盧溝橋事件は支那共産党の仕業
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2004/10/26 20:30 投稿番号: [6750 / 29399]
盧溝橋事件は支那共産党の仕業だったというのは、もはや疑う余地がありません。
盧溝橋事件の原因をつくった中国共産党
http://www.history.gr.jp/showa/227.html
(一部抜粋)
盧溝橋事件の僅か数時間後に、中国共産党が中央委員会をもって「・・・われらは進攻する日本軍に対して断固攻撃を加えるとともに、新たな大事変に即応する準備を急ぐよう要求する。・・・武装して北平(北京)、天津、華北を防衛しよう・・・」という通電を全国に発している。
事件の真相が明らかとなっていなかった時点で、このような通電を発し得たという事は、中国共産党が盧溝橋事件に明確に関与し、戦略的な意図が充分にあったと考えられる。
盧溝橋事件を拡大させたコミンテルン指令と日本人虐殺事件
http://www.history.gr.jp/showa/228.html
(一部抜粋)
ソ連・コミンテルンは次のような指令を発したのである。
・「あくまで局地解決を避け、日支の全面的衝突に導かなければならぬ。
・日本への譲歩に依(よ)って、支那の解放運動を裏切ろうとする(中国人)要人を抹殺(まっさつ)してもよい。
・下層民衆階級に工作し、・・・・国民政府をして戦争開始のやむなきにたち到らしめなければならぬ。
・党(中国共産党)は対日ボイコットを全支那的に拡大しなければならぬ。
・紅軍は国民政府と協力する一方パルチザン的行動にでなけらばならぬ。」
(興亜院政務部興亜資料政治篇「盧溝橋事件に対するコミンテルン指令」)。
シナ事変
http://www8.ocn.ne.jp/~senden97/nikkajihen1.html
(一部抜粋)
最初に闇討ちを仕掛けてきたのはシナのほうです。蘆溝橋の近くで日本軍が夜間演習をしていると暗闇から銃撃され、さては国民党軍が撃ってきたのだと判断し、やがて戦闘が始まってしまった。
ところが撃ってきたのは国民党ではなく、もちろん日本軍でもなく、じつはシナ共産党のスパイであったことが今では定説となっている。共産党員の兵士向けのパンフレットに『蘆溝橋事変はわが優秀なる劉少奇同士の指示によって行われたものである』と自慢した記述があった。
間違いなく蘆溝橋事件は毛沢東ひきいる共産党軍の謀略だった。当時の共産党軍は国民党軍との内線に連敗につぐ連敗で、次々と活動拠点が奪われていった。そこでこのじり貧状態を打開するために国民党軍と日本軍を戦わせて漁夫の利を得ようとしたわけです。
日付に注意してほしいのですが、7月7日に慮溝橋事件が起きてから、実に3週間にわたって日本側は必死に不拡大方針をとったのに対して、『南京政府は2日後の7月9日には動員令を出している』のです。この日時から見ても、支那事変を準備し、戦争をはじめ、拡大していったのは中国側であったことは明確です。
日中関係で言えば、1964(昭和39)年7月、日本社会党の佐々木更三委員長らを団長とする訪中団が毛沢東主席と会談した。佐々木更三委員長が例によって「どうも申し訳ないことをしました」と謝罪したところ、毛沢東主席は「何も謝ることは無い。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらしてくれた。『お陰で中国人民は権力を奪取することができた』。日本軍なしにわれわれは権力を奪うことはできなかった」と答えた。これは東大近代中国史研究会訳の『毛沢東思想万歳』という資料に出てくる話である。
また、1977(昭和52)年に三岡健次郎・元陸将が訒小平さんと会談して際、訒は「日本は中国を助けたことになっている。日本が蒋介石を重慶まで押し下げてくれたので、われわれは日本軍の占領地域の後方に広がった。皆さんだけを責めるのは不公平と思う」と発言している。
Ω Ω Ω
支那共産党が仕掛けたという、もう一つの証拠は「七・七事変」という名称です。
もう一度、別な視点から日付に注目してください。
彼らが日本軍に発砲したのは7月7日ですが、日本軍が反撃したのは7月8日です。
日本軍を犯人に仕立てたければ、支那共産党は「七・八事変」としなければなりません。
ところが、なぜ「七・七事変」としたのか?
7月7日に最初に仕掛けたのが支那共産党だからと考えざるを得ない。
盧溝橋事件の原因をつくった中国共産党
http://www.history.gr.jp/showa/227.html
(一部抜粋)
盧溝橋事件の僅か数時間後に、中国共産党が中央委員会をもって「・・・われらは進攻する日本軍に対して断固攻撃を加えるとともに、新たな大事変に即応する準備を急ぐよう要求する。・・・武装して北平(北京)、天津、華北を防衛しよう・・・」という通電を全国に発している。
事件の真相が明らかとなっていなかった時点で、このような通電を発し得たという事は、中国共産党が盧溝橋事件に明確に関与し、戦略的な意図が充分にあったと考えられる。
盧溝橋事件を拡大させたコミンテルン指令と日本人虐殺事件
http://www.history.gr.jp/showa/228.html
(一部抜粋)
ソ連・コミンテルンは次のような指令を発したのである。
・「あくまで局地解決を避け、日支の全面的衝突に導かなければならぬ。
・日本への譲歩に依(よ)って、支那の解放運動を裏切ろうとする(中国人)要人を抹殺(まっさつ)してもよい。
・下層民衆階級に工作し、・・・・国民政府をして戦争開始のやむなきにたち到らしめなければならぬ。
・党(中国共産党)は対日ボイコットを全支那的に拡大しなければならぬ。
・紅軍は国民政府と協力する一方パルチザン的行動にでなけらばならぬ。」
(興亜院政務部興亜資料政治篇「盧溝橋事件に対するコミンテルン指令」)。
シナ事変
http://www8.ocn.ne.jp/~senden97/nikkajihen1.html
(一部抜粋)
最初に闇討ちを仕掛けてきたのはシナのほうです。蘆溝橋の近くで日本軍が夜間演習をしていると暗闇から銃撃され、さては国民党軍が撃ってきたのだと判断し、やがて戦闘が始まってしまった。
ところが撃ってきたのは国民党ではなく、もちろん日本軍でもなく、じつはシナ共産党のスパイであったことが今では定説となっている。共産党員の兵士向けのパンフレットに『蘆溝橋事変はわが優秀なる劉少奇同士の指示によって行われたものである』と自慢した記述があった。
間違いなく蘆溝橋事件は毛沢東ひきいる共産党軍の謀略だった。当時の共産党軍は国民党軍との内線に連敗につぐ連敗で、次々と活動拠点が奪われていった。そこでこのじり貧状態を打開するために国民党軍と日本軍を戦わせて漁夫の利を得ようとしたわけです。
日付に注意してほしいのですが、7月7日に慮溝橋事件が起きてから、実に3週間にわたって日本側は必死に不拡大方針をとったのに対して、『南京政府は2日後の7月9日には動員令を出している』のです。この日時から見ても、支那事変を準備し、戦争をはじめ、拡大していったのは中国側であったことは明確です。
日中関係で言えば、1964(昭和39)年7月、日本社会党の佐々木更三委員長らを団長とする訪中団が毛沢東主席と会談した。佐々木更三委員長が例によって「どうも申し訳ないことをしました」と謝罪したところ、毛沢東主席は「何も謝ることは無い。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらしてくれた。『お陰で中国人民は権力を奪取することができた』。日本軍なしにわれわれは権力を奪うことはできなかった」と答えた。これは東大近代中国史研究会訳の『毛沢東思想万歳』という資料に出てくる話である。
また、1977(昭和52)年に三岡健次郎・元陸将が訒小平さんと会談して際、訒は「日本は中国を助けたことになっている。日本が蒋介石を重慶まで押し下げてくれたので、われわれは日本軍の占領地域の後方に広がった。皆さんだけを責めるのは不公平と思う」と発言している。
Ω Ω Ω
支那共産党が仕掛けたという、もう一つの証拠は「七・七事変」という名称です。
もう一度、別な視点から日付に注目してください。
彼らが日本軍に発砲したのは7月7日ですが、日本軍が反撃したのは7月8日です。
日本軍を犯人に仕立てたければ、支那共産党は「七・八事変」としなければなりません。
ところが、なぜ「七・七事変」としたのか?
7月7日に最初に仕掛けたのが支那共産党だからと考えざるを得ない。
これは メッセージ 6739 (c2mk さん)への返信です.