまえ!」
と言って
話は覚えています。
下記も
同大隊に所属していた
別の兵士の証言だ。
陥落してから、二日ぐらいしてから
南京城内で
掃蕩を
しました。
家を一軒一軒調べて、男なら全部引き出した。
調べることはせえへん。捕まえて調べるので引っ張ることも
あるし、その場で
ぼんと銃でやってしまうこともあった。
同隊の
別の兵士の証言は
次のとおり。
捕虜の処分は
師団命令です。
実際に
私ら兵隊に
命令を下したのは、中隊長で、
「捕虜にした者は全部殺せ」と言って指令されました。
どのぐらいの人数を
殺したか、数は
分かりません。
一日にだいたい一個小隊ぐらい、五十〜六十名ぐらいを
処分しました。
同連隊の第3機関銃中隊の
兵士の証言は
次のとおり。
私らは
小銃中隊の兵隊と一緒に
入城しました。
小銃隊の兵隊が支那の兵隊を銃剣で突き刺しているのを
目撃しました。
男は
みんな捕まえてましたな。
でも、私ら
重機関銃隊は
そんなことをしてません。
実際、南京戦で「支那人を殲滅しろ」
という命令が
私ら
第三機関銃中隊に
来てましたけれど、
各中隊にもそんな命令が出ていたかどうかわかりません。
以上、参考『南京戦・閉ざされた記憶を尋ねて』松岡環編著
社会評論社(2002年8月15日初版第1刷発行)
これは メッセージ 28787 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28788.html
兵士達の述懐(4)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/21 03:26 投稿番号: [28787 / 29399]
前述した
第16師団歩兵第33連隊第3機関銃中隊の
兵士の叙述は、次のように
続いている。
「今から上陸するところは米が穫れる、水牛がおる、」
「支那人は全部殺せ、家は全部焼け」
と言う命令でした。
(略)
上陸してから
常熟で一晩泊り
翌日の出発前に
家を全部
焼き払いました。
民家の中のタンスやらを
積んで火を点けたら全部燃えました。
結構広い部落が
全部燃えました。
そうしたら、後方部隊が来るように
なったので「家を焼くな」
という命令が再び出たんです。
それは無錫の手前でした。
命令は小隊長から聞きました。
同中隊の
別の兵士の証言もある。
内容は
以下のとおり。
中島師団長という人は剛胆な人で、「支那の家を全部焼いて
しまえ」
と言いましてな。
白茆口へ
上陸した時です。
「ここは抗日の一番ひどいとこやから各部落の家は全部焼け」
とも言いました。
私も上陸してから露営して、すぐに家を
焼きました。
仲間内で
伝わって来ましてな。
「師団長が
言うたんで、やってしまえ」
と。
(略)
師団長はそういう人ですので、支那兵はみんな殺してしまえと
二十聯隊か
三十八聯隊か
九聯隊か
知らんけど、
そういうことを
やりましたでしょうな。
それが
問題になったわけです。
(略)
命令授与で
「風紀・軍紀厳正」
という命令は
いつでもありましたけど、じっさいには、支那におった時には
あんまり
やかましく
言われませんでした。
日本の兵隊は
無茶なことしてますわ。
強姦は
南京戦より徐州戦の方が
ひどかったくらいです。
南京でも
もう乱れてましたな。
大量殺戮の背景には、無差別掃蕩命令の存在があった。
同連隊第1大隊に属した
別の兵士の証言を
見てみよう。
十二月十四日、揚子江岸で
捕虜を千二百人いっぺんに
処分しました。日記に書いているように惨いことでした。
処分がすんでから、悒江門から城内へ掃蕩に入りました。
(略)
捕虜剔出には人数を数える暇なくどんどん捕まえました。
捕虜といっても
中国服を着た
男ばっかりでした。
掃蕩をやる時は
中隊長の指揮によってです。
注意事項というものはなく
「戦争に耐えると思えるような者は全部殺してしまえ」と
上部の命令として
言われていました。
直接この命令を聞いた覚えはないが、中隊長か
大隊長が
発したのだろう
と思っています。
実際、男を敵兵として捕らえ、一人ひとりを調べることなど
しませんでした。
おとなしく
投降しても、中国人は全部
殺してしまう。
これは メッセージ 28785 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28787.html
兵士達の述懐(3)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/21 03:06 投稿番号: [28785 / 29399]
第16師団
歩兵第33連隊
第1大隊と
第2大隊の兵士の
証言を引用した。
次に、第3大隊の
兵士の証言を引用する。
昭和十二年八月、大召集を受けて、九月に
久居を出発し、
大阪港から出航しました。九月、十月、十一月は
河北の
戦闘で
韓家頭や八里荘で
初めて戦闘を体験しました。
(略)
部隊本部から「韓家頭の部落を攻撃する。
部落に入ったら、
猫の子でもいいから
生きとる者は、男でも女でも全部殺せ」
と命令が出ました。
それでわずか百メートル先に五十戸位の部落が見えたんです。
これこそと
攻撃をかけたけど、猫の子一匹もいやしません。
粗末な一軒の
農家の中のアンペラが
コソコソと動くので
めくり上げると、四十歳位の
妊婦が
二人の幼児を
両脇に
だきしめて
隠れていました。
コノーと引きずり出すと
子供は泣き叫び
母親の後に
しがみついている。
母親は
もう一人の子を
クリークの中に
つっこんだ。
××伍長が
これこそ戦友の仇と
即座に
銃で三人を
撃ち殺してしまった。
その時は
気がたっていた
というか、女子供なのに
酷いことを
しました。
同連隊
第1機関銃中隊の
兵士の証言は
次のとおり。
私ら行った時は
白茆江やったかな。
弾飛んで来えへんかったということは
敵おらへんかった。
上陸の時
命令受領に行ったら「普通の男も殺せ、皆敵や」
と言われていたで。
家を焼けとの命もあって、うちの中隊でも
放火班があった。
十人位で
火をつけたけども
常熟の前やったか、
一日ぐらいで止めた。
後者の証言にある
白茆江は、南京城攻撃の
1か月前に
攻略した地点であり、すでに
この時点で無差別な殺害を
兵士たちは
命じられていたという事実が
うかがえる。
この事実を裏付ける
別の兵士の
証言もある。
以下は、同連隊
第3機関銃中隊の
兵士の証言だ。
大連から南下して上海から揚子江を上にいった白茆口
という所に
着きました。
そこでは
敵前上陸で、
そこから
どんどん追撃して
南京まで行ったんです。
その時、私は
上からの命令文を
見ました。
「支那人は全部殺せ、家は全部焼け」と書いてありました。
その命令は
白茆口に上陸する
前日に出たんです。
これは メッセージ 28784 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28785.html
兵士達の述懐(2)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/21 03:05 投稿番号: [28784 / 29399]
第16師団
歩兵第33連隊第1大隊所属の兵隊の証言は
他にもある。
たとえば、以下のようなものだ。
行軍が早くて
どんどん進むもんでね。
部落は
日本軍が火をつけて
焼けてますやろ。
上陸した始めの頃は焼いてなかったけど、途中で
そりゃもう、部落を
どんどん焼いてました。
放火分隊って、上陸の時は
うちの中隊もありましたな。
中隊長が
あの部落
焼いてこいって。
家の中には、住民が隠れていてますわな。
それを
殺さなならんのですわな。
それで
兵隊嫌がってましたな。
その命令が出ると。おると殺さないかんのです。
(『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P302)
同大隊の某中隊指揮班の
兵士の証言は
次のとおり。
中隊には「男も女も子どもも区別なしで殺せ」という命令が
出ました。
つまり
虐殺でした。
攻略戦で、その残虐さは
南京に入ったらすぐそうでした。
(略)
南京攻略戦は
ちょっと
やりすぎでした。
反日の根拠地というので、南京に入るまでは
家を全部焼け
という命令が
ずっと出てました。
すると
また後続部隊が
泊まる所がないからといって、
家を焼くのを中止したんです。
とにかく「家は全部焼いて
人間は全部殺せ」
という命令でした。
命令が出てなかったら
こっちは
しませんよ。
(略)
南京攻略戦は手当たり次第やったので、戦争がしやすかった。
それも
もちろん命令が
あったからです。
皆伝え聞いて
分かっていました。
中支では、上陸してからずっとやりたい放題にやっとったんです。
その代わり
こっちの被害も
多かったですな。
あそこは
支那の部隊も
集中してました。
次に、同連隊
第2大隊の
兵士の証言を
見てみよう。
南京に向かう途中
どこの戦闘だったかは忘れたけれど、
部落があって、あそこに共産党がいる
ということで、
上から「負傷者に関わらず全部共産兵なので、全部殺せ」
と命令してきたんです。
それで部落に火を点けると、後ろから煙が上がってきました。
その中から
オギャーオギャーと
赤ちゃんの泣き声が
聞こえてきました。
これは メッセージ 28783 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28784.html
兵士達の述懐(1)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/21 03:04 投稿番号: [28783 / 29399]
捕虜の殺害は
明確に
国際法に
違反する行為だったが、
非戦闘員である
一般市民に対する
残虐行為も、当然
違法行為であり、人道上からも
許されない蛮行だった。
第16師団
歩兵第9連隊第2大隊の
兵士は、
次のように
証言している。
「子どもにしても年寄りにしても誰でも全部殺してしまえ」
と聯隊長の命令が
でました。
二人とか三人とかの百姓を
捕まえてきて、
「そこらに兵隊はおるかおらんのか」などの尋問して
地形を聞いて、後は
殺してしまうんです。
クリークの縁に
連れ出して、そこに
座らせました。
将校は、めったに
刀で首切りなんて
できへんのやから、
軍刀持ってるさかいに
試し切りを
するんです。
私ら兵隊は
突き殺しました。
鉄砲の弾
できるだけ使うな
と言われてました。
また、同師団の歩兵第33連隊
第1大隊の兵士は
次のように
叙述している。
上海の近くで
敵前上陸して
南京に向かったな。
途中、クリークや大きな池を越えたりして行くので
大変やった。
工兵隊が橋を作ってくれたりしてな。
南京へ攻めていって、揚子江で
たくさんの死体が
流れていくのを見たな。
女や子どもも入っとるやろね。
いや入ってて当然や。私も下関で軽機で撃っとるけどね。
敵が(揚子江を)下って行くのを撃った。
しかし南京のことは忘れてしまった、ぜんぜん憶えてない。
ただ
上から「男見たら殺せ」
と命令されたことだけは
よう憶えとる。
南京へ行くまでに常熟か無錫辺りかな、もうそういう命令が
出ていたな。
部隊長の××中尉が言ったんじゃないか。
あるいは「人見たら殺せ」とな。
(『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P159-160)
同じ大隊に属した
別の兵士の証言も
見てみよう。
南京戦の時、当時の宮さん〔朝香宮〕から命令があって、
その命令は
中隊長か小隊長から聞いたけど、
「犬も猫も含め生きている者は全部殺せ」ちゅう
命令やった。
天皇陛下の命令やと
言ったな。
当時のことを書いた日記帳は終戦の時に全部焼いた。
(『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P271)
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28783.html
Re: 証拠隠滅(1)
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/20 05:44 投稿番号: [28782 / 29399]
証拠を隠滅したというその証拠を何故知っているの?
軍が多くの資料を焼却したと言うが、其の中にどの様な資料が在ったかを何故知っているの?
断片的資料には、南京虐殺どころか、軍の規律が守られていた事しか書いてないよ。
少なくとも敗戦時には、日本軍の永久保存の文を含んで一千萬ページは残っていたし、それは総て今国内に有る。
これは メッセージ 28774 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28782.html
Yahoo! Japan 掲示板 アーカイヴ
[検索ページ]
(中東)
(東亜)
(捕鯨 / 捕鯨詳細)